創作の世界

工房しはんの描く、文字系の創作世界。

26・最終話

2015-11-27 08:49:05 | 日記
 それが、四人で過ごした最後の季節だった。
 今こうして、残された三人で顔を突きつけ合い、あらためて感じる。一人が欠けただけでデコボコだ。お互いの間を、空気がうまく流れない。不定形な三角形。パズルのワンピースはもう戻らない。
 田舎に帰ってくるたびに、それぞれと顔を合わせてはいた。だけど卒業後に四人そろって会うのは、なぜかオレには気詰まりだった。その後の関係を聞かされるのも怖かった。そのうちに、ついに誰とも会わなくなっていた。思えば、愚かな態度だった。
 乾いた流木が必要だ。葬式なんて、空々しい。それよりも、また十年前のあの日のように焚き火をすればいい。四人がぎゅっと結びつき、そしてほつれたあの日のように。
 三人で浜に散った。どの背中も散漫だ。オレもまた上の空のまま、サイズの合わない革靴の踵をぱかぱかいわせて、焚き木を探した。唇のへりに汗がしたたる。
(しょっぱかったよう・・・)
 あの夜を、リアルに思い出す。
 そのとき不意に、それを見つけた。
「まさか・・・」
 おおいっ!と思わず声を上げた。砂に埋まっている。一台の自転車が。年季の入ったサビに侵され、潮と日光にやられてカサカサに干からびた車体。タイヤの空気は抜けきり、サドルは裂けてクッションが飛び出している。フレームの真っ赤な塗装も色褪せて、まったく見る影もない。ただ、フロントフォークの錠は、蹴り飛ばされたあのときのままだ。
「どうして・・・」
 あわてて掘り出した。まぎれもなくあのときのチャリだ。盗んでいったやつが返しにきたのか、それともあのとき、暗闇の中で見つけられなかっただけなのか。それにしても十年もの間、ずっとここで眠っていたとは。待っていてくれたとは。駆けつけた二人も、さすがに半信半疑だ。が、興奮を抑えきれない。ボロボロの、しかし愛おしいチャリにまたがってみる。砂を払うと、サビにまみれた車輪はまだ動きそうだ。不安げに歪むタイヤをだましだましに、ヨロヨロと進む。
「後ろに乗せてよう」
 あのあまい匂いのするひとを後ろに乗せる。もうひとりが乗り込んでくる。そして、もうひとりも。二人乗りをし、三人乗りをし、四人乗りをし・・・そしてハデに転んだ。四人で過ごした砂浜。あの日と同じだ。パズルがパチンとはまって、円が完成する。
 あの日の出来事は、この浜に埋められた。オレもそれきり口にしなかったし、いろはも秘密を通した。その相手も決して他言しなかったと思う。あの罪は、卒業まで、いや、現在に至るまで、この浜に埋められたままだ。いろはの想いは、ただただ相手に伝えられ、回答を得なかった。彼女には、それで充分だった。
 ニュートラルな関係は、今もつづく。ひとりは欠けてしまった。重要なピースだ。それでもなお、オレたちはずっと、四人なのだった。

