「原山観音堂」というところから住宅街の道路を西に向かって500m も歩くと「日吉神社」に着きます。
この説明版には「創建年代は不詳ですが、御神体は元禄四年(1691)に三ヶ島の照明院から遷宮されたものです。現在の御霊社(社殿内に祀られている)は文化七年(1810)に、波多野文右衛門が奉納したものです。 別名 日枝神社、山王権現ともいわれます 祭神 大山咋尊(くいのみこと)」と書かれている。
これは末社ですね。
境内には、このような忠魂碑もあります。
これが本殿になります。質素な造りですが周囲は木々に囲まれ落ち着いた雰囲気でした。この神社に奉納されている「重松ばやし」は一時衰退しましたが、昭和27年に復活し、市の無形民俗文化財になっています。次に訪れたのは堂宇の萩の尾薬師堂といい、武蔵村山市中央にある薬師堂です。
自治会の集会所にもなっているようですね。
薬師堂とありますが、萩の尾薬師堂の創建年代等は不詳ながら、天正18年(1590)に滝山城が落城した際に、北条氏の家臣石川土佐守の娘の持仏である薬師如来を祀ったといいます。境内には「延文元年(1356)八月十六日了意禅尼」と刻された宝篋印塔が残されています。
これが、その宝篋印塔です。
この宝篋印塔は、延文元年(一三五六)の紀年銘がはっきり読み取れる中世石塔である。宝篋印塔は五輪塔と並んで広く普及した塔か太刀で、基礎、塔身、笠、相輪の四つの部分から成っているのであるが、この塔は現在、笠および基礎部分が残るだけである。しかし、基礎部分の二重の枠(格座間)などに延文期の関東型の宝篋印塔の特徴をよく示している。さらに、銘文には歿故了意禅尼という被葬者名と中世南北朝時代の北朝年号である延文の年号を用いた死去年月日が刻まれている。本市における数少ない中世の歴史資料として、大変貴重な文化財である。とありました。
誰か、熱心に勉強して調べに来ている方もいました。
つづく
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