旧大里村の吉見地区に北廓館という館跡があります。
館跡としてはかなり古い時期のもので、過去、発掘調査で縄文期から平安期にかけての集落跡・遺物が発掘されて
いるそうです。
また地元では有名なとうかんやま古墳というかなり大きな古墳を中心とした古墳群もあり、古代から発展した地域だったと
思われます。
館跡は、現在、小学校がある荒川低湿地に突き出た岬状の先端部分にあったとされています。
早速、現場に行ってみましたが、聞き取りをしたところ、地元の方も館跡の認識が全くなく、「これは相当な難物だ」と
思わざるをえませんでした。
ただ、自分の母方の一族がこの地域にゆかりが深く、地元の伝説などを知っていて、地域の成り立ちに若干の知識が
あったので、あとは、フィールド・ワーカーらしく歩き回って、情報収集を行い再構成をはかる
という、いつもの方針をとろうと思いました。
まず、当該地域には吉見神社という上毛野国造御諸別王の直系須長氏が宮司を務めている神社があります。
北廓館はこの吉見神社の道路を挟んで反対側にあります。
また、吉見神社には大蛇伝説があります。現在、吉見神社の裏の湿地、
現在は農業排水用開削された九頭竜川があります。
わたしの子供時代にも、ここで大蛇を目撃して毒気に当てられて入院した人が出たという、世間話を聞かされて
ビビったことがあります。
実際そういうものがいてもおかしくない雰囲気がありました。
さて、大蛇伝説といえば、民俗学などの知見から水神を示すと同時に、河川沿いに産する砂鉄を用いた製鉄の発展を
示唆するものであると知られています。ヤマタノオロチ伝説などがその好例ですが、古代須長氏もまた、権力基盤を、
ここから産出される砂鉄においていた考えられます。
現在は、堤防整備が充実し、砂質の河川敷などどこにも見当たりませんが、かつて蛇行を繰り返していた時代には、
砂の溜まる場所も多かったのでしょう。
以上のような理由から、須長氏に関係する館跡であろうというのが、わたしの推定です。
さて、北廓館跡とされる地域です。
まず、北側から登ります。
登り口附近で道が、ほぼ90°に折れ、そこに土壇状の盛り上がりがあります。下の写真の左側部分がそれです。
よく解釈すれば、ここが虎口らしい部分だと言えます。
その後なだらかな坂道を直進します。
学校の敷地はがけのギリギリのところまで迫っていて、この辺りが館跡だったことを示していると思いました。
その北側は、一段低いテラス状の平場になっています。
人手がそれなりに加わっているものと見たのですが、遺構なのかは判断に苦しむところです。
下の写真は南側から、今見た道を撮影したものです。
南側にある耕地端に残存した土の盛り上がりですが、これが土塁とは断定できませんね。
直接的に土塁や堀と思われるものを見つけるのは現状かなり難しいと思います。
付近住民の方に館跡という認識が希薄なために、質問がほとんどかみ合わないのです。
また、当日寒かったこともあり、外出する住民の方も少ないのです。
巨大な土塁なのかと一瞬思いましたが、これがとうかんやま古墳でした。
お話を伺った方も、多くの人は、「館跡は知らないが、古墳が大きいからそこに行ってごらんなさい」と、
盛んに勧められました。
とうかんやま古墳を土塁として用いたという説もあるようですが、そう考えたくなる気持ちもよくわかるものの、
現状では否定も肯定も言えないと思います。
結局、この調査では3時間を費やしてしまいました。なかなか難しい館跡だったと思います。
日も傾き、冷たい風が強くなったところで、北廓館跡を後にしました。