日本語史資料の連関(裏)

日本語の資料、日本語学史の資料の連関をめざす(裏)。「表」は別のところにあります。

芳賀矢一「徳川時代に於ける国学の趨勢」1

2005-03-13 00:23:32 | 学史
 国学といふことは、勿論古い時代にはないことでありまして、徳川時代から始まった語でありますが、この徳川時代は御存じの通り漢学が非常に盛な時代でありまして、儒教と云ふものが全く教育の中心になって居る。文学と云へば、漢文の文章を作り、詩を作ると云ふことが殆と学者の仕事になって居りました。そこに一つの国学と云ふものが起って参りまして、それが漢学と云ふものと対抗してさうして非常に盛な勢となり、終にそれが此王政維新の大業にも影響を与へたと云ふことになりました。徳川時代の国学者の致しました仕事を見ると、実に我々は感謝しなければならぬ事を痛切に感ずるのであります。又この国学の精神と云ふものは、将来に於ても益々発達させて行かなければならぬ事と考へるのであります。此国学がどうしておこって来たかと申しますのには、先づこの国民が自分の国と云ふことを自覚して来たと云ふことから起って来て居るのであります。所謂倭冦といって、頻りに支那や朝鮮の沿岸を荒すと云ふやうな工合に、日本人が外国へ出掛けて行ったことは桃太郎が鬼ヶ島に渡って行くといふやうなお伽噺、又御曹司島渡りなど云ふ小説にも表はれて居る通りでありまして、随分と遠征を試み冒険をやったのでありますが、外国との交通も段々戦国時代になっては起って来ました。西洋の文明と日本の文明と相接近する時期になって来て、単に支那朝鮮のみならず、西洋の船も日本に来ると云ふことになりました。そこで所謂鉄砲が渡って来るとか、西洋風の鎧が多少日本に這入って来るとか、精神上から申しますならば、耶蘇教のやうなものも段々這入って、それが日本国に普及するやうになって、東西文明が接触する時代になった。さうなりますと自然に自分の国、外国に対して日本の国と云ふ自覚心が起って来るのであります。
 そこで徳川幕府になりましてからは、所謂鎖国主義を執って、耶蘇教撲滅と云ふことに致し、さうして儒教を大に起して、日本の国を儒教で支配しようと云ふ方針になったのであります。そこで儒教が段々発達し、太平も打続いたから、段々書物を読む時代になりまして、即ち学問が復古する時代になりました。さて一方に国民の白覚心と云ふものが益々発達して来ますと、つまり支那も一つの国であるから、矢張り日本では日本特有の考を有たなければならぬ日本の国にも太古以来自づから確乎たる一つの教訓があるのである、日本は何もかも支那のお世話で開けたのではない。又仏教のお世話にばかりなって居るわけでは無い。日本人には日本人の道がある。日本国民は日本国の古い精神を明かにしなければならぬと云ふやうな考が、段々と起って来たのであります。
 それには日本の古い国史を研究しなければならぬ。さうして又一つは神道と云ふものを育てなけれぱならぬ。そこで初めの中は、仏教の学問をした者が仏教に明るい眼からしてその知識を基本として日本の国体を説いて、神道を立てゝ行かうと云ふ考を有った人もある。又儒者は儒者の精神からして、日本を説明するに応用しようと云ふ考を起すに至った。林羅山と云ふやうな人は、朱子学派の大儒でありますが、既に日本は神国なりと言って神仏混淆、と云ふやうなことに就ては、多少反対の意見を漏して居る。本朝神社考などを書いて神社の事を研究して居るのでも分ります。顧みれば鎌倉足利時代には学者は坊主に限る事のやうでしたが、徳川になって、儒教が起ってからは、儒者と云ふ一つの階級が社会の上に現はれて、儒学で以て立つと云ふ人が追々出来て来た。さうして是まで学問と云へば或家の専有物で、何事も口受口伝でやって行くと云ふやうな弊風があったが、さう云ふ事に反抗することが儒者の側から起って来た。即ち昔から立て来た権威と云ふものを認めない。学問は私すべきものでない。先生の説であればとて誤があれば改めて行かなければならぬ、是までの口受口伝などゝ云ふことは取るに足らぬものであると云ふ気風が儒学者の中にも起って来た。そこで各々一家の言を立てゝ行かうと云ふ風になりました。