 おしまい

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25・背中のひと

2015-11-26 08:54:45 | 日記
 焚き木が尽きた時点で、とっとと火を消して帰るべきだった。修正しようもない現実を突きつけられ、いっそ逃げ出したい気分だ。罪を犯したような女と、男と、罰を与えられたようなオレと、そしてなにも知らない一名。さまざまな立場が入り交じり、それでも「なにも起きなかったテイ」で、浜を後にする。
「あっ!ないっ!」
 いろはが騒ぎはじめた。球場のときと同様に、また。
「ないって、チャリキーが?」
「ううん。自転車が」
 海岸の入り口に停めておいたチャリは、盗まれていた。ロックが壊れていたせいだろう。簡単に持っていけたわけだ。
「そうか・・・大切なんだな、鍵って」
 ノリチカはチャリ屋としての勉強させてもらったようだ。が、今や手遅れだ。周囲には灯りひとつなく、浜は真っ暗だ。捜索しても、自分たちが迷子になるばかりだろう。あきらめるしかなさそうだ。
「また歩くのか・・・」
 四人は、肩を落として歩きだした。
 夜気に湿りはじめた砂を踏んで、海岸の出入り口になっている高架をくぐる。枝の隙間から月明かりを落とす松林を抜け、長くなだらかなスロープを延々と登り、丘を越えると、巨大な坂を街側にくだり、県道をひたすら歩いた。ラグビージャージーの背中に、行き交う車がヘッドライトを浴びせていく。妙な集団だと思われていることだろう。いろははいちばん後方を、息を弾ませながらついてくる。相当な距離を歩いて、彼女も疲労困憊している。コンビニの駐車場でひと休みしよう、ということになった。地べたにぺたんと座り込んで、金を出し合って買った一本の缶コーヒーをすする。そのときはじめて、
「ん?それ、どうした?」
 ふと、気づいた。いろはの足首が変だ。はいていたソックスを燃やしたために、素足に靴を突っかけている。甲にもかかとにも靴擦れの血をにじませて、痛々しい。しかしそれ以上に目を引くのは、赤むらさき色に腫れ上がったくるぶしだ。
「ねんざ。チャリでこけたときに」
 いろはは事もなげに言う。
「チャリでこけたときっていったら、海にきてすぐじゃねえか。バカ。なんではやく言わないんだよ」
「自分だってケガしてるくせに」
 鎖骨のことを言っているのだ。全部お見通しだった。ひとりが抜けたら、ベンチにはもう代わりはいない。だからいろはは、すべてがわかっていても、無理やりにオレをグラウンドに送り出したのだ。いや、しかしそうではない。正確には、「代わりがいないから抜けるわけにはいかないオレの気持ちを察して、見て見ぬふりで送り出したのだ」と言うべきだろう。そういう女だ、いろはとは。
「だけど、それじゃ歩けないだろ」
 電車に乗るとしても、駅まではまだ距離がある。
「じゃあ、義靖がおぶってよ」
 思わず、他の二人と顔を見合わせてしまった。事情を知らないひとりの方は、キョトン、としていたが。
「オレが?いろはをおんぶするのか?」
「あんた以外に、そんなことさせられるひとはいないでしょっ」
 わけがわからない。チューをした相手に頼めばいいのだ。あいつにおぶってもらえばいいのだ。女心はよくわからない。あんなシーンを見せられた後では、こちらとしても気兼ねがある。しかし一方で、なにも起こらなかったテイ、という建前もある。
「義靖ってば・・・」
「あ、ああ、そうだな・・・」
 自分が家来の身分であることをやっと思い出した。手を差し出すと、姫様は素直にその手の平を握った。片足でひょいと立ち、そのまま背中にしがみついてくる。日に焼けた細い腕がオレの首に巻きつき、ふたりはスプーンのように密着した。しっとりと湿った肌から、あまい匂いが漂ってくる。オレの肩はきっと、海草の匂いを放っていることだろう。
「重いな」
「あの頃と同じでしょ」
 同じなものか。なにしろ、ノーブラのチクビが気になってしょうがない。が、背中に触れている胸の膨らみは、柔らかで温かではあったけど、想像したほどの感動はもたらさなかった。幻想の産物であるおっぱいよりも、むしろ肋骨のごりごりとした感触の方がリアルに皮膚に伝わってくる。そして、この密着した距離よりも、想いの隔たりの方を意識せざるをえない。白々しい気分だ。再びとぼとぼと歩く。オレは言うべき言葉がわからず、背中のいろはも無言だった。
 駅舎の灯りが何ブロックか先に見えてきて、みんないっせいに安堵した。
「ヒャッホー。助かったぜ」
「やれやれだな」
 権現森とノリチカは、駅舎に向かって駆け出した。よろこび勇んで、スキップでも踏みそうな軽やかさだ。こっちの足取りは重い。前を行くふたりが踏み切りを渡りきったところで、警報機がけたたましく鳴りだした。遮断機が目の前を降りてくる。いろはを背負ったまま、立ち止まった。線路の向こう側の二人が振り返って、はやくこい、なんで渡んねーんだよノロマ、などと騒ぎ立てている。だけど渡る気はなかった。
 遮断機が降りきって、いろはとオレは二人きりになった。向こう岸の二人は、もうこちらのことを顧みることもない。ささやき合って笑い転げたかと思うと、いきなり取っ組み合っては、また破顔一笑している。背中のいろはは、その様子をただじっと見ている。
(ああ、この距離かあ・・・)
 胸に突き刺さった。いつもいろはが感じていた隔たり。
「ごめんな」
「えっ?なに?」
 急行列車が轟音と通過風を撒き散らしていく。
「見ちゃったんだ、さっきの」
 白状すると、いろはは殊勝に言った。
「こっちこそ、ごめん」
 それが罪であることを、彼女ははっきりと理解している。
「しょっぱかったよう・・・」
  折れていない方の肩にアゴ先をうずめてくる。ほおが触れ合うほどの距離に、いろはの顔がある。が、その瞳は踏切の向こう側をじっと見つめている。視線の先に、恋をした男がいる。そして他一名と。ひっくるめ、「男子」がいる。しょっぱかった、か。潮がまぶされた唇のせいか、それとも心がザラザラとそう感じたのか。
 電車が遠ざかり、焦れったく遮断機が上がった。突然いろはは、オレの頭をぽんと叩いた。
「運ちゃん。前の二人を追ってくんな」
 あはっ、と笑った息が首筋に当たった。いい匂いがした。
「あいよ」
 オレは早足で踏切を渡りきり、ノリチカと権現森の元へ向かった。
 それが、四人で過ごした最後の夏だった。

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24・ブラジャー

2015-11-25 08:45:29 | 日記
「きつくなってきたし」
 いろはは無表情で、外したばかりのブラジャーを火にくべた。暗がりで、薄いブルーに見えた小物体。一瞬の出来事だった。母ちゃんのを除けば、オレはそのとき、それをはじめて目にした。ヒモ状の部位と浅い円錐とで構成された、未知の衣類。オレンジの光の中でゆらゆらと踊るそれに、目が釘付けになる。権現森はぽかんとアゴを垂れ、ノリチカは目を見開いている。男子三人の三枚のシャツと、自分のブラジャーがつくるその焚き火を見つめて、いろははなぜか充足の笑みを浮かべている。負けず嫌い。通過儀礼とでも感じているのだろう。自分は異物ではないと叫びたかったわけだ。「あたしも仲間だぜ」と。
 ところがオトコたちは、まるきり逆のことを意識せざるをえない。男女間における立ち位置の違い、お互いの構造の違い・・・諸々の問題。しかし男子三人は結局のところ、そんなコムツカシイことよりも、今考えるべき最も重要かつ切実な問題に取り組んでいた。すなわち、「いろはのチクビ」についてだった。それは今、ブラウスの下でまったく無防備にさらされているはずだ。すさまじい妄想が渦巻き、血流が全身を駆け巡って、貧血を起こしそうだ。
「さ、ささ、さ、酒でも、飲もうや」
 たまらず、権現森が切り出した。ジンの入ったポケットボトルを取り出し、クイッとあおる。すかさず、ノリチカがツッコむ。
「そりゃおまえ、最初に火にくべるべき燃料だろうがっ。はやく出せ、っつー話だよ」
「いや、酒はだめだ。こういう日には必要なんだ」
 権現森はしどろもどろだ。かの豪胆が、動揺を隠しきれない。おもしろい。結局、みんなで回し飲みをした。のどがカッと焼けて、熱いアルコールがからだ中に行き渡る。いろはも顔をしかめながら飲んだ。たった一口で、気が大きくなるような気がした。
 潮騒にまじって、遠く虫の音が聞こえる。誰からともなく、砂浜に寝転びはじめた。浜は真っ暗だ。焚き火はもう、最後の熾きがふつふつと赤黒く瞬いているだけだ。月明かりが波間に映ってたゆたい、かろうじてそこに海があるとわかる。四人は並んで仰向けになった。見上げると、月光が強すぎて、星はまばらにしか見えない。
 ジンがまわって、眠気が襲ってくる。自分が疲れ果てていることを思い出した。そっと目を閉じてみる。あの眠りの落下感がやってくる。そのときふと、いろはが唇を重ねてくるような予感がした。
(・・・チュー・・・)
 遠い日の感触がよみがえる。唇に唇を合わせる、あの感触。そんなはずはないのだが、もしや、との思いがあった。真っ暗闇の中で待ちわびてみる。いろはの唇の潤い、柔らかな刺激、なまめかしい体温、告白の痛み・・・目を開けるのが怖い。今、このすぐ鼻先に、いろはの唇がある気がする。はっきりとした気配がある。確信がある。
(いろは・・・おまえ、こんなとこで・・・)
 意を決して、薄く目を開く。そっと、そっと。そして、いろはの姿を探す。が・・・いろははいなかった。目の前にひろがる、静かすぎる夜空。ふと、横目に隣を見る。その瞬間、凍りついて動けなくなった。
(いろはっ・・・!?)
 果たして、そこでいろはは、ひとつの唇に自分の唇を重ねていた。信じられないことに、彼女が口づけを交わしているその唇は、オレのものではなかった。唇を奪われた男は、びっくりして目を剥き、声を出せないでいる。その言葉のない告白は、予想だにしていなかったものにちがいない。そんな相手の仰天顔を、いろはは長くてしなやかな腕で包み込んでいる。有無も言わせない、一方的な姿勢だ。穏やかに目を閉じ、まるで千年も待ち焦がれていたかのような固い決意をにじませている。長い長い口づけは、唇の表面同志を合わせるだけの稚拙なものだった。が、その奥にある深い想いを伝えていた。ふと、二人のチュー越しに向こう側を見ると、もう一人の間抜け男は、静かに寝息を立てていた。それを見てはっきりと、これは現実なのだ、と理解した。

