グッドさんは3年間、最後の1年間は、ボランティアとして、病院に入って、風疹症候群の子供たちにかかわっていきます。エスノメソドロジーという方法の、研究の仕方です。つまり、風疹症候群にかかわっている人に、アンケートをとったり、インタビューをしていくのではなく、その子供たちと一緒に生活をすることで、子供たちの中に入り込むことで、子供たちのことを知る試みをする方法です。その中で、ケースワーカーさんと同じく、子供たちがおしっこを漏らしてしてしまった時に、着替えを手伝ったり、すべてのことを、できる限り、体験していきます。
彼にとって、病院の先生よりも、実際に、子供たちにかかわっている、ケースワーカーさんたちに、個人的に子供たちのことを知りたいときは情報を得ることにしていました。本当の、子供たちの、ことを、知っているのは、決して、偏見がなかったとはいえないにしろ、現場で長いこと子供たちと一緒にいて、働いている人たちです。医療専門家、の作ったファイルを見ることはなかったそうです。また、リハビリテーションのプログラムを作るときに、ケースワーカーさんたちの意見を全く、取り入れてないことにも、問題点を挙げています。子供たちのできること、できないこと、生活していくうえで、いかに困難か、そういったことすべては、現場の声が詳しく、一番助けになったと言います。でも、その中で、ケースワーカーさんたちは、常に教育して、正していく、役割を持っていたと言っています。お医者さんの、診断、治療という立場とは違って、ケースワーカーさんたちは、子供たちの監護、子供たちが、生活するうえで、基本的な技術を教育していくという任務を持っています。多くの子供たちが、食べたり、飲んだり、歩いたりとしたことでさえ、困難です。その中で、ケースワーカーさんたちは「人も時間も足りないのに、あまりに、多くの治すべき子供たちがある。」という視点を持っていた、と書いてあります。彼は、その立場さえ、本当かな?という、疑問をいれています。その作業は、あまりにも大変だったため、多くの人は、燃え尽きていったし(バーンアウト、燃え尽き症候群)、少し関心の高い人たちは、昇進して、労働条件のいい他の部署や病院へ移っていったそうです。
スタッフが次々と変わっていく中で、2つの子供に対する視点、社会的立場というものが、この病院の中では作られていっていると定義しています。一つは、お医者さんからの、やりにくい患者さん、もう一つは、ケースワーカーさんからの視点、監督するのがとても難しい生徒です。グッドさんは、普通の社会の子供に比べると、まったく子供たちの意見、意志、というものを考慮に入れてないことに気づきます。普通の社会では、子供たちは、話すこともできれば、知覚を使って、コミュニケーションします、その中で、子供たちの好み、というものも、確実に重要視されます。それは生まれたての赤ちゃんでも、この音楽を聴くと喜ぶ、とか、おむつがぬれてたら、嫌な気持ちがする、とか、お腹が空いているからからぐずる、など、子供意思を尊重して、どうにか、子供の気持ちを察して、家族は生活していきます。それは子供のためでもあるし、生活をスムースに、楽しくやっていく、方法ともいえるかもしれません。でも、病院にいる、子供たちは、そのことは、重要視されません。子供たちが、どのように、自分自身を感じているのかはもちろんのこと、子供たちが、モノや起こってくることに、どのような関心や興味があるのか、ないのかは全く考慮に入れられていません。そういう意味では、グッドさんは訓練中の動物と同じように扱われているように感じます。スタッフに、このことを指摘すると、「この子供たちは、考えも目標も持たないのだ」という、子供たちを間化する答えを得ます。もちろんこの子供たちは、私達が持っている、言語、言語的シンボルは持っていません。でも、子供たちの視点というのは、常にあるものです。子供たちは、いつまでも、行うことに対して、どういう意味があるのか、どういう目的で行っているのかということをわからずに、無理やり、行わさせられていきます。それを理解させようという努力は全くする必要はないことになっています。どうして洋服を着替えるのか、食事をするとはどういうことなのか、トイレになぜいかなくてはいけないのか、すべてのことを理解させる、必要はなく、することが必要で、それは子供が嫌がっても、どうでもいいこととして、日常は過ぎていくのです。
