K.H 24

好きな事を綴ります

短編小説集 GuWa

2021-07-30 17:59:00 | 小説
第陸話 静けさ

 嵐の前の静けさは本当に存在した。
 
 目が覚め、朝食を取り終え、身支度をしながら、テレビで男は報番組を見ていた。天気予報が始り、これまでに聞き慣れない線状降水帯という熟語が耳に入った。
「記録的な豪雨に見舞われる可能性がありますので、河川の近くや山間にお住みのみなさんは、洪水や土砂崩れに充分お気をつけて頂きたいと思います。」
 若くて愛嬌があり、耳障りの良い声を聞かせてくれる女性のお天気キャスターからの注意喚起だった。
 ネクタイを締めながら首を傾げて、男は窓から空を眺めた。所々に青い空が見えた。鱗雲とは違い、また、どんよりグレーがかった雨雲でもないが、青色をまだら模様にしている雲が目についた。そのキャスターがいうような大雨が降りそうな雰囲気ではないと思いながらも折り畳み傘を鞄に入れておくことにした。

 その男の住まいは3階建てのアパートで、築年数はゆうに10年以上は経っているように見え、外壁の白いペンキは風化によってまだら模様と化した部分もある。男の部屋は3階だった。

 身支度が整い、テレビの占いで自分の星座の順位を確認して部屋を出た。2階まで降りると、踊り場の手すりに蝸牛が1匹だけいて、丁度、ツノを出し始めていた。男はその姿を久し振りに見ると思ったが、ツノが伸び切るまで見ることはせず、階段を降りていった。

 最寄りのバス停でバスに乗り、駅までは丸手すりを握り揺られていると、蝸牛は雨が降り始めないと動き出さないものだったのか、雨が降る前に動き出すものだったのかをぼーっとしながら思い出そうとしていた。ネットで調べてみようかとまで考えたが、どうでもいいことだと思い直し、スマホを手に取ることをやめた。

 駅に着き、バスを降りてホームへ歩き出すと、既に蝸牛のことは忘れていた。しかし、小雨が降り始めた。

 会社の最寄り駅に降りると、大雨になっており、折り畳み傘をささないとならなかった。駅から会社までの道のりは10分弱かかり、その半ばで雨は一層激しさを増した。その上、風も強くなり横殴りに叩きつけ、ビルに吹きつけた風は、雨粒が重力に抗するベクトルを与え、折り畳み傘は直ぐに壊れ、男はびしょ濡れになった。

 会社に着くと、仕方なく、作業用に置いていたジャージーに着替え仕事を始めた。
 すると、社員全員のスマホがアラート音を響かせた。当たり前に全ての社員が驚いた。その内容は、豪雨に対して、高齢者への避難警報とそれ以外の人への避難準備警報だった。

 各部署の部長へ社長からの通達で、人事部から自宅が河川や山間近くの社員は帰宅していいこと、高齢で一人で避難できない親や親族がいる者も帰宅していいこと、そして、午前中で業務を終えることの連絡がきた。社員総数の約5%くらいの者達が直ちに帰宅せざるを得なかった。その者達は勿論、社員全員が不安を抱える状況となった。
 何とか午前中でやれるだけの仕事をし、全員帰宅することができた。

 この雨は深夜まで続き、気象庁の発表によると例年と比較して2ヶ月分の降雨量とのことだった。しかしながら、床下、床上浸水の被害は少なからずみられたが、河川の氾濫や土砂崩れなどの被害はなかった。幸に、翌日からは雲ひとつない青空で、男の会社は通常営業に戻った。
 
 3日曜日後のことだった。誰もが予期せぬ事態となった。
 男がいつものように朝の身支度をしながらテレビを見ていると地響きが広がった。でも、地震のような揺れではない。そして、遠くから木が折れる音と電気がショートしてビリビリする音、ダムから放水するようなシャーとする音が聞こえた。
 一瞬のできごとだった。その音が止む前か後かは定かではないが、テレビや電化製品、スマホの充電ができなくなっていたことに気がついた。慌てて外へ出てみると、約30m先が泥だらけで所々に木の枝とそれに茂っている緑色の葉が目に入った。男は怪訝な表情でそれを見つめた。

 男の住まいは小高い山から100m程離れた位置にあり、その山が崩れ土石流が目の前まで流れてきていたのだ。

 唖然とし、2階の階段の踊り場で立ちすくんでいると、家の屋根らしきものや土色に染まった自動車、一両は完全に土が被さり、その前後二両づつが流れてきた土とは反対側に傾いていた。男は独り動けないでいた。

 再び木々や家の柱、壁が軋む音、自動車が潰れる音、ガラスが割れる音がゆっくりとした速度で耳に入ってきた。
 動けなくなった男の傍から隣りの住民が1階まで駆け降りていった。悲鳴は聞こえない。
 
 数分後、男が我にかえると踊り場の手すりの中央には乾いた蝸牛がポツンと誰かが置いていったように、殻の中に身を収め、土石流を呆気に取られ、静寂する男達と同じように動かないでいる。その1匹は何ごともないように居座っていた。
 口を閉じることを忘れ、今にも涎が垂れそうな男は、絶望感に襲われ、俯き加減の目には、ツノさえ伸ばさない蝸牛が写し出された。
 
 一帯は静まりかえっていた。嵐の前の静けさではなく、災いの後の静けさだった。
 



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