 決死の思いで耐えに耐えていたディフェンスラインにも、顕著なほつれがさらけ出されはじめた。たったひとつのうかつなプレーは、数人がかりのフォローによって埋め合わされなければならない。そうしてチーム全体が消耗していく。やがて焦りが生まれ、手っ取り早い方法で局面を打開しようという横着が行われる。ただし、その代償は高くつく。あと数十秒間、我慢しさえすればよかった。が、自陣深くにまで攻め込まれた地点で、あの緊張を強いる長いホイッスルが鳴った。反則を犯し、相手にペナルティを与えてしまったのだ。辛抱ができなかった。
 紫紺のジャージーは、ためらうことなくゴールポストを指差した。PKを狙うと宣言したのだ。老練な宿敵は、これを待っていた。トライを奪いにいく必要などなかった。最弱タイトル保持チームの未熟な戦い方は、見透かされていた。待ってさえいれば、この瞬間がおとずれることはわかっていたのだ。「まんまとやってくれました」といったところだろう。
 オレたちはその痛恨に頭を抱えながら、エンドゾーンに下がった。ゴールポストの裏で、なにもできないままに見守る。これから蹴られるボールがポストの間を通れば、敗戦だ。高校でのラグビー生活が終わる。ボールが静かに地面に立てられ、キッカーが助走をはじめた。会場全体が息を殺して見つめる。しかしそれは、キッカーにとって難しい仕事ではなかった。インパクトされたボールは軽々と宙に放たれ、頭上高くの青すぎる空を通過していった。権現森も、ノリチカも、呆然とそれを見送った。オレもその終わりの光景を目に焼きつけた。得点がカウントされるホイッスル。そしてさらに、ホイッスルが三つ鳴った。ノーサイド。ほんの一歩ももう動けなくなって、その場に倒れ込んだ。

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23・燃えろよ燃えろ

2015-11-24 09:07:30 | 日記
 火はいっとき盛大には育つが、与えたものを貪った後は、たちまちしょんぼりとやせた。片っ端から燃えるものを放り込んでも、消化がはやすぎる。タオルまで燃やすと、もうバッグにはユニフォームが残るきりとなった。
「もうねえのかよ?」
 無い。それでもかばんに鼻先を突っ込む。ほの暗くなりつつある熾きを前に、意味のない躍起がつづく。ばかばかしいとは思いながらも、この時間にすがりついていたい。が、無いものは無い。再び沈黙が訪れようとした、そのときだった。いろはが、
「しょうがないなあ。わかったよ、ひと肌脱ぐか」
 そう言って、濃紺のソックスを脱ぎはじめた。突然のことに、男子たちは息を呑む。
「燃やしちゃえ」
 思いきりよく、火の中に投げ入れた。チリチリと燃えるスコアブックの上にソックスは落とされ、不思議な色の煙を吐きつつ、身悶えながら焼けていく。それは奇妙に艶めかしく、そして匂いもどこかしらかんばしく感じられた。
「もえろ~、もえろ~。ふふふ」
 男子高校生たちは反応できない。いろはの行動は、どうしようもなく性的なものをイメージさせ、忌々しい衝動を掻き立てた。
「・・・そうだな、それもアリだな」
 妄想を振り払い、ようやく現実に引き戻される。動揺を押し隠しつつ、負けじとソックスを脱ぐ。そして、無造作に火の中に放り込んだ。逡巡しているヒマはない。オレたちは常に心のどこかで、生きる上でまったく意味のない勝負をしているのだ。
「制服シャツと、ユニフォーム。どっちかを燃やすって手もあるぜ」
 ノリチカが、さらにハードルの高い提案をする。それを聞いて権現森は、黙って制服シャツを脱ぎはじめた。
「お、おいおい、冗談だよ」
「いや。考えてみたら、夏服なんてもう必要ないもんな」
 権現森は、まったく頓着を見せない。そのままシャツを丸めて、火に放り込んだ。大きな炎が上がって、再びお互いの顔を照らしはじめる。
「ジャージーは燃やせないからな・・・」
 ぼそりとつぶやく。そのときいろはは、見たことがないほどのやさしい目をした。
「よかった・・・」
 言葉を継ぐ。
「みんなのゼッケンの裏には、お守りが縫い込んであるんだよ、一年のあのポジション発表のときから・・・知ってた?」
 いろはの語りかけで、四人はまたひとつのまん丸のパズルになっていた。
 塩気まじりの夜風は、思ったよりも素肌に冷たかった。夜気がゆっくりと降りてくる。制服シャツも、ベルトも、試合用のヘッドキャップも、ソックスも、パンツも、リストバンドも、みんな燃料にした。もう燃やすものは完全に無くなった。
「これでおしまいかな」
「もうなんにもないよ」
「裸一貫になったぜ」
 上半身裸のまま、焚き火が徐々にやせ細っていくのを見つめつづける。火の終わりは、今日という日の終わりを示す。「終わり」という言葉に、奇妙な深刻さを感じる。
「あっ、まだあった」
 いろはが、はた、と声をあげた。瞳にいたずらっぽい光を閃かせている。そして不意に、焚き火に背を向けた。ブラウスの半袖に亀のようにひじをおさめ、ボタンの奥で複雑に腕を絡ませる。ひとしきりもぞもぞした後、こちらに向き直った。オトコには到底わからない理屈により、再び半袖から突き出された右手には、果たしてそれが握られていた。