ヒューマニティー(人間性)を目的とする作業、をケースワーカーさんたちはしているとして、それが、非人間的行為を使用してしまっているということを前提に、子供を扱っているという、矛盾を持っていることを指摘していきます。
それは、目に障害を持っている子供たちが、食事をしていくうえで、必ずしも、フォークやスプーンを使わず、手で食べる傾向があること、それは、この病院の世界では、必ず直すべきこと、人間らしくみられるためには、その必要があるということを主に、とても厳しく教育されていきます。でも、グッドさんは、目の見えない人が、大人であっても、手で食べるという行為は、ごくごく、自然で、大切な行為であって、そのこと自体が問題なのではなく、そういったことを受け入れられない社会、ということが問題なんだと言っています。目の見えない方々が、食べれるかどうかを手にさわって、においをかいで確認することは、自立の一歩であるとのこと。つまり、レストランのメニューで、目の障害を持っている方用に、手で食べれるもの、たとえばおにぎりとか手で食べることができるように作ったメニューを、提供してもおかしくないし、そういう社会になることが理想だと言っているんだと思います。それは、目の不自由な方々が、お箸を使えないということではなくって、そういう選択もある、という、社会が、その幅広さを持つべきなんだ、ということを言っているように感じます。
グッドさんは、研究テーマを、言葉を持たない子供たちといかにコミュニケーションするかということ以上に、子供たちの意志や、目標をいかに理解するべきか、子どもたちがきわめて能動的な心的過程をもち、複雑な社会的参加をしているか、ということを重要な点としていきます。
その研究発表は、その時代には、他の研究者から受け入れられず、しばしば、「精神科医の診察を受けるよう」にと書かれた、匿名のメモを渡されることもあったようです。子どもたちが、かれら自身の視点をもって、出来事に接する、そうした視点に興味を向けるべきだとかという考えは、その時代、70年代前半には考えられないことだったようです。
その中でも、ケースワーカーさんたちの支持は、受けられます。
現場で働いている人たちは、何より、子供のことを知っていて,ある意味「賢い」子供たちの行動を理解していきます。
その視点を持って、グッドさんは、どのように、子供たちと付き合っていったのでしょうか?
まだまだ、グッドさんの研究は続きます。
彼にとって、病院の先生よりも、実際に、子供たちにかかわっている、ケースワーカーさんたちに、個人的に子供たちのことを知りたいときは情報を得ることにしていました。本当の、子供たちの、ことを、知っているのは、決して、偏見がなかったとはいえないにしろ、現場で長いこと子供たちと一緒にいて、働いている人たちです。医療専門家、の作ったファイルを見ることはなかったそうです。また、リハビリテーションのプログラムを作るときに、ケースワーカーさんたちの意見を全く、取り入れてないことにも、問題点を挙げています。子供たちのできること、できないこと、生活していくうえで、いかに困難か、そういったことすべては、現場の声が詳しく、一番助けになったと言います。でも、その中で、ケースワーカーさんたちは、常に教育して、正していく、役割を持っていたと言っています。お医者さんの、診断、治療という立場とは違って、ケースワーカーさんたちは、子供たちの監護、子供たちが、生活するうえで、基本的な技術を教育していくという任務を持っています。多くの子供たちが、食べたり、飲んだり、歩いたりとしたことでさえ、困難です。その中で、ケースワーカーさんたちは「人も時間も足りないのに、あまりに、多くの治すべき子供たちがある。」という視点を持っていた、と書いてあります。彼は、その立場さえ、本当かな?という、疑問をいれています。その作業は、あまりにも大変だったため、多くの人は、燃え尽きていったし(バーンアウト、燃え尽き症候群)、少し関心の高い人たちは、昇進して、労働条件のいい他の部署や病院へ移っていったそうです。
