9期の方からコメント欄にいただいた質問に答えて。
S台予備校に行くと、必ず教わることになっているのでしょうが、説明するより先に具体例から。
kempaと申します。
の「申す」のような例がそれに該当します。
古文における「謙譲語」は「動作を受ける人を高めるため」に使います。(したがって「客体敬語」ないし「受け手尊敬」という言い方で「謙譲語」を呼ぶ先生もいらっしゃいます。)
ところが、先の「申す」はじゃあ「誰に?」って考えても答えが出ない。「kempa」と「申す」のは目の前にいる人が誰であろうと「kempa」なのであって、自分より目上には「pa-kem」のように名乗り方を変えたりはしませんね。ということは、これは特定の誰かに対しての尊敬表現ではなく、むしろ現在の謙譲語と同じように自分がへりくだった語のようにして考えた方がいい。そういう状態の言葉です。
用例としては「参る・いたす・申す」などがあります。
時代劇で見たりするかも知れませんが「拙者とともに参られよ」なんてのも、荘重体敬語と言えます。この「参る」もその行き先にいる人が偉かろうが偉くなかろうが用いられます。(行くあてがなくても使うしね)
古文で教わる謙譲語だと「~に」にあたる人を高めることになるため、この「参られよ」は不具合な表現ということになります。
じゃあ「参る」を使うことでへりくだっているのか?というと、「拙者とともに参る」人は「拙者」ではありませんから、他人を勝手にへりくだらせちゃあ具合が悪い。つまり、この「参る」には誰に対してのへりくだりも発生していない。もちろん「~に」の「~」にあたる人物に対する敬語でもない。じゃあ敬語じゃないんじゃないの?
てことで、尊敬語とも謙譲語ともいえないものになってしまって、学校の文法では手に負えなくなってしまった敬語のことなのよ。(高等学校では敬語は三種類、と教えることに決まっています)
荘重体敬語は尊敬・謙譲・丁寧の三つの分類だと丁寧語と一番性格が近いもの、とみなされています。
「文法」って「文の法則」ってことだけど、「法則」を見つけるのは
「用例の収拾」→「分類」
って手順がいるからね。どうしても「はみだしっこ」はでてくるのさ。
これは蛇足だけど「文法」って考え方自体が西洋の考え方の輸入版だから、言語の組成が全く違うものの、その考え方だけ借用してあてはめようとすることに無理があるってわけ。ただし、奥深いところまで覗こうとしなければ、その例外に出くわすこともないわけだから、たんに「受験にムダ」な知識かあ、って思わないで「自分の学問もけっこう深まってきたんだなあ」と考えていればよろしいのではないでしょうか。
おっと、勝手に浪人と決めつけてはいけないね。大学で語学に勤しむ方からのコメントかもしれない。
ついでに。
落窪の解答と通釈を載せてほしいということだけど、授業でやったぞ。
てことで時間があれば、考えておきます。試験はあさってだけど。
S台予備校に行くと、必ず教わることになっているのでしょうが、説明するより先に具体例から。
kempaと申します。
の「申す」のような例がそれに該当します。
古文における「謙譲語」は「動作を受ける人を高めるため」に使います。(したがって「客体敬語」ないし「受け手尊敬」という言い方で「謙譲語」を呼ぶ先生もいらっしゃいます。)
ところが、先の「申す」はじゃあ「誰に?」って考えても答えが出ない。「kempa」と「申す」のは目の前にいる人が誰であろうと「kempa」なのであって、自分より目上には「pa-kem」のように名乗り方を変えたりはしませんね。ということは、これは特定の誰かに対しての尊敬表現ではなく、むしろ現在の謙譲語と同じように自分がへりくだった語のようにして考えた方がいい。そういう状態の言葉です。
用例としては「参る・いたす・申す」などがあります。
時代劇で見たりするかも知れませんが「拙者とともに参られよ」なんてのも、荘重体敬語と言えます。この「参る」もその行き先にいる人が偉かろうが偉くなかろうが用いられます。(行くあてがなくても使うしね)
古文で教わる謙譲語だと「~に」にあたる人を高めることになるため、この「参られよ」は不具合な表現ということになります。
じゃあ「参る」を使うことでへりくだっているのか?というと、「拙者とともに参る」人は「拙者」ではありませんから、他人を勝手にへりくだらせちゃあ具合が悪い。つまり、この「参る」には誰に対してのへりくだりも発生していない。もちろん「~に」の「~」にあたる人物に対する敬語でもない。じゃあ敬語じゃないんじゃないの?
てことで、尊敬語とも謙譲語ともいえないものになってしまって、学校の文法では手に負えなくなってしまった敬語のことなのよ。(高等学校では敬語は三種類、と教えることに決まっています)
荘重体敬語は尊敬・謙譲・丁寧の三つの分類だと丁寧語と一番性格が近いもの、とみなされています。
「文法」って「文の法則」ってことだけど、「法則」を見つけるのは
「用例の収拾」→「分類」
って手順がいるからね。どうしても「はみだしっこ」はでてくるのさ。
これは蛇足だけど「文法」って考え方自体が西洋の考え方の輸入版だから、言語の組成が全く違うものの、その考え方だけ借用してあてはめようとすることに無理があるってわけ。ただし、奥深いところまで覗こうとしなければ、その例外に出くわすこともないわけだから、たんに「受験にムダ」な知識かあ、って思わないで「自分の学問もけっこう深まってきたんだなあ」と考えていればよろしいのではないでしょうか。
おっと、勝手に浪人と決めつけてはいけないね。大学で語学に勤しむ方からのコメントかもしれない。
ついでに。
落窪の解答と通釈を載せてほしいということだけど、授業でやったぞ。
てことで時間があれば、考えておきます。試験はあさってだけど。
講師には高島屋のエレベーターガールの
「まもなくエレベーターが参ります」と
「このエレベーターは5階に参ります」の
"参ります"がそれにあたると言われたのですが。
なかなか噛み砕けずにいました。
つまりは、本来敬意の対象を必要とするKSTの他に、
敬意の対象のないそれが出てきた場合は荘重体敬語として
訳してもよい!と理解することでいいのでしょうか。
ともあれご説明ありがとうございます!
ただし、気になるのは現代語と古文では「敬語」の考え方も異なるので、荘重体ってどういうもの?って話の例はエレベーターガールの例でもいいんだけど、敬意の対象うんぬんは違う話になるからね。