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22・火

2015-11-23 09:26:15 | 日記
 あそこでいっこステップを切ってさえいれば・・・海までの道のり、ノリチカは何度も何度も、何度も反芻していたにちがいない。が、口には出さない。まっすぐに走る!と決めたのだから、自尊心に賭けて貫き通したのだ。ノリチカはどこまでもバカな男だった。臨機応変という言葉を知らない。美意識は尊重してやりたい。が、あの局面だけは、と頭をかかえたくもなる。
「よし、ついたぞ」
 新聞紙から、めらめらっ、と軽薄な炎が上がり、やがてその火は細枝から太い流木へと移動していった。しばらく待つと、火が安定して熾きとなり、オレたちはそのぬくもりをたのしんだ。
 日はとっぷりと暮れた。焚き火が四つの顔を照らし、ゆらゆらと影を動かして、心を落ち着かなくさせる。暖気だけが、お互いの間のせまい空間を循環する。その空気は、四人を押し黙らせた。みんなの瞳に小さな炎が映り込んでいる。まるでまじないにかかったみたいに、しゃべることができなくなる。
 太陽と入れ違いに、月が昇る。大きなお新香のような月だ。その煌々とした月明かりは、闇が支配する砂浜をほのかに照らした。ぱちん、と音がして、熾きの小さな柱が崩れ落ちる。火が心細くなってきたので、焚き木を全部くべた。火が消えたら、この夜が終わる。それはすぐそこに迫っていた。だけど、誰も帰ろうとは言いださない。
「もう少し、流木を集めてみるか?」
 権現森が言った。
「もう真っ暗だし、無理だよ」
 オレの処断はみんなにもわかりきっているはずのものだったが、再びその場に沈黙を迎え入れることになった。そのとき、おもむろにノリチカが立ち上がった。
「だったらみんな、かばんの中にある燃えそうなもの、出せよ」
「へっ?」
 三人はぽかんと、このバカの放った言葉の意味を考えた。
「だからさ、いろいろあるだろうが、マキ代わりになるものが」
「だって、カバンの中は、ユニフォームとかだけだぞ」
「ウソつけ、権現森。おめーあれ持ってたろ、ラグビーの戦術書」
 それを燃やしてしまおうという魂胆らしい。ずいぶんな物言いだ。
「あるけど、高いんだよ、これ」
「もう使わねーだろうが」
 言われた権現森は、はた、と気づいた。
「そういえば、開いて読んだことねーわ、この本」
「よしよし」
 ノリチカは本を引ったくると、躊躇の素振りも見せず、火に放り込む。心許なかった焚き火が、じわじわと元気を取り戻していく。
「そうだっ。あたし、いいもの持ってる!」
 いろはは自分のリュックを手で探り、目薬を取り出した。
「これは燃えるはずだよ。だって『火の中に放り込むな』って書いてあるもん」
「おお、化学の実験」
 いろはは、目薬を焚き火の中に投げ入れた。全員が中腰に後ずさり、爆発に備える。
「・・・ど、どうだ?」
 派手に身構えたはいいが、化学の反応はなかなか起こらない。しばらく待っても、変化なし。
「なんだよ、期待させやがって・・・」
 しかし、ノリチカが恐る恐るに覗き込んだ途端、じゅっ、と容器が溶ける音がした。その舜後、
 ぼわっ。
 手品の見せ場のような大きな炎が上がった。
「うわーっ!」
 飛び出した火玉は空中で膨らみ、そのまま風船を割るように巨大に開花した。鼻先で起きた炸裂に、四方に飛び退く。一瞬の出来事だった。やがて最終形のキノコ雲が現れ、小さなスペクタクルが終わった。
「わー、おもしろいねえ!」
「すげー!」
「もっとないのか?なんか出せよ、みんな」
 全員がいっせいに、自分のかばんの中に鼻先を突っ込む。いろはが最初に声をあげた。
「わーい!アーモンドポッキーがありましたっ!」
「燃やすのか?それ」
「これは燃えないよう。食べるの」
「『小枝』の方が燃えやすそうだ」
「そっか。今度からそっちを常備しようっ」
「ええい、ヤンジャンを燃やすか。まだ読んでないけど」
「あ、グラビアだけ取っといてくれ」
「生徒手帳ってさ、いらなくね?」
「ノリチカがそんなもの持ってるなんて、なんでだ?」
「このプチ罪悪感。まるで焚書ね」
「なにそれ?」
「ばか。教科書を読みなさいよう」
「そうか、ここに教科書があったらなあ」
「どうするつもり?」
「もちろん焼いちまうんだよ」
 燃料追加のたびに火はゆらゆらと明るくなり、四人の顔が穏やかに浮かび上がった。ノリチカの彫りの深い顔は剽悍さを増し、権現森の端正な顔は苦悩みたいな陰影を際立たせる。なんだか少しずつかっこよく見える。劇性効果だ。いろはもまた、キラキラと輝いて見える。足下の焚き火のせいもある。が、しかしそのせいばかりじゃないことは、自分の心の中でもそろそろわかってきている。

