先日、図書館で、外国人女性の集まりに参加しました。
お友達のモロッコのお母さんに何度か誘われたからです。
私はこういう会は実は苦手です。それは日本人としてふるまわなくてはいけないからです。
私はここで毎日、外国人だから、という感覚では暮らしてはいません。もちろん、見た目はイタリア人とは違います、でも、私には自分自身は見えないので、違いを感じられないのかもしれません。こちらの言葉を使って、こちらの小学校に子供たちは通っていて、イタリアに税金も払っていて、残念なことに、あまり日本との付き合いもありません。
外国に住んでいると、まず、私のことを説明するときに、日本人のお母さんとか、日本人の奥さん、とか、外国人の、アジア系の、中国人の(多くの人は、日本人と、中国人の見分けはできません。)、東洋人の、移民の黒丸さんということになります。日本にいると、、大半の人が日本人なので、日本人の、という見方はしません。当たり前ですが、、、。今となってみれば、イタリアに暮らしている
私と接するときは、そのことを踏まえて、あなたは日本人だから、という形で、接してくれているわけです。イタリア人にとっては、お客さんをもてなす側、私たち、外国人にとっては、もてなされているということを前提に、コミュニケーションをしていきます。助けてあげる側と、助けられる側と言っていいのかもしれません。それが逆転することはありません。施しをもたらす側と、施しを受ける側。でもそれって本当かな?
そういう役割をもって人と接するのは、私にとって、すごく不自然に感じるのです。もちろん自分自身にもそういう役割を求めるし、相手にとっても、そういう役割を求めます、それが大人の関係せいなのかもしれません。
でも、人間だから、その役割を超えたところに、つながりがあるのではないかなっと思ってしまうのです。私は人と接するときに、どこで働いているとか、どこの国から来たとか、昨日何話してたとか、何の宗教を信じているとか、以上に、この人はどういう人なんだろう、ということに一番興味があります。でも、往々にして、見た目で判断してしまうこともあります。
それは、ハンディキャップを持っている人や子供も同じなんだろうなって思います。ハンディキャップを持っている人が、どうしていつも、助けてもらう側にいるような、考え方を私は持っているんだろう、どうして、助けてもらわないと生きていけないか弱い存在でいなくちゃいけないんだろう。体が動かないから、目が不自由だから、足が不自由だから、耳が聞こえないから、ただそういった機能を持っていないだけで、どうして私たちは、不自由な弱い存在として、扱ってしまうんだろう、、、。一人の人間は、一人の人間で、何にも変わらないのに。もしかしたら、もっと大切な何かを与えてくれているのかもしれないのに。
親子の関係も、役割を考えると、私は親だから、あなたのことをだれよりも知っている、何をすべきかも、知っている、だからこうしなさい、ということになってしまうのだけど、本当の親子の関係を考えたら、やっぱり愛情にあふれたきずな、信頼以上に大切なものはないよな、型にはまった役割って最終的には機能しないかもなって思っているのです。子供から教わることだって、すごくあるのです、でも役割を考えて、心を閉ざしていたら、何も教われません。
私は外国人として暮らしていて、言葉は上手ではないかもしれません、もしかしたら、普通イタリアではしないこともたくさんしているのかもしれません、助けてもらうことも沢山あります、それに感謝していないわけではありません、でも一人のいっぱしの人間として、この国で生きていくには、まだまだ、お互い知らなくちゃいけないことがたくさんあるなーと思っているのです。
それは、日本という国を、ありきたりな文化を知ってもらうことではなくって、多くの違った文化を持った人や、育った環境が違う人や、ハンディキャップを持った人が、同じように、同じ場所を共有して、楽しく、より豊かに暮らしていけるしってことなのかもしれません。
外国人女性の会で、どういったことを伝えていくことが、お互いを尊重しながら、真の関係を築けるのかな、と思っているのです。
お友達のモロッコのお母さんに何度か誘われたからです。
私はこういう会は実は苦手です。それは日本人としてふるまわなくてはいけないからです。
私はここで毎日、外国人だから、という感覚では暮らしてはいません。もちろん、見た目はイタリア人とは違います、でも、私には自分自身は見えないので、違いを感じられないのかもしれません。こちらの言葉を使って、こちらの小学校に子供たちは通っていて、イタリアに税金も払っていて、残念なことに、あまり日本との付き合いもありません。
外国に住んでいると、まず、私のことを説明するときに、日本人のお母さんとか、日本人の奥さん、とか、外国人の、アジア系の、中国人の(多くの人は、日本人と、中国人の見分けはできません。)、東洋人の、移民の黒丸さんということになります。日本にいると、、大半の人が日本人なので、日本人の、という見方はしません。当たり前ですが、、、。今となってみれば、イタリアに暮らしている
私と接するときは、そのことを踏まえて、あなたは日本人だから、という形で、接してくれているわけです。イタリア人にとっては、お客さんをもてなす側、私たち、外国人にとっては、もてなされているということを前提に、コミュニケーションをしていきます。助けてあげる側と、助けられる側と言っていいのかもしれません。それが逆転することはありません。施しをもたらす側と、施しを受ける側。でもそれって本当かな?
そういう役割をもって人と接するのは、私にとって、すごく不自然に感じるのです。もちろん自分自身にもそういう役割を求めるし、相手にとっても、そういう役割を求めます、それが大人の関係せいなのかもしれません。
でも、人間だから、その役割を超えたところに、つながりがあるのではないかなっと思ってしまうのです。私は人と接するときに、どこで働いているとか、どこの国から来たとか、昨日何話してたとか、何の宗教を信じているとか、以上に、この人はどういう人なんだろう、ということに一番興味があります。でも、往々にして、見た目で判断してしまうこともあります。
それは、ハンディキャップを持っている人や子供も同じなんだろうなって思います。ハンディキャップを持っている人が、どうしていつも、助けてもらう側にいるような、考え方を私は持っているんだろう、どうして、助けてもらわないと生きていけないか弱い存在でいなくちゃいけないんだろう。体が動かないから、目が不自由だから、足が不自由だから、耳が聞こえないから、ただそういった機能を持っていないだけで、どうして私たちは、不自由な弱い存在として、扱ってしまうんだろう、、、。一人の人間は、一人の人間で、何にも変わらないのに。もしかしたら、もっと大切な何かを与えてくれているのかもしれないのに。
親子の関係も、役割を考えると、私は親だから、あなたのことをだれよりも知っている、何をすべきかも、知っている、だからこうしなさい、ということになってしまうのだけど、本当の親子の関係を考えたら、やっぱり愛情にあふれたきずな、信頼以上に大切なものはないよな、型にはまった役割って最終的には機能しないかもなって思っているのです。子供から教わることだって、すごくあるのです、でも役割を考えて、心を閉ざしていたら、何も教われません。
私は外国人として暮らしていて、言葉は上手ではないかもしれません、もしかしたら、普通イタリアではしないこともたくさんしているのかもしれません、助けてもらうことも沢山あります、それに感謝していないわけではありません、でも一人のいっぱしの人間として、この国で生きていくには、まだまだ、お互い知らなくちゃいけないことがたくさんあるなーと思っているのです。
それは、日本という国を、ありきたりな文化を知ってもらうことではなくって、多くの違った文化を持った人や、育った環境が違う人や、ハンディキャップを持った人が、同じように、同じ場所を共有して、楽しく、より豊かに暮らしていけるしってことなのかもしれません。
外国人女性の会で、どういったことを伝えていくことが、お互いを尊重しながら、真の関係を築けるのかな、と思っているのです。