 歌の方から申しましても、以前はやはり秘事口伝と云ふやうなことを言って、極つまらぬことを大事さうにして子弟に伝へて行くと云ふ風で学問を広く人に知らせるのではなくして、少数の人に伝へると云ふ弊があって、歌学は益々衰へて行くばかりであった。所が儒者の方からして既にさうであると同じく、歌の研究の上からも自由に大胆に告白する人があらはれた、時代精神がそこにもあらはれました。
 歌などを研究する人々は一層日本と云ふ事に考へ及し、儒者が古人の説を相手にしないと云ふ見識と同じく、昔からの古伝説に漢学の方からの説明を多く加へて居るのは面白くないと云ふ大きな反抗心を起して来ました。儒者の説を混へたり仏教の説を混へたりしたのは面白くない、純粋に日本の事を研究しようと、斯う云ふ考の次ぎに起って来るのは当然の事であります。かの山崎闍斎が坊主を罷めて儒者になって儒者から又神道を唱えたと云ふやうなのは一身を以て寔に能く時代精神を表はしたものです。当時水戸の義公が大日本史を編纂しようと云ふ考も、此国民の白覚の声の外はありません。其の外伊勢の外宮の学者、例へば度会延佳と云ふ人、又ト部の神道の吉川惟足と云ふやうな人々の神道は皆国民の自覚の声が表はれて来たのであります。又鴨祐之などが、日本逸史等を拵へて歴史上の研究に資するとか、松下見林と云ふ人が、異称日本伝を拵へるとか、前王廟陵記を拵へるとか云ふ考も皆同じやうなもので、又神道なり国史なりに向って、研究を進めて行く国民の自覚です。
 松下見林などは昔日本には紀伝道と云って、支那の歴史を研究した道があった。然るに日本の紀伝道がないと云ふので、是がなくてはならぬと唱へて居った。併し是等の人々のすることはつまり漢学者や、医者や、仏教に這入った人がするので、古い伝説を其のまゝ襲うて行くことには反対しても、又自分の独断と云ふことは免れない。自分で説を立てゝ何か日本に説明を与へたいと云ふ考から、儒家又は仏家の説を以て説いて行くのであるから、幾らか仮説が混って来るのであります。それではどうも面白くない。幾ら日本の事を説いても矢張りそこには支那の学問が混って来る、仏教の説が混って来ると云ふのでは面白くないと、斯う云ふやうな一つの考が当然起って来る訳であります。かの山崎闇斎の如き者も、度会延佳に学び、それからト部の吉川惟足に学んだ、伊勢流とト部流の両方を学んでさうして垂加流の神道を起して来たのであります。それらは皆多少僻説を混へた説であるが、それは総て是までの権力と云ふものを打ち棄てゝ来る運動……自覚心と云ふことの運動に於ての初めての現象であって、さう云ふ順序を経なければならなかったでありませうが、一旦はさう云ふものが起って来たのであります。さうなって来るともう一層進んで所謂純粋な独断の這入らない学問が起つて来なければならぬ順序になって来ました。
 それはどう云ふ形で起って来たかと云ふと、矢張り歌の方の側から起って来ました。即ち歌道が秘事口伝を第一とする有様であったに依って、自然所謂二条家、冷泉家などの堂上家に総て権力を握られて居ったのに対して、その学問の根拠には間違がある。寧ろそれを正さなければならない。定家仮名遣と云ふものを人が信仰して居るけれども、少しも学問の根拠がない。定家を排斥する者は罰が当ると云ふことは言はれて居ったが、これは寔に根拠のない話であると、斯う云ふ風の側からして、戸田茂睡の如きは、歌の事に就て、所謂革命の旗を飜へして居る。それと同じやうに下河辺長流と云ふ人もあり、契沖阿闍梨と云ふ人も出て来て、万葉集などを研究して是まで学問のない時代に、唯伝授々々と言って居ったのは、浅はかな事であると云ふことが段々分って来まして、是等の先生は、自分で研究を尽して進むべしと云ふ考で、是までの二条家、冷泉家の説を打破らうとしたのであります。契沖は坊さまでありまするし、少しも世間に関係がないから、尚更白由白在に学問のみを研究することが出来た。その学問上の根拠は、どこにあるかと云へば、先生の伝授にあるのではなくして、自分の研究にある。日本の旧い書物が其証拠で、仮名遣の中点はどこにあるかと云ふと、万葉集が証拠であると云ふことで、初めて引っくり返して、新仮名遣を唱へたのであります。