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21・ギャンブル

2015-11-22 10:15:57 | 日記
「こんな組み方じゃだめだ。火がつかないよ」
 いろはがゴチャゴチャに積み上げた焚き木をほどいて、下から井の字井の字に組み直した。
「へえ、几帳面ね」
「合理的と言えよ。ボーイスカウト式だ」
「えっ!義靖ってボーイスカウトだったの?わかる。なるほど、わかるわあ」
 いろはが爆笑しはじめた。そこへ、権現森が巨大な流木を肩にかついで現れた。ボーイスカウトを指差して笑い転げる(失礼だろ)いろはを見て、目をパチクリとさせている。たまらず、ぷいと夕暮れの浜へ走った。しばらくいったところで振り返ると、二人はほがらかに笑い合っている。一抹の寂しさに襲われる。そのとき急に、四人の関係に、オトコとオンナ、なんて問題が介在しはじめた気がした。
 辺りはずいぶん暗くなってきた。水平線の向こうの残照で、わずかに手元が見える程度だ。オレが戻ると、いろははまだ火をつけるのに手間取っている。
「ちょっと手伝ってよう、ボーイスカウトさま」
 ノリチカが、ひゃひゃひゃ、と笑い転げた。三人はもう焚き木の周りに車座になっている。ライターを受け取って、オレがお役にまわる。しかし潮風が強まってきて、焚き木にはなかなか火がつかなかった。
「まだかよ、からだが冷えちまうぜ」
「まあ、待てって」
 パンイチで泳いだが、心地よく乾いたシャツが、冷えたからだを包んでくれている。肌に日向の名残が浸透してくる。
「やっぱライターで直じゃ無理だな。なんか燃えやすいもの、ないか?」
「ようし、みんな。カバンの中を探せ」
 権現森が号令をかけると、みんなそれぞれにスポーツバッグを開けた。手を突っ込み、中を引っかきまわす。
「あったぜ」
 ノリチカが競輪新聞を突き出してきた。
「なんでこんなもの持ってんだよ?」
「チャリ屋だからな。タシナミとして競輪くらいやるだろ、フツー」
 なるほど、そういうものかもしれない。その新聞紙を裂いて、焚き木の下に突っ込む。
「賭け事なんてやっちゃダメだよう、ノリチカ。もっと健全に生きなきゃ」
「そうは言っても、ギャンブルみたいなもんだからな、俺様の生き方そのものが」
「そうね、走りもね」
 これにも納得だ。みんな、この日のいくつかのシーンを思い出していた。そして、なぜか言葉が継げなかった。

 一年前には考えられなかった力強さで、チームは試合を押しつづけた。合宿の地獄を生き延びた身だ。痛みを痛みとも感じない。オレもまた、折れた鎖骨が気にならないほど、プレーに集中していた。常に渾身。フルタイム全力。三年めにしてはじめての勝利を信じて疑わなかった。終了まであと10分、というところまでは。
 戦況は膠着していた。何本かのこざかしいPKを決められ、僅差まで詰め寄られていた。明らかにこちらの出足が鈍っている。途切れなく全力すぎた。スタミナを配分していなかったのだ。あれだけ有利に動かしていたモールが、あっけなく押し返される。権現森は最前線で、体を張って踏んばりつづける。歯を食いしばりすぎて、奥歯を砕く音までが聞こえた。身を粉にして戦いつづける態度こそ、やつのキャプテンシーなのだ。そうしてようやく確保したボールが、ノリチカに渡る。一か八かのギャンブル走行。自分の足だけを信じて、突き抜けられると信じて、ただただまっすぐに走る。だが、試合の最終盤だ。ここまで足を使いすぎた。回転数が上がらない。ステップを切れば抜ける、と誰もが思った。が、ノリチカのあまり配線が複雑でない頭には、真っ向勝負しかなかった。まともにタックルを食う。雪崩に巻き込まれるように、短い足が紫紺の悪魔たちの下敷きになった。それきり、この切り札は機能しなくなった。試合が暗い方向に向かっていることは、誰の目にも明らかだった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

20・距離

2015-11-20 09:08:26 | 日記
 チャリから投げ出されたはずみに、痛みがぶり返してきた。が、そんなことを気にしてはいられない。
「いろはっ!」
 倒れているいろはのところに駆けつける。砂まみれの腕をつかんで、引き起こした。どこか痛めたのか、みけんにしわをためている。
「あたしは平気だよ。それより・・・」
 さらに前方の砂山で、大惨事が起こっている。あわてて駆け寄ると、ひっくり返ったチャリの下で、ノリチカと権現森が大の字になっていた。遠目には、死体のように見えた。絵に描いたような、死亡事故現場だ。しかし、現場検証で間近から見下ろしたとき、倒れた二人はゲラゲラと笑いはじめた。
「うはー、す、すげーっ・・・す、す、すげーっ」
「わはは、怖かった・・・わはは、怖かった・・・」
 こちらの心配をよそに、ハイテンションだ。拍子抜けだ。しかし考えてみれば、頑丈だけが取り柄の連中だ。心配する必要などなかった。
 汗で張り付いた制服シャツを背中から引きはがし、脱ぎ捨てた。シューズもソックスも、学生ズボンも放り投げ、パンイチ姿で、白く割れる波に飛び込む。初秋の海水はスネに食い込むほどに冷たかったが、しぶきが日焼けした肌に弾けて気持ちいい。クラゲがちらほらと波間に漂っている。それをよけつつ、男三人でバカみたいにはしゃいだ。波間の光の綾の中で水底が揺らめいている。胸のあたりまで浸かっているのに、足指の間から舞い上がる砂粒のひとつひとつまでがくっきりと見える。一生忘れられないような、鮮明な砂粒だ。
「うわー、すげーぞ。水がきれいだ。おーい!」
 オカに向かって叫ぶ。人影もまばらな浜では、いろはがせっせと立ち働いている。やんちゃな男子たちが脱ぎ捨てていった衣類を、草の上に干しているのだ。ばっさばっさとシャツをはためかせて砂を払い落としてから、きれいにしわを伸ばしてひろげ、風に飛ばされないように四方に石を置く。あたりまえの仕事とばかりに、いつものことと言わんばかりに、黙々と、淡々と動きつづける。マネージャーの性なんだろうか?母性?・・・考えてみれば、いろはには三年間、甘えっぱなしだった。いつもオレたちのことを気に掛けてくれていた。あいつにはなんでもわかっていた。そういう役割だと思っていた。そしてふと、海の中の男子三人と、浜辺のいろはとの、決定的な距離を思う。グラウンド上のプレイヤーと、ベンチのマネージャーとの距離。
 いろはが声に気づいて、小さく手を振ってきた。思いきり手を振り返す。一層、声を張り上げた。
「おーい!おまえもこいよ!」
 いろはは手を振りつづけている。顔の影が陽射しにひらいて、笑ったように見えた。だけどすぐにきびすを返し、「仕事」に戻っていく。仕方がないのだ。水際で隔てられた、届きようもない距離。この距離をいろはは三年間、男子と同じ時間を過ごしながら、ずっと感じていたのだ。
 この瞬間まで、いろはを含めた四人は完全にひとつの共同体だと信じきっていた。四つのピースで完成するまんまるのパズル。すき間のない完全なる調和。だけどそうは言っても、ひとりきりの女子は、現実には異質な存在に決まっている。いろは本人だけが、それを理解していた。間抜けなことだ。オトコ三人がどれだけニュートラルに接しようと、いろははどうしたってオンナなのだから。そこに思い至った途端、恐怖にとらわれる。シャツを脱ぐ三人を見たときの、彼女の目に差した影。非難のような。嫉妬のような。怒りのような。だけどあれは、思えば、あきらめの色だった。
 熟しきったキンカンみたいな太陽が水平線ににじんで、とろとろと溶けかけている。昼間に砂浜が吸収した熱は、ゆっくりと空に向けて還元されていく。海から上がったオレたちは、誰からともなく浜辺に散って、転がった流木を集めはじめた。運び込まれたそいつを、いろはが積み上げていく。
「ね、だれか、火、持ってない?」
 ノリチカが近づき、ジッポを差し出した。なぜそんなものを持っていたのかは訊くまい。いろはは怪訝な顔で受け取る。やがて二人は、ひと言ふた言交わし合うと、静かに笑い合った。二人きりで秘密を共有したような、そんないたずらっぽい笑いだった。そんな光景を横目に見ていると、なぜか心がささくれる。いろはの足下に当たるように、両手に抱えた流木をわざと放り出す。
「いたーい。なによお」
 そんなオレのぞんざいさに気づいたノリチカは、ふうんと鼻を鳴らし、オレンジに照り映える浜へと再び出ていく。いろははこちらを見て、「ヘンなの」とでも言いたげに、細い肩をすくめている。

