
バド・パウエル、アメリカのジャズピアニスト、作曲家。1924年ニューヨーク生まれ。40年代初頭クーティ・ウイリアムス・バンド(Cootie Williams Band) のピアニストとしてプロデビュー。40年代後半、急速に発展するビバップ・スタイルを先導。ピアノ演奏の分野で一時代を築き、後世のジャズピアニストに絶大な影響を与えた。1959年にフランスに渡り、ケニー・クラーク達とトリオを組む。64年ニューヨークに戻る。66年41歳で早世。人種問題で、20歳のとき、警官から、頭部に打撲を受け、脳内部に損傷を受ける。人生の後半、精神病院に入退院を繰り返し、アルコール、薬物依存など多難な一生を送った。しかし彼の華やかなピアノと、毅然とした写真からは、人生の苦悩は感じられない。
Anthlopology
パウエルは現役当時から、音楽的センス、ピアノ演奏技術、創造性において、最高の評価を受けている。63年のTime誌では「疑いもなくもっとも重要なジャズミュージシアン、世界でベストのビバップ・ピアニスト」と絶賛している。ビバップとは、メロディーと和音の組合せのうえに、早いテンポ、高い演奏技術、即興性によって特徴付けられるジャズのスタイルで、モダンジャズの原点とされる。ピアノの王様デューク・エリントンは「パウエルのピアノは、あらゆる世代のジャズピアニストの手本」と評価している。パウエルはモダンジャズピアニストの元祖、いやモダンジャズそのものの元祖と言えるかも知れない。
Cleopatra's Dream (自作)
それでは、パウエルのどこがいいかといえば、素人目には、とにかくカッコいい。There Will Never Be Another You (Harry Warren曲)、Like Someone in Love (Jimmy Van Heusen曲)、Cleopatra's Dream (自作)、Bouncin' With Bud (自作)。形式としては、ビバップ演奏といえるが、分かり易く、聴き手を惹き付ける魅力にあふれる。複雑、難解なビバップスタイルを超越している。彼の演奏の特徴は、左手は単純化したコード(時にビバップを特徴づける)をアルペッジョ風(一人時間差的)に弾き、右手は自由で滑らかなメロディーラインを追求することにあるそうだ。同時代あるいは後世のジャズピアニストがすべてパウエルのように演奏することになったと言うから、革新的なものであったに違いない。
There Will Never Be Another You
パウエルの祖父はギタリスト、父はピアニスト、兄はトランペッター、弟もピアニスト。幼い時からクラシックピアノを習った。8歳頃からジャズに興味を持ち始め、アート・テイタムやファッツ・ウオーラの曲を自分の解釈で演奏した。音楽の才能とは、先天的なものであることが、あらためて感じられる。セロニアス・モンクは初期の師であると同時に、生涯を通じて良き同僚であった。7歳違いの若いピアニストの才能を、いち早く見抜き、多くの曲を編曲して贈った。モンクはパウエルこそ自分の作品を演奏できる唯一の人間だと信じていた。見上げた兄貴分である。パウエルの並外れた才能は、Minton's Playhouse (ハーレムにある有名なジャズクラブ)に集まるジャズ音楽家達を仰天させる。マイルス・デーヴィス(2歳年下)をして、パウエルのように創造し、演奏し、すべての分野に精通した音楽家をほかに知らない、と言わしめる。
Around Midnight (Thelonious Monk作曲)
40年代前半、多くのジャズメンはチャーリー・パーカー(alto sax)の影響下にあった。パウエルは、パーカー・チルドレンの一人である。パーカーの意図するBebopの真髄をいち早く自分のものにする。楽器は違っても、早く正確に弾く技術は、お互いの刺激になったことが、容易に想像できる。パーカーとパウエルは演奏と即興性で、Bebopスタイルを追求したパートナーといえるが、後年はライバルの関係にあった。パーカーはアルコールと薬物依存症が影響して、55年に34歳の若さで世を去っている。パーカーのニックネーム「バード」の名前からとった、ニューヨークの名門ジャズクラブ、パウエルもたびたび演奏した、「Birdland」は今も営業を続けている。
パウエルは経歴上もっとも重要な20歳台に頭部に打撲を受け、その後しばしば頭痛に悩まされる。47年には精神病院に入院を余儀なくされる。電気痙攣治療も含まれそのたびに記憶が失われていく。一年以上入院生活を送ったあと、トリオのリーダーとして、数々のレコーディングをおこなう。49-50年のThe Amazing Bud Powell Volume I にはBouncin' With Bud, Dance of the Infidels, Un Poco Loco などの自作曲。50-51年のアルバムGenius of Bud Powell には、Tea for Two, Hallelujah, Parisian Throughfareなど。 51年冤罪による、麻薬法違反で精神病院に収容される。再び電気ショック療法を受ける。彼の演奏は相変わらず立派だったが、演奏は次第に予測不可能な状態になっていく。当時の一流のジャズメン達と共演中、いざこざを起こしたり、極端に神経質になっていく。
Bouncing With Bud (自作)
56年にヨーロッパ公演で大成功を収め、59年にフランス移住を決意する。ニューヨークのジャズメンたちのヨーロッパ移住について、当時のジャーナリストは生々しく実情を伝えている。63年当時ヨーロッパで仕事をする米国人ジャズメンは100名を超えていた。必ずしも「ボンジュール・ヨーロッパ」ではなく「グッバイ・アメリカ」が理由だった。収入も一晩20ドルを超えることは滅多になかった。ただしヨーロッパの人たちの、「ジャズはアフリカ系でないと演奏出来ない」、という偏見?のために、絶大な人気を博した。Time誌は、こうしたジャズメンの代表として、いみじくも Chet Baker(tp), Kenny Clark (ds), Bud Powell (p)をとりあげている。パウエルについては、パリの生活は、静かで、孤独だった。めったに人と話すこともなく、酒を飲むことが多かった。パリのBlue Noteで時には演奏したが、情緒不安定で演奏を中断することもあったそうだ。パウエルの場合、脳の病気のため麻薬を使用せざるを得なかった。麻薬のイメージが米国では犯罪、ヨーロッパでは病人用とされることに、安らぎを得ていたのかも知れない。
Dear Old Stockholm (1964年パリ演奏)
64年米国へ戻ることを決意する。世の中はビートルズ全盛のロックの時代。それでもクラブ「Birdland」はパウエルのために舞台を提供した。この時の演奏について、64年のTime誌は「Jazz: Bud's O.K.」(バドは健在)なるタイトルで、昔と変わらぬパウエルの演奏をたたえている。引用されている曲 The Best Thing for You Is Me は見つからなかったが、Like Someone in Loveは名演として残る。それから僅か2年後の66年にニューヨークの病院で世を去る。死因は結核、栄養失調、アルコール依存症。数千人の人々がハーレムでの葬儀の行列に参加した。
Over The Rainbow を聴いてみる。堂々とした骨太のRainbow、硬質な演奏。感傷的なところがない代わりに、強く生き抜く決意のようなものが感じられる。
Over The Rainbow
参考アルバム(iTunes Store)
The Best of Bud Powell
Strictly Powell(Bebop)-Bud Powell Trio
Jazz Giant
The Amazing Bud Powell
Bud Powell in Paris
Bouncing with Bud
Bud Powell - MAD BEBOP