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ジャズピアノに乾杯

ピアノで聴くモダンジャズ。

ジョン・ルイス (1920-2001)

2010-09-24 | 日記
生い立ち
ジョン・ルイス (John Lewis)は1920年イリノイ州の生まれ。育ったのはニューメキシコ州アルバカーキ、7歳の時に母親からクラシック音楽のピアノを習う。ニューメキシコ大学で音楽と人間学を学ぶ。第二次大戦中、フランスに駐留の時、ジャズの先輩、ケニー・クラーク(dr)に会い、バンドを作った。45年除隊後は大学で音楽の研究を続けた。

出会い
46年にニューヨークに移る。ケニー・クラークの推薦で、セロニアス・モンクに代わり、ディジー・ガレスピー(tp)のバンドに雇われる。ルイスはバンドのために作曲もした。同じ年、チャーリー・パーカー(sax)と協演。49年から51年にかけて、マイルス・デイビス(tp), レスター・ヤング(sax), J.J.ジョンソン(sax), ズート・シム(sax) といった一流のプレイヤーと協演する。

MJQ誕生
51年のある日、ガレスピー・バンドの仲間、ミルト・ジャクソン(vib), パーシー・ヒース(b)、ケニー・クラーク(ds)、ルイス は、地方のさえないクラブでの演奏を終え、ジャクソンの車に乗っていた。ルイスは、それまでのジャズのスタイルに飽き足らず、新しいバンドを作りたいと持ちかけた。ルイスの計画は、劇場やコンサートホールで受け入れられるような小編成のバンドを作ることにあった。52年新バンドが結成される。名称は当時グループが使っていた、ミルト・ジャクソン・クアルテット(MJQ)から、モダン・ジャズ・クアルテット(MJQ)に変更された。ドラムは55年からコニー・ケイに代わる。その後解散までメンバーの変更はなかった。MJQはルイスにとって念願の、チェンバー・ジャズの実現の場であった。作曲はもちろん、音楽監督として一生このバンドにかかわることになる。完成したスタイルは批評家をして impeccable (非のうちどころなし)と言わしめる。

ジャンゴ(Django)
ベルギーのギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトへの追悼曲としてルイスが54年頃作曲した。バンド随一の人気曲になる。ジャクソンのソロとルイスのバックで、静かに始まる。バンドが頼りにするコニー・ケイのドラムの入りが素晴らしい。ビブラホンとピアノの並走は、しっくりかみ合って、間然する所がない。トリオ部分はルイスがベースとドラムの伴奏をしているようだ。最後にビブラホンが登場し曲を締めくくる。



DJANGO


ネオクラッシク
55年から56年に、アルバム「コンコルド」、「フォンテッサ」がレリースされる。ルイスは作曲技法上バロック時代のフーガを取り入れている。フォンテッサはクラシック調の抒情的な曲、音で綴る物語に近い。途中のメロディーが郷愁を誘う。ルイスの追及するネオクラシック、サード・ストリーム・ジャズとはこのような曲を言うのであろう。



Vendome


頂点へ
57年、ヨーロッパ公演を機に人気が爆発する。当時アメリカの批評家はデーヴ・ブルーベック(p) のウエストコースト系クールジャズに傾倒していた。一方MJQのメンバーは自分たちのスタイルがクールジャズだと確信していた。ヨーロッパの批評家がGroup of the year に選んだことで、アメリカの批評家も一斉にMJQ "乗り"になり、評価が決定的となった。この年ヨーロッパで、4カ月間に88回の公演を行った。ルイスはヴェニスを舞台にした、フランス映画「Sait-on jamais」(邦題、大運河)のために映画音楽を書き下ろす。アルバム「No Sun in Venice」(たそがれのヴェニス)として発売された。クール・サウンドだ。終曲の 'Three Windows' の最初に’シェルブールの雨傘’を思わせるメロディーが出てくる。


’Skating in Central Park’
59年にハリウッド映画「Odds Against Tomorow」(邦題、拳銃の報酬)のために、作曲と演奏を担当する。MJQ、ビル・エヴァンス(p)、ジム・ホール(g)が参加する。ルイスがオーケストラを指揮した。この中の曲 'Skating In Central Park' はMJQの定番になっている。ミルト・ジャクソンの軽快なテーマはルイスのさりげないバックに支えられる。曲は変奏に移り、ジャクソンとルイスの掛け合いは即興。ベース、ドラムが加わって全員参加、最後はジャクソンが締める。素直で自然体のジャズだ。この年発売のアルバム「ピラミッド」にルイスの’Vandome’が入っている。これはバロック音楽そのものだ。



SKATING IN CENTRAL PARK

ジャクソンとルイス
ジャクソンはビバップをマスターした最初のビブラホン奏者と言われる。華やかな演奏と優れた即興性が持ち味だ。ルイスの作曲、編曲はクラシック寄り、第3ストリームジャズと呼ばれる。ルイス編曲の Softly, As In A Morning Sunrise' をジャクソンは「バッハの屑」、とけなしていたそうだ。ベースのパーシー・ヒースによれば、ジャクソンは20年を超える、MJQに、欲求不満がつのり、バンドを脱退して自分の道を歩く決心をした。 一説には、ロック・ン・ロールのプレイヤーにくらべて収入があまりにも少ないのが不満だった。74年リンカーンセンター(ニューヨーク)での公演を最後に、MJQは解体した。はた目には自由奔放なジャクソンにルイスが手を焼いていたように見える。しかしルイスはジャクソンが去ったあと、メンバーを補充してMJQを続けることはしなかった。ジャクソンは7年後古巣に戻る。



The Golden Striker


MJQとルイス
81年にジャクソンが戻り、MJQが同じメンバーで再結成される。94年にコニー・ケイが亡くなるまで続いた。コニー・ケイはルイスのお気に入り、名実ともに看板ドラマーの地位を全うした。ケイの死後、MJQは自然に消滅した。 MJQはジャクソンとルイスなくしては存在しなかった。ジャクソンのメロディーにルイスのバックがよく合う。バックでも脇役という感じがしない。99年にジャクソンが、2001年にルイスが世を去る。ルイスが亡くなる前年、80歳のときに弾いたジャンゴのソロがYouTubeで見られる。いちばん長生きしたのはベースのパーシー・ヒース。彼はヘラルド・トリビューン誌のインタービューで次のように語っている、「MJQの音楽は素晴らしかった。ジャクソンとルイスの間に立つて演奏した自分を想い出す。自分が多くのファンを得るに値するミュージシアンであったか疑問だが」。




DJANGO-Piano Solo

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