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19・乾坤一擲

2015-11-19 09:11:43 | 日記
 エテ高戦は、終盤にさしかかっていた。
 ファーストスクラムを組んだときから、トイ面の男の眼が気になっていた。オレの左フランカーというポジションは、スクラムの左外縁部に組み付く。すると、大男たちの筋肉がミシミシときしむ音を右耳に聞きながら、敵方右フランカーの顔を真正面に見ることになる。じっとにらみつけると、相手もすごい形相でにらみ返してくる。イチガンケイ・・・ヤツをそう名付けてみた。髪をトサカのように逆立たせ、歯を剥き、シャープに絞り込んだ体躯で飛び出しに備えるその姿は、まるで軍鶏だ。しかしヤツのいちばんの特徴は、左目の目頭から目尻までを真一文字に走る、太い血管だ。まるで赤い矢が瞳を貫いたような、狂気を宿した赤目。とにかくオレには、ヤツが独つ眼のニワトリに見えたのだった。
(一眼鶏・・・イチガンケイ。ピッタシだ)
 スクラムが散開しても、ヤツはオレを徹底マークし、しつこくまとわりついてくる。こけーこっこっこっ。こちらも負けずに追い立ててやる。しっしっ。局地での個人対決でも消耗戦だ。取っ組み合い、ケズり合う。歯ぐきにぬるい鉄の味を噛みしめつつ、ボール獲得のために小さな主導権の奪い合いをする。言葉は交わさなくても、むき出しの闘志でやり合った。それは敵味方たがわず、ピッチ上の全員がそうだった。気力を振り絞っての総力戦となっていた。
 ついに味方陣内の守備がほつれた。ほころびを裂いて突っ込んできたのは、イチガンケイだ。ボールをかかえ込み、突進してくる。不意に、ぎらついた充血眼に射抜かれた。こちらも射返す。このとき、ふたりの接触が運命づけられた。飛び込みどころを定めたヤツは、狂気を背負って向かってくる。くわーっこここっ。オレを蹴散らし、一直線に突破をはかろうというのだ。
「このやろー、なめんな・・・」
 逃げ場はない。覚悟を決めた。こちらも全開加速する。こうなったらベクトルの太さ勝負だ。気合い値をレッドゾーンに振り切らせ、正対した。抜いたら勝ち、抜かれたらおしまい。試合の流れがこのワンプレイで決定するという局面だ。
「んなろーっ!」
 思いきり、左肩でコンタクト!こめかみすれすれに敵の足を迎えにいき、下半身に肩深くで当たる。最も効果的に破壊力を伝える角度だ。肉を切らせて骨を断つ、カミカゼタックル。しかし不思議と恐怖はない。合宿中、そんな訓練をずっと積んできたのだから。ただし、動かないサンドバッグを相手に、だ。生身の人間で試みるのははじめてだ。
 どすうっっ!
 ヤツの腰骨の芯を食う感触があった。後にも先にもそれ一回きり、という乾坤一擲のタックルが突き刺さった。勢いを生かしたまま、さらにもう一歩、深く踏み込む。同時に、目の前にある二本の足を両腕でパックし、引き絞る。灼熱の校庭で、百万回反復した作業だ。体に染みついている。さらに押し込んでイチガンケイの爪を地面から引っぱがすと、硬く重い筋肉塊が宙に浮く感触があった。空中で足首を刈り取り、そのまま体を浴びせて、巻き倒す。
「ぐうあっ・・・」
 ヤツはトサカから落ち、そのまま密集に飲み込まれた。耳をつんざく大歓声が沸き起こる。危機は去り、再びわやくちゃがはじまった。
 オレは破壊の感触に恍惚した。ところが、なぜか動けない。痛覚が一本、また一本と電気信号を送ってくる。やがて激痛が襲ってきた。痛みの元をたどって、左鎖骨が折れていることに気がついた。タックルの強烈な負荷に、細い鎖骨が耐えられなかったのだ。左鎖骨と頸動脈と交わるあたりが、見る見るうちにピンポン玉を飲み込んだように腫れはじめる。猛烈な痛みに歯を食いしばり、思わず横たわった。
 場内は騒然としている。プレーがいったん切られ、グラウンド内に担架が運び込まれる。
「大丈夫かあっ!?」
 救急の係員ががなり立てているのが聞こえる。ところが、担架にのって運び出されたのは、チキンの方だった。ヤツはトサカを垂れ、腹をかかえ込んでうめいている。腰か背骨か、あるいは内臓か、そのへんをやってしまったらしい。ひとしきり大騒ぎした後、静かに戦場を後にした。安らかに眠るがいい。
 そして、芝生上に倒れ込んだオレを見下ろしているのは、いろはだった。
 ざぶうっ・・・バッシャア・・・
「こらっ。いつまでも倒れてるんじゃないのっ!」
 ヤカンの水をぶっかけられた。
「ぶはっ・・・な、なにすんだよおっ」
「魔法の水よっ」
 しおれた花にも水をやれば、もうしばらくの間はもつだろう、ということらしい。すばらしき古典医学よ。
「さ、もう大丈夫。戦ってきなさいっ」
「大丈夫・・・ったって・・・あの、ホネ・・・」
「いけっ、よしやす!」
 久々に耳にする、上官の命令だった。ぱちんと目が覚める思いがした。そうだ、戦わなきゃならない。動かない左手を右手で持ち上げて、再びピッチへともどった。

