BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

本文影印 0419

2024-04-19 | 源氏語り 続
  



 
物語りを写本のままに読む、それは影印写真であるけれども、そのすべてを閲覧できることはこれまでになかった。青表紙、河内、そのいずれの系統においても写本を見ることはたやすいことではないから、複製出版されていても、美術品かそれは部分的な扱いとなるから、いわば貴重書を見ることのできる機会は美術館なり博物館なりに所蔵するものの展示のほかは望むべくもない。

それが出版文化の僥倖に恵まれる時期に遭遇したわけであるから、研究においてはこれほどの機会はない、と思ったものだった。写本複製をテキストにして読み始める。活字本で読むのとはとはまたちがった趣である。おもむくままにこの写本読み方は当時のどれ程を再現できるか。

手元にその写本を置いて読み上げる女房に聞き手は坐したままの姿勢で語る世界を想像したのか。その場には写本があっても聞き手には手元にないから、それこそ絵でもあれば違ったことだろうとまた想像をたくましくする。現代にそれを再現するのはテキスト用に手もとに配られたプリントであるし、聞き手は読み手とともに学ぶ目的は国文学の基礎である。

写本にあるのは変態のかな、崩し字のことであるが、さいわいにして師は変体仮名手引として導いてくれたから、その書を副テキストにして始めていた。1979年のことであったから、それから10年に及ぶ作業となった。学生時代の研鑽は語法と注釈の基本にあったから、資料の扱いに実践を行った。思い起こせば講座に列した面々は大変であったろう、しかし、楽しかったようでもある。






源氏の物語 
2015-12-18

源氏物語は皇室のできごとである、と、庶民はとらえる。皇室は王室であり、宮廷である。サロンのなかで文学が行われたとみることである。その皇室にあってはならぬことがあったと庶民は源氏物語で思う。

そのことばには不義、密通という語が用いられて、語り伝えることとなる。それは後世の通念をもってしてまことに語られる。物語作者はそれを見聞したのか、サロンで秘めたことを書きおよんだか.

その作品を通して知るところ、わかるところは、おおけなきことである。出世の栄誉をもって物語とする、貴種流離の類をあてはめるとわかりよいが、作者はそこになにを描こうとしたのか。


源氏の物語 25 原本文
2015/12/25

源氏物語の本文は文学の成立とその伝播に写字、写本のことがあり、作者が書いたものとそれを写したものとしての関係がある。作者自筆のものが伝えられた、それが現存いしていた、わけではないのは、古典文学に起こリ得ることである。

しかも作品の成立と書写過程のことが時間の隔たりをもって原本の特徴を失ってしまったものはその作品のよりどころとなる本文を仮設する作業が困難であることは言うまでもない。写経があり、紙筆の文化はそれなりに盛んな時代である。

紙などを手にした喜びは、スマフォにも匹敵しする思いであったろう。そして現代に、源氏物語大成本文、別本集成、対校源氏新釈など、河内本そのもの、陽明文庫本影印、御物本の複製と、その伝本の成立に系統を求める作業は膨大である。

源氏物語を完本とするのは何をもってするか、巻名をもって54冊を数えることも定かではなかった。いま電子媒体でその原文を見ることが可能になった。その引用に当たっては心より感謝申し上げる。

http://www.geocities.jp/yassakasyota/genbun/genbun.html
源氏物語(原文)の部屋







コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。