気を許せる相手には気を使わなくてもいいというわけではない。軽い気持ちで色々話せる相手を軽んじてもいいというわけではない。自分の人となりをわかってくれている相手に全てを理解してくれることを求めることもいけない。
人から何かを問われたり、意見されたりしたとき、大切なのは反論することではなく改善策、解決策を見つけること。
気を許せる相手には気を使わなくてもいいというわけではない。軽い気持ちで色々話せる相手を軽んじてもいいというわけではない。自分の人となりをわかってくれている相手に全てを理解してくれることを求めることもいけない。
人から何かを問われたり、意見されたりしたとき、大切なのは反論することではなく改善策、解決策を見つけること。
自分が何かをしようとする時、もちろんその行動は自分の欲求に基づくものなんだけど、実際に行動に起こす前に思考してみる段階で、どうしても他人の顔が浮かんでくる。
この、「他人の目を気にする」っていうのは2つの相反する感情の入り混じりで、良いものとも悪いものとも言えない。
1つは、「自分の評価を気にする」気持ち。単純に他人から自分がどう思われ、評価され、レッテルを張られるのかを気にしているわけだ。これは非常にネガティブな感情で、殊の外に利己的である。
もう1つは、「他人の心情を慮る」気持ち。これは前者とは違って他人というものを意識し、大切にしているからこそ生まれてくる気持ちだ。大切な人がいるからこそ、行動に移す前にその人の顔が浮かび、その気持ちを思ってこそ踏みとどまるのだ。
だから、他人の目を異常に気にする臆病者も、他人の目を全く気にしないマイペースな人間も、実は等しく利己的なんだと自分は思う。
臆病者もマイペースな者も、極端な者になると顕著なのが、人間関係で苦労するという点である。自分はおそらく前者、かつ利己心が強いのでもう目も当てられない。しかも、この極端な臆病者やマイペースな者たちは、人間関係が上手く行かない理由が自分にあるとは思っていないことが多い。
過去に利己心の暴走で多大な迷惑をかけてしまった人たちが大勢いる。時々思い出してはどうすれば禊をすることができるのか、清算できるのか、そればかり考えてしまう。
でもきっと、そういう人たちにとっては自分という人間と関わらないことが無上の幸せなんだろう。だから、自分に出来ることはほとんど無い。
そもそもマイペースな人たちと臆病者は手を取り合ってやっていけるわけが無いのだから、上手くいかないのも無理は無い。
人のことを考えすぎて嫌われるのも、人のことを考えなさすぎて嫌われるのもあまり変わらない。真逆なようで似た者同士。
人のことを考えすぎて嫌われる、というのはよく思われたくて大げさなことをいったり、出来もしないことを引き受けたり、気にし過ぎて逆に角が立ってしまったり…そういうこと。
考えなさ過ぎて嫌われるっていうのは、例えば予定をキャンセルしているのに同じ日に別の場所にはいたりとか、逆に予定があるにも関わらずその前の予定を早めに切り上げないとか、場の空気を読まない発言をするとか…そういうこと