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18・地獄の夏合宿

2015-11-18 08:51:51 | 日記
「『地獄の夏合宿』をしましょうっ」
 かつてのポンコツチームが、引退間際にこんなにもまとまったのは、いろはのおかげだと言わざるをえない。最高学年でマネージャー頭となったいろはは、夏休み前にこう提案したのだ。
「・・・合宿う?」
「いえ、『地獄の』やつです」
 部員一同は、きょとん、とこの黒髪の小鬼を見つめた。地獄の夏合宿とは、大学のラグビー部などが高原で「死ぬほど練習したおす」牢獄生活のことだ。誰もがおののいた。そこまで熱い気持ちを持っているわけではない。エテ高には勝ちたいが、死ぬほどの苦痛を課してまで、とは思わない。地獄なんて御免だ。が、有言実行のひと、いろはは、その日からひとりで駆けずりまわった。そして、わずか数日ですべての手配をすませてしまったのだった。
 夏休み。リアルな地獄を体験することになった。宿舎は、学校の体育館だ。フロアの一角に柔道部が荒らした古畳を敷きつめ、その上で雑魚寝をする。飯炊きを担当する女子マネージャーたちは、職員室の脇に設えてある宿直室に泊まり込む。ラグビー漬けの一週間がはじまった。
 酷暑の下ではじまった練習は、バカバカしい、の一言に尽きた。走る、飛び込む、ぶつかる、押す、食らいつく、取っ組み合う、なぎ倒される、転がる、痛めつけられる、のたうちまわる・・・這いつくばる、立ち上がる、這いつくばる、立ち上がる・・・そして、耐える。ただただ肉体をいじめ抜くだけのメニューの連続だ。間断なくこらしめられつづけなければならないこの練習メニューは、何冊ものラグビー教書を首っ引きで読みあさったいろはが組んだ。
「ふぁいとーっ」
 なにがファイトだ。心底、この小鬼の提案を忌わしんだ。ところが周囲を見ると、権現森もノリチカも、素直に命令に従っている。やつらがやる以上、オレもやらなければならない。この三人は、そういうシステムなのだ。そして前途有望たる後輩たちも、オレたち三年生を信じて従っている。もうやるしかない状況だ。何十分かおきに与えられるコップ一杯の水だけに希望を見いだし、ひたすら地面にダイブし、巨大な質量に圧せられ、十万回這いつくばり、同じ数だけ立ち上がり、土ぼこりの中で喘ぎつつ、鉛のような足で疾走した。
 練習後、魂の抜け殻となり果てつつ、ドロだらけのスパイクを足の甲から引っこ抜く。ソックスを脱ぐと、何日もつづく苦役で、足の親指の爪が圧死していた。血の気を失ってはがれ、もはや自分の肉体の一部とは思えない異物感だ。蒼白の爪は、風が吹くと根本を残してプラプラする。痛覚とも断絶されたようで、触れてもなにも感じない。
「壊死したのね。ものの本によると、コレは、抜いた方がいいわ」
 夜、軍隊カレーを食べ終えてゴロゴロしていると、いろはがどこからかペンチを持ち出してきた。その後のことは・・・ここで書くことはできない。翌日からは、足の親指はぐるぐるにテーピングされていた。が、それでも休まずに走りまわった。
 毎朝、目を覚ますと、オイルサーディンのような雑魚寝コーナーは、うめき声に満ちていた。フォワード陣は、スクラムの組みすぎで肩の神経が麻痺して、仰向けの状態から首を持ち上げることができない。肩に触れてみると、そこは水脈が死んだ荒野のようにひからびている。皮膚の感触はケヤキの幹にそっくりで、叩いてもつねっても応答がない。オレも権現森も、畳の上でそっと、そっとからだを半回転させて腕立て伏せの体勢になり、祭の風船釣りの要領で頭を持ち上げて、ようやく起き上がるという始末だった。バックス陣もひどかった。体育館内を四つ足で這って移動しているのだ。やつらもまた、ウインドスプリントやステップ反復の疲労をため、足腰が立たくなっている。まったく、哀れな姿だった。
 基礎トレ地獄は圧倒的に部員を蝕んだが、そんな惨状にもかかわらず、練習は黙々と行われた。ただひたすらに、その都度与えられる質と量とを肉体で漉し、エネルギーを通過させた分だけ疲労をたくわえた。死ぬかもしれない、というほどの練習をした後、合間のわずかな休憩時間に少しでも眠り(気を失うようなものだった)、蓄積した乳酸を溶解させるという単調なリズムのくり返し。先を見れば、途方に暮れそうになる。とにかく観念しきって、今その時々を全力で疾走するよりほかに時間を進める手立てはなかった。
 それでも充実感はあった。朝イチ、グラウンドの乾いた土に寝そべり、成層圏まで抜けた青空を見てストレッチをしていると、清々しい空気が血液の中で循環して、体内の組織が生まれ変わっていくのがわかる。自分が更新される。今日もやらねば、という気にさせられる。しかし、最初の一歩を走りだせば、コールタールの沼に足を取られる悪夢が待っていることに変わりはなかったが。こうして毎日、自らを粉砕しながら練り上げた。
 一日三度の練習のすき間にこじ入れられたわずかな自由時間を、オレは一本のヒマラヤ杉の下に置かれたベンチで過ごした。ペンキがハゲちょろけた硬い座面に、仰向けに寝そべる。そこは窮屈だが、しっくりと背中を受け止めてくれた。縞になって落ちてくる木漏れ陽を見上げていると、光合成で生まれたての風が日焼けした額を転がった。清潔な酸素はズタズタの皮膚へとしみ込み、入れかわりに筋肉束の間から疲労感がこぼれ落ちていく。夢心地、というやつ。入眠の落下感に必死で抵抗し、たちまち敗北するまでの気だるいまどろみが、その時点での究極の幸福感だった。
「筋肉、ついたねえ」
 ベンチに寝そべるオレの肩を、細くてしなやかな指がまさぐっている。目を薄く開けると、タンクトップ姿のいろはの顔が間近にあった。食品検査官のように、肩の肉質を調べている。
「なかなかいい男子になってきたよ」
「さわんなよ・・・」
「ふふふ」
 夢の世界から半分戻れないままに、光の中のいたずらっぽい顔を見つめた。触るにまかせておく。うっとりとまた目を閉じる。
「あんたはいつも私の前で、だらしなく倒れてるのね」
「ああ・・・ほんとだな・・・」
 ぼんやりとまた眠りに落ちていく。また夢を見る・・・
 はた、と気づき、完全に目が覚めた。跳ね起きる。いろはの姿はもうない。
(・・・あいつ、覚えてたのか!)
 「いつも倒れてる」とは、あの幼い日のことだ。しかし思い返せば、オレはいつもいろはの前で、しまりなく仰向けになっている。確かに。

