kasaiさんの江戸甲府物語

江戸時代の甲府の様子を庶民の生活を中心につづる。

第41回 甲府の道祖神祭り

2014-12-15 14:26:56 | 説明
 
道祖神



 道祖神祭りは旧暦の1月15日に行われています。現在ではあまり盛んではありませんが、江戸時代の甲府では盛んに行われていました。

 正徳1年「諸公用諸事の留」の正徳2年(1716)の部分に次の町触れが記載されています。
1. 当正月水あびせの義、前々より御停止の通り弥以て堅く相守るべきこと
1. 町々左義長、当14日より仕り翌15日昼時きっと取仕舞べきこと。辻々飾り物前々の通り、町内家持ども少分の出銭にて、往還のさわりこれなきよう、手軽に仕りべき候。尤も、火たき候義、これまた前々の通り停止たるべきの事
 付たり 子供相集、踊り、狂言、太神楽いたし候義停止たるべきの事
1.おかた打ち、祝儀として金銀米銭は申すに及ばず、軽き品一色似ても一切出し申すまじく候

 第1項の「水あびせ」とは、正月に新婚夫婦の家に町内の者が押しかけて、嫁や婿に水をかける祝いの事で、江戸では慶安元年(1648)の町触れで禁止になりました(江戸歳時記、宮田登、2007)。甲府でも、江戸にならって禁止されたようです。喧嘩口論になるのが理由だそうです。

 第3項の「おかた打ち」とは、新婚の花嫁の尻を叩くことです。18世紀初頭の甲府の風習を記録した”裏見寒話” の「里語通用」の項に、”おかた”とは人の妻の事であり、”おかたみ”とは嫁に来た人を祝うことあります。また、人の妻は”あねい”ともいうとありますので、「おかた打ち」とは新婚の妻を打つという意味になります。

この18世紀初頭に成立した”裏見寒話”に「婚儀せし翌春、左義長の節、材木を建てる穴をかの婿に掘らする。また、大勢かの婿の家へ押し込み、花嫁を打て叩けという戯れ有。」とあります。「水あびせ」同様、新婚の夫婦に対する祝福の行事です。こちらは禁止されていません。しかし、”裏見寒話”には、「前年婚儀せし者をねだりて鳥目(銭)を出さしむ。その多寡を争い口論におよび、婿の家財をこぼち、売買の品を損さす。」とあります。このようなことがないようにというのが、第3項です。

 第2項が道祖神祭りに関する注意です。この町触れでは道祖神に飾る左義長は正月14日に飾り付け、15日の昼までに終わるようにとなっています。御用日記をよむと、15日は片づけていますので、この町触れは守られているようです。「火たき候義、これまた前々の通り停止たるべきの事」は火災に関することで、季節風が強い冬には特に火災に対する警戒が強くなっています。
「辻々飾り物前々の通り、町内家持ども少分の出銭にて、往還のさわりこれなきよう、手軽に仕りべき候。」という部分、つまり道祖神祭りは質素に行うべきという町触れはあまり守れなかったようです。
「裏見寒話」には、道祖神祭りに関して次のような記載があります。「近年甲府の祭りことのほか美麗にして、辻々に大きな屋台を飾り、十二三歳の子供きれいを尽くして歌舞伎をなす。囃子方は皆大人也。近江八景を写し、大阪四橋の体、勢州内外の宮、いろいろ金銭をかけて美飾をなして遊興す。見物の男女市巷に充満してそのにぎやかなること筆紙に尽くし難し。」、「10日ごろより、町在ともに辻辻へ古き長持ちの上に小さい社を上げ、獅子頭を持ち出して太鼓を打ち、13日に至りて、いまだ妻をむかへざるもの集まり、三四間ある材木の上にだしを飾る。前年婚儀せし者をねだりて鳥目(銭の事)を出さしむ。その多寡を争い口論におよび、婿の家財をこぼち、売買の品を損さす。使えいう、13日より15日に至りては道祖神の霊無妻の者に乗り移りて騒動せしむ。町長の者制すれど聞かず。これを堅く制すれば神の咎めをうくと。これにおいて若き者ども傍若無人なること夥し。」

 文化13年(1816)の正月15日、日向佐土原の山伏泉光院が回国の途中に甲府の道祖神祭りに立ち寄っています(大江戸泉光院旅日記、石川英輔、講談社文庫、1997)。「裏見寒話」の記述と同じように、町々を飾り、舞台をしつらえてあった。みせものや作り物も多くあったとあります。
どうやら、質素に行えという触れは守られてい名かったようです。

 幕末の慶応2年の甲州道中記(甲斐叢書)には道祖神祭りの見分が記録されています。次のような内容です。
「正月七日八日頃町々に道祖神祭りのこしらへ致し」、「町々老人中年若き者万端寄合いたし候うち、・・・何となく神がのりうつり給う故か、道祖神という人できる。・・・町中の者羽織を着し道祖神様になり候人をかこい、大勢祝いのありし家へ参り、道祖神様は奥の床の間へ座す。亭主は羽織袴にて罷り出で、1間もこなたに平伏する。」、「道祖神様仰せいで候は、昨年来めでたきこと続き、倅に嫁を取りめでたきことなり。それより、お祭りの入用100両出せという」、「亭主左右に控え候人に向かいて、何とど半金にて御用捨てくだされ候と願い上げ、道祖神様おかえり遊ばれ候」
「祝いのありし家」とは「前年に大普請(大きな家を建てること)をするか、嫁入りなどの祝儀があった家」の事とあります。甲州道中記によれば、この時の見分は、柳町十一屋という酒屋です。要求する金額は分限により異なります。
甲州道中記にはおかた打ちの記述はありません。「裏見寒話」の「前年婚儀せし者をねだりて鳥目を出さしむ。」、「道祖神の霊無妻の者に乗り移りて騒動せしむ」は同じです。

 江戸時代を通じて、正徳2年(1716)の町触れとほぼ同じ内容の町振れが暮の12月に出されています。おかた打ちのむ風習はそのまま続いていたようです。明治時代初頭に道祖神の禁止の命令が出されています。これ以降、道祖神の祭りは下火になりました。

 

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