 つまり自分の独断と云ふことが少しも這入らない。何でも旧い書物に拠り、所謂帰納法で結果は斯うなると云ふことを考証に求めてやるのである。文献に徴して証拠立をするのである。契沖の百入一首改観抄と云ふやうな書物は、是までの百人一首と違って万葉集には斯うあると言って、一々其の考証を引いて説明して居る。北村季吟の如きは、成程博覧な人であって、此の時代に国学を広げた功労はありますけれども、併しながら新しい研究法が少しもない。季吟の拵へた、湖月抄や、春曙抄は、今でも便利として居るけれども、あの研究法は、昔から伝へた説を公にしただけのものである。新しい研究法は少しも無い。契沖は新しい研究法によって、総べて自分の釈解は昔からの人の説に依らないで、旧い書物を証拠にして議論して行ったのである。それ故堂上家、公家様の是まで伝へて来た所のことに就ては、良い事があれば之を採ることは勿論だが、悪い事があれば飽まで採らないのであります。此のやり方は極めて学術的のやり方でありまして、国学の基礎と云ふものは即ち此に成立ったのであります。それ故宣長の如き人も契沖を国学の親であると歎称して居ます。契沖も明治になってから贈位にも預った。坊さんでありながら贈位になると云ふことは珍らしいことであります。
 さういふ風にして、日本の旧い事を研究するのには、どうしても日本の旧い文献、旧い文学に徴して、即ち国語、国文を研究して其上に打立てなければならぬと云ふ所謂基礎がこゝに成立った。それ故本居宣長は初めに百人一首改観抄を見てこの新研究法に感心して国学を起す志になった。されば宣長は真淵の門人であるが、間接には契沖の門人といっても宜しい、世を隔てた門人と言っても差支ないと思ふ。ところが此の契沖と殆んど同時代に、さういふ坊さんではなく、京都の稲荷山の神主の家に生れた荷田春満といふ人が居た。此の春満はやはり契沖と同じ方法に依って、広く古文献に徴して日本の国の事を研究しようと、此の人が初めて国学、国の学びといふことを唱へ出した。春満の考では是までの学問は支那人の糟粕を嘗めて居る、或は仏教徒の余瀝を啜って居る。かやうな遣り方では日本国はどうしても分らぬ。是までの神道家と云ふものゝ日本文明を説明するさまは、兎角儒者や仏家の方から採って居るものであって、其の方法では到底日本の国の真相は分らぬと言ったのです。歌と云ふ事よりも、寧ろそれに依って日本の神道を研究し、日本の古道を研究せねばならぬと論じたのであります。だからして此の人を国学の四大人の第一に数へる次第です。斯くて春満は国学校と云ふものを建てゝ、……漢学に対して一の国学校を起さなければ、日本の国学の本当の道は分らぬと云ふことを唱へて、幕府へも其の趣意を建白した。幕府も其意見を多少容れることになった。是に於て民間に起った国学校が、やゝ当路者の視聴を動かすことになって来たのである。
 そこで春満も矢張り契沖と同じく、国語、国文に依って説明すると云ふことになると、どうしても旧い詞を研究しなければならぬ。旧い詞を研究するのには、どうしても日本の古典を読まなければならぬ、即ち万葉集の研究から始めるが宜いと云ふことになる。万葉集は昔の歌集であって沢山な旧い詞が這入って居る。古事記のやうなものを読まうとするには、先づあれを読まなければならぬと云ふことになる。処が此人は惜しいかな国学校を建てるに至らずして、京都で卒ってしまったのであります。其の弟子もかれこれありましたが、中で賀茂真淵、遠江国の人でありますが、矢張り神道の家に関係のある人であります。その友達に杉浦国顕と云ふ人がありまして、是が春満の姪を家内にして居る所から、春満が江戸に参る時には杉浦方に宿を取った。その縁故から真淵も遂に春満の門人になって、四五年ばかり春満に就いて学んだのであります。されば真淵は契沖などに依っても利益を得たこともありますが、春満から直接に教を受けたのであります。