DIL 関谷 久平

個々の内なる光を皆様と共に探究する関谷久平(晧元)のブログです。

愛の享受と愛の実践

2010年05月21日 23時37分37秒 | Weblog
『あなたが既に与えられている、途方もなく莫大な財産の再発見のお手伝いをしているだけ』と、世界中の一人ひとりに「真の己自身に出逢う」という最奥の大悟へのいざないを与え続けて来たマハラジ。

誰にも何のお金も要求しない。会員募集も無い。講師も幹部も養成不用。大講堂を建設して恰好つけるでもない。教本など一冊の書も発刊していない。勿論ペンダントやその他のグッズ販売も無い。拝む対象のご本尊など無いから買うものさえ何も無い。

そんなマハラジ(プレム・ラワット)だが、このBLOGのBBSで広報しているように「プレム・ラワット財団」の設立者となって、世界の各地で人道支援活動をしている。

そんな人助け出来るような軍資金がどうして集まるの?
募金活動がどこにも無いのに?

それは・・・本当の「己自身に出逢えた人」が、歳月を重ねるごとに、その歓び、その満たされ、人生の究極の幸福感の実感! それがあまりにも有難くなって、自発的にマハラジを通した人道支援に寄付をしたくなって行くから・・・。

そういう人が世界中に沢山出て来たので、財団が出来上がり、念願の「歓びの分かち合い」を実践している訳だ。

こんな素晴らしいことが、実際にこの世の中で今日もまた行われている。








高尚な教えを述べる人

2010年05月15日 11時33分44秒 | Weblog
「目から鱗」のような素晴らしくためになる教えを述べる人で、宗教界は満ち溢れている。『あの先生は素晴らしい』『いやこっちの先生はもっと高尚な佳境に入っている』『いやいや〇〇先生は別格だ』。

そうした「法を説く人」が実は日本国内だけでも20万人もいる。
その教えを信じて追従する人がまた、それぞれに何万人も着いている。
法として理論的に説けば、まるで神様のように尊敬されてゆく。尊敬は良いことだ。教えはどれもこれも立派なもので、人生を豊かな思いを持って生きて行ける。

問題は、各派がどこでも『ここが一番でほかは大した教えではない』と比較して排他的となり、他の教派を見くだすは勿論のこと、自分たちだけが、恰もエリート集団であるかの如く思い込んで独善的になり、その先は、神のみこころの責任者のつもりで「聖戦」に走りたくなる歪んだ正義感を育ててゆくことだ。
ドン!パチ!までは撃たないまでも、宗教宗派間の激烈な争いは誰でももうとうの昔にご存じのはず。

それでも人間は長年の習慣から来ているのか、常に常に、高尚な教えを説く人を待望している。
そしてある人ひとりが立派な説法を始める。新興宗教が出来ると、次から次へと信者も増えて行く。ある数に成るまでは低姿勢。だがしかしある時からは・・・。

各派の主義主張の若干のズレから戦争は必至。それぞれが他者をも自分の好みに合わせたいのが人情だから。

どうして多くの人は気付かないのだろう?
一番素晴らしい高尚な教えを説く人とは・・・「あなたに無くて必要なもの」(不満)に気づかせてくれる賢者ではなく、「あなたが生まれながらにして既に十二分に持っているもの」(満たされ)に気づかせてくれる賢者であることを。

世界中の人々(政治家まで)が、それに気付いた時に、初めて本当の平和が訪れることを。