スタッフが次々と変わっていく中で、2つの子供に対する視点、社会的立場というものが、この病院の中では作られていっていると定義しています。一つは、お医者さんからの、やりにくい患者さん、もう一つは、ケースワーカーさんからの視点、監督するのがとても難しい生徒です。グッドさんは、普通の社会の子供に比べると、まったく子供たちの意見、意志、というものを考慮に入れてないことに気づきます。普通の社会では、子供たちは、話すこともできれば、知覚を使って、コミュニケーションします、その中で、子供たちの好み、というものも、確実に重要視されます。それは生まれたての赤ちゃんでも、この音楽を聴くと喜ぶ、とか、おむつがぬれてたら、嫌な気持ちがする、とか、お腹が空いているからからぐずる、など、子供意思を尊重して、どうにか、子供の気持ちを察して、家族は生活していきます。それは子供のためでもあるし、生活をスムースに、楽しくやっていく、方法ともいえるかもしれません。でも、病院にいる、子供たちは、そのことは、重要視されません。子供たちが、どのように、自分自身を感じているのかはもちろんのこと、子供たちが、モノや起こってくることに、どのような関心や興味があるのか、ないのかは全く考慮に入れられていません。そういう意味では、グッドさんは訓練中の動物と同じように扱われているように感じます。スタッフに、このことを指摘すると、「この子供たちは、考えも目標も持たないのだ」という、子供たちを間化する答えを得ます。もちろんこの子供たちは、私達が持っている、言語、言語的シンボルは持っていません。でも、子供たちの視点というのは、常にあるものです。子供たちは、いつまでも、行うことに対して、どういう意味があるのか、どういう目的で行っているのかということをわからずに、無理やり、行わさせられていきます。それを理解させようという努力は全くする必要はないことになっています。どうして洋服を着替えるのか、食事をするとはどういうことなのか、トイレになぜいかなくてはいけないのか、すべてのことを理解させる、必要はなく、することが必要で、それは子供が嫌がっても、どうでもいいこととして、日常は過ぎていくのです。
ヒューマニティー(人間性)を目的とする作業、をケースワーカーさんたちはしているとして、それが、非人間的行為を使用してしまっているということを前提に、子供を扱っているという、矛盾を持っていることを指摘していきます。
それは、目に障害を持っている子供たちが、食事をしていくうえで、必ずしも、フォークやスプーンを使わず、手で食べる傾向があること、それは、この病院の世界では、必ず直すべきこと、人間らしくみられるためには、その必要があるということを主に、とても厳しく教育されていきます。でも、グッドさんは、目の見えない人が、大人であっても、手で食べるという行為は、ごくごく、自然で、大切な行為であって、そのこと自体が問題なのではなく、そういったことを受け入れられない社会、ということが問題なんだと言っています。目の見えない方々が、食べれるかどうかを手にさわって、においをかいで確認することは、自立の一歩であるとのこと。つまり、レストランのメニューで、目の障害を持っている方用に、手で食べれるもの、たとえばおにぎりとか手で食べることができるように作ったメニューを、提供してもおかしくないし、そういう社会になることが理想だと言っているんだと思います。それは、目の不自由な方々が、お箸を使えないということではなくって、そういう選択もある、という、社会が、その幅広さを持つべきなんだ、ということを言っているように感じます。
グッドさんは、研究テーマを、言葉を持たない子供たちといかにコミュニケーションするかということ以上に、子供たちの意志や、目標をいかに理解するべきか、子どもたちがきわめて能動的な心的過程をもち、複雑な社会的参加をしているか、ということを重要な点としていきます。
その研究発表は、その時代には、他の研究者から受け入れられず、しばしば、「精神科医の診察を受けるよう」にと書かれた、匿名のメモを渡されることもあったようです。子どもたちが、かれら自身の視点をもって、出来事に接する、そうした視点に興味を向けるべきだとかという考えは、その時代、70年代前半には考えられないことだったようです。
その中でも、ケースワーカーさんたちの支持は、受けられます。
現場で働いている人たちは、何より、子供のことを知っていて,ある意味「賢い」子供たちの行動を理解していきます。
その視点を持って、グッドさんは、どのように、子供たちと付き合っていったのでしょうか?
まだまだ、グッドさんの研究は続きます。