先日、北海道の方から荒巻鮭を送っていただきました。
それを切り身にしていると、
「一つの命をいただく」という感覚を持ちました。
普段、魚にしても肉にしても、
切り身になった部分だけを見ています。
そうすると、それが一つの命であったという実感は
どこかに行きがちな気がします。
人の命もそうですね……
昔は、赤ちゃんが生まれるのも、
おじいちゃん、おばあちゃんが亡くなるのも、
みんな、家庭での出来事でした。
赤ちゃんのふわふわの肌も、
おっぱい臭い独特の匂いも、
また、死期の近い老人のしわしわの肌も、
すでに半分腐りかけてきたような匂いも、
すべてが普段生活する場に、
一緒にあったものなのだと思います。
それが、今は、すっかり切り離されてしまいました。
海では魚が切り身の状態で泳いでいる、
と思っている子どもがいるのも、うなずけます。
ボタン一つで死んだ人が生き返るかのように思っているとしても
もはや、不思議ではないのかもしれません。
鮭を切りながら、
自然は、いつも全体的なんだということを、
時々ちゃんと思い出さなくちゃ、
そう思いました。
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