『ふりょの星』暮田真名(くれだ まな) から
左右社 二〇二二年四月二十八日発行
寿司ひとつ握らずなにが銅鐸だ
いけにえにフリルがあって恥ずかしい
正体が笑気ガスでも友達だ
十字路がある水でよかった
意味は自動ドアごしの黙祷
やがて元通りに嘘になるだろう
余力があれば荒廃しよう
貧乏だといわれた方が幸せだ
調律をしても心が痛まない
ほんとうはあらゆるものが裏起毛
シャトルバス以外は荒野なのだから
音がないところもあるが友達だ
彼女の句は言葉の意味に過剰に頼ることを良しとしていない。短歌から入り、川柳を書き始めてわずか5年で『補遺』『ぺら』『当たり』(3つとも私家版)、『ふりょの星』と川柳句集を出している。書いたものは世に問うという純粋な文芸の世界だ。
全日本川柳協会という大きな組織を意に介せず、各地大会にも何の関心ももたずに、ただ書きたい川柳を書いて世に問う。彼女はSNSでも毎日多くの発信をしている。彼女の川柳の魅力に集まる人にWEB上のオンラインで有料の講座まで開いている。名前を検索すると何件もヒットする。そのような積極的な若い人は少なからず見られる。文学を深く学んだ基礎があるとはいえ、向き合い方が半端ない。彼女にとって川柳は趣味ではないのだ。
webのTHA SANKEI NEWSの【聞きたい。】から彼女の言葉(「 」内)と記者の書いた記事から箇条書きで引く。(赤字部分)
・「…(川柳人の)小池正博さんの『水牛の余波』という句集に衝撃を受けました。そこでは言葉が人間の目的のために使役されず、人間とは無縁に存在しているように感じられたんです」
・「一般的な川柳は、共感を誘い、くすっと笑えるものを目指していますが、それって現状を追認する危険性をはらん
でいるように感じます。私は読んで安心できないものを書きたい」
・一般になじみのある川柳が「あるある」を志向するならば、自身は逆に「ないない」を目指すのである。
・言葉にピンときたら、それを川柳の定型「5・7・5」のなかに放り込む。その際に論理性は無視する。
・「『溜飲(りゅういん)を下げる』といった心性から無縁であるという一点において、これらの奇行は美しい」
最近の現代川柳は彼女のほかにも短歌や映像から若い世代が流れてきている。俳句よりも短歌と川柳は近い。そもそもジャンルという概念が崩れてきているのかもしれない。先日、やはり最近歌人ながら川柳句集を出した平岡直子さんとの対談で、「人を傷つけないでおこうと思ったことはない」と発言した。つまり、純粋に書くことだけに向き合うという文学的示唆に富んだ発言だろう。
間口の広い川柳の世界だからこそこのような川柳を無きものとしてはならない。未知の分野を排除すれば趣味や楽しみとしての川柳は残るだろうが、文芸としての川柳はやせ衰えてゆく。定型(五七五または七七)で話し言葉で詠むというくくりである以上、たしかに川柳にちがいないのだから。私の詠む川柳が古川柳の域に入ろうとしているのを実感する。50年後100年後はどのような川柳世界が展開されるのだろう。立ち会うことができないのが残念だ。 いわさき楊子