 そうだ、あのときもだ。

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17・スピード

2015-11-17 09:16:42 | 日記
「まだかー、海はー」
 ノリチカがうめく。足を引きずっている。
「うるせえな。いいから歩け」
 口元に血をじくじくとにじませた権現森がつぶやく。炎天の下、海岸への看板をたどりたどりに歩いていく。
 突如として、衝立てのように立ちはだかる登り坂にぶつかった。この巨大な難所は、なるほどその先に広々とひろがる水平線を予感させる。最後の力の振り絞りどきだ。
「のぼるぞ」
 バッグをカゴに満載した自転車は、坂を押し上げるのに一苦労だ。権現森は、ノリチカからそのハンドルを引ったくり、黙って押しはじめた。オレも後ろから押す。さらにその背中をいろはが、半分身を預けるように押す。ノリチカはとぼとぼとついてくる。空に向かう曲がりくねった道を喘ぎ喘ぎに、一歩、一歩と標高を稼ぐ。
「あ」
 たどり着いた頂上で、景色がすこんと抜けた。太陽が真正面にいる。降りそそぐ陽光が額を焼いて、皮膚が裂けそうだ。風がくる。肌にはっきりと海を感じる。鼻の穴を開ききって熱い空気を吸い込むと、ざらついた潮の匂いがくっきりと立ち上がった。あとは浜までの道のりを下るだけだ。
「よし、みんな乗れい」
 権現森がサドルにまたがった。全員、自分の荷物を肩にタスキ掛けにする。荷台にいろはを座らせ、オレはその後ろに立ち乗りした。小柄なノリチカはなんと、前カゴに尻を乗せて後ろ向きに乗り込む。めちゃくちゃな四人乗りだ。
「しっかりつかまれ。落ちたら死ぬぞ」
 サーカスの曲乗り一団は、ヨロヨロと心許なく動きだした。権現森の、なんともものすごい脚力だ。加速するにしたがってバランスも安定し、やがて丘からなだらかに下る坂を疾走しはじめる。結構なスピードだ。立ち乗りで荷台に引っかけたつま先があやうい。それよりも、権現森の大きな背中にしがみつくいろはが気になる。バストはどう接触しているのか、抱きしめる手はどこをつかんでいるのか。危険極まる。そんなこんなを気にもかけず、権現森は涼しい顔でノンブレーキだ。穏やかを装ってはいるが、やつはとんでもなく剛胆なのだ。松の樹々に覆われた枝道に飛び込む。うねる。スピードが上がる。松林の奥で、海岸道路の高架が交わっている。橋脚の間の窓を切ったような小さなスペースに、水が光った。窓が開くにつれて、モクモクと入道雲が立ち上がっていく。景色全体が、写生の日の画用紙みたいにまばゆく輝きはじめる。左右に立ち上がる緑を後ろにすっ飛ばし、草っぱらを貫く最後のアプローチを駆け抜け、高架をくぐった瞬間、目眩むような白砂の浜が現れた。いきなり視界が破裂する。砂浜の向こうに、紺碧の海がひろがる。
「わあーっ!」
 海を見た人類がいつも上げる歓声を、オレたちは爆発させた。
「うみだあーっ!」
 なにかから脱出した、突き抜けた開放がそこにあった。
 が、フルスピードのチャリはなおも、砂だらけの舗装路を進みつづける。恐ろしい勢いだ。四人分の質量と位置エネルギーは運動エネルギーに変換され、権現森が渾身の握力でもってブレーキを絞り上げるにもかかわらず、加速をやめない。
「ちょっとっ!・・・ねっ、ねっ、あぶなくないっ!?」
「わ、わ、わ・・・」
 権現森が、声にならない声を漏らしている。やがて前輪が柔らかい砂を噛みはじめた。舗装路は前方からせり出た砂の底に溶け入って、浜にフェードアウトしている。チャリはいよいよ制御不能となり、激しく振動をはじめた。
「うわーっ!」
 タイヤが砂に取られてハンドルが利かない。バランスを崩してよろめきだしたチャリは、もう立て直すことができない。荷台に立つオレがまず最初に振り落とされた。柔らかい砂の上でもんどり打つ。鎖骨が、ずきんっ、と痛む。それでも天も地もわからないままに、チャリの行方を目で追った。いろはが振り落とされている。運転席の権現森と、前カゴに尻をはめ込まれたノリチカは、さらに地獄へと突き進んでいく。
「うあぁぁぁ・・・」
 ついに前輪が砂山に刺さり、つんのめって、二人はジャックナイフの要領で空に投げ出された。チャリごと、前方一回転宙返り。
 ぼすっ。どさーっ・・・
 後輪への荷重を失ったチャリに、一本背負いを食った格好だ。四人は、点々と、それぞれの場所でノビた。

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