はぐれぼけぼうし

鹿児島拠点の日記をメモ的に残す。

死刑制度 と社会状況

2007年10月05日 18時49分29秒 | 社会環境とともに
唐突に以下のような記事が気にかかったのだろうか・・・?

 昨日(10月5日)の夜、「バットマン・ビギンズ」という映画をテレビ放映で観た。ある街の社会管理システムが汚職などの腐敗によって正常に機能しなくなり、そのことが原因で、「その社会を破壊してしまおう」というグループと主人公バットマンが志ある人々の協力を得ながら故郷である街を守ろうと闘う、というのがアラスジになるのであろう。
 そして、昨夜(うなされるような)夢を見た。
 中学生が路上で突然刺されたり、相撲の若弟子が死に至ったり、ひっきりなしに命に関わるニュースが流れることと関連していたような夢だったと思う。(夢の内容はほとんど忘れてしまった)
 なぜ、そのような夢を見るに至ったか?を自身なりに分析してみると、
 死刑を求刑されても仕方なさそうな事件の報道頻度が非常に高くなっているように感じたのであろう。そして、「個人(私)的殺し」が「社会的殺し」を生み、殺伐とした社会になっていくように感じたのではないか、と思う。そして、それが「バットマン・ビギンズ」という映画の筋書きと重なるように感じて、(うなされるような)夢を見る結果となったのだろう、と結論した・・・。 (以上、10月6日 6:00 1回読み直し6修整)
 
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2007年10月04日(木曜日)付

 米国のテキサス州といえば、思い浮かぶのはカウボーイだろうか。西部の荒くれ気質でもあるまいが、この州は死刑が飛び抜けて多い。76年に死刑が復活してから400人目の執行があったと、先ごろ報道された。

 ブッシュ大統領は以前、この州の知事だった。批判されると、「テキサスに来たら人を殺さないよう気をつければいい」と言っていた。西部劇の保安官さながらだが、ことはそう単純ではない。貧困ゆえの犯罪など、米社会の病理が深く潜んでいる。

 ブッシュ氏が、執行署名に悩んだとは聞かない。転じて日本の歴代法相は、かなり苦悩したらしい。だからだろう。鳩山法相が、「自動的に執行が進む方法はないのか」という趣旨の発言をした。暴言か、問題提起か、と波紋を広げている。

 「ベルトコンベヤー」「順番通り」などと言葉が過ぎたようだ。だが、法相の苦悩は、遠い世界の話ではない。死刑を命じる大臣の後ろには、主権者がいる。ほかならぬ私たちだ。その、いわば代表として、心の重荷を負うのだから。

 刑務所で、1500冊もの点訳奉仕をした死刑囚がいたと、矢貫隆さんのノンフィクション『刑場に消ゆ』(文芸春秋)で知った。強盗殺人を犯したが深く悔い、13年間、罪をあがなうように打ち込んだ。

 執行の日、刑務官たちは緊張でこわばっていた。「参りましょう」と静かに促したのは、囚人自身だったという。法相だけではない。執行する人の重荷も相当なものだろう。悩みを大臣まかせにせず、死刑制度を考えてみたい

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 日本では、法務大臣の署名により死刑が執行される。法務大臣が署名しなければ死刑は執行されない、ということにもなろう。在任期間中に、いっさいの署名をしなかった大臣もいたようである。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、次のように書いてある。

死刑執行命令を発する権限と義務
刑事訴訟法によれば、死刑執行の命令は判決が確定してから6か月以内に行わなければならないが、再審請求などの期間はこれに含まれない。また、大臣によって決裁の頻度は異なり、賀屋興宣や左藤恵等、在任中に発令の署名をしなかった大臣の例もある。しかし、死刑執行命令書に署名することは法務大臣の職務であり、第3次小泉改造内閣の法相杉浦正健が就任直後の会見で「私の心や宗教観や哲学の問題として死刑執行書にはサインしない(杉浦は弁護士出身、真宗大谷派を信仰)」と発言したところ各所から批判を浴び、わずか1時間で撤回するという騒動が起きた。主な批判としては「職務放棄である」「後の法相へのたらいまわしである」、またかつて後藤田正晴が発言したように「個人的思想信条で署名できない場合は最初から法相の任を受けるべきでない」などがあった。ただし、判決確定から6ヶ月という規定は、日本国憲法制定後に、”今までのように死刑執行まで時間がかかりすぎるのは、死刑執行を待つ恐怖が長く続くことになって残酷であり、新憲法の趣旨にも反する”という理由で作られたもので、結局はかけ声だけに終わってしまっている規定である。この規定を、”犯罪者に対する厳正な処罰のために、6ヶ月で執行しなければならない”と解釈するのは、本来の主旨には反する。



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