そこで段々学問が進んで来たので、契沖は僅に二三段の梯を拵へたのに、真淵は早や五六段を拵へたのである。真淵自身も、自分は先輩の学問の上に二三段を拵へたぼかりでまだ十段目には達しないと言って居ます。即ち十分とは思って居らない。併し契沖よりは進んだと云ふことは自覚して居る。宣長は我師を以て契沖に比べれば、契沖の如きは殆んと赤ん坊のやうなものであると言ひました。真淵は契沖に比べれば、宣長の眼から見ると其の位進んで居る。今日万葉集を読んでも、真淵の万葉考は余程進んで居る。処が真淵も古典を研究するには万葉集を読まなければ成らぬと云って、全力を注いで研究したので、万葉考及び別記と云ふ重なる著述と、其余に万葉の考を研究するに就て、冠辞考などゝ云ふやうな寧ろ副産物も出来たのである。勿論、古事記も読みました、祝詞、神楽歌、催馬楽、並に古今集、伊勢物語、源氏物語までにも研究を及ぼされました。されば真淵の学問は上古から平安朝までに及ぼしたのでありますけれども、其の重と精神をそゝいだのは奈良朝文学であって、万葉集の研究が其の根本であったのであります。さうして春満と同じ様に支那の影響のない時代に溯らなければならぬと云ふ考でありますから、支那の学問が渡って来て此方のものは排斥する傾を有って居りました。そこで真淵は何事も奈良     、其の以後のものは棄てると云ふことになった。真淵の言に山に入るのには其の入口が大事である。初めは最も広い所からして這入って行かなければならぬと言って居る。後世の錦と云ふものは中古の綾よりもきたない。後世の綾は中古の綾に如かぬ。又中古の綾は上古の賤機に如かぬ、上古の賤機は質朴であるから一番良いと言ふのです。そこで真淵は老子を尊びまして、支那では孔子よりも老子が良いと云ふ説に帰着することになって居る。即ち段々昔に帰って来る……そこで文章も其の意味で作り、歌も其の意味で作ると云ふことに成って居ります。
 此の頃は漢学の方に於てもさう云ふ運動が起って来て居る。それは段々と儒者が出て朱子や王陽明の学を唱へて居るが、さう云ふものは宋や明の学者の主義であって、孔子の主義ではないと云ふので先づ伊藤仁斎が古学を唱へて居る。又物徂徠はそれに対抗して、矢張り江戸に於て古文辞学と云ふものを唱へ出しました。文章を作るにも、総ベて秦漢以上の詞だけを用ひて書くと云ふ主張である。真淵は丁度その時代に生れまして、真淵の幼少の頃は物徂徠が盛名を得て居る時代であるから、真淵は恐らくはそこらから何等かの影響を蒙ったらうと思ふ。之を国学者に言はせると嫌がるが、併しそれが有ったと云っても決して疵の附くわけでない。徂徠の門人の慥か南郭かと思ふが、其の門人に渡辺蒙闇と云ふ人があります。是が実に真淵の漢学の先生である。故に漢学の方は徂徠からして孫弟子に当るのであります。だから徂徠の古文辞学を以て一世を風靡したと云ふことは、真淵には余ほど大きな影響を与へたかと思ふ。取りも直さず真淵は丁度徂徠のした事を国文でしたのであります。即ち日本の古文辞学と云ふものを唱へ、奈良朝時代以前の詞を以て、日本の文章を作り、歌を作ると云ふことをしたのであります。但し徂徠は孔子の像に対して自から東夷人物茂卿と唱へた程で、頗る支那を有難がった者でありますが、さう云ふことは国学と云ふ見識からして真淵は極端に反対して居る。つまり支那から這入って来た事柄を排斥すると云ふことが初めの動機であって、春満以来さうであるけれども……後には何でも支那の事はいけないと云ふことになって、極端に支那の事を排斥することに傾いて居ります。何でも復古的にやらなければ成らぬ、後世から附加したものは総ていかぬと云ふことになって来た。同じく古文辞学であるが、一方は孔子の道に就てゞあり、一方は日本の国家と云ふことの上に就てゞある。一方は孔子に対して東夷人などゝ言ったが、一方は支那の聖人はそもそも偽善者だと論じて居ります。それ故真淵の如き国学の運動は、一方から見れば、漢学の反対として起って来たと言っても宜しい。此の真淵は江戸に出まして、多くの註釈書を出し、且つ其の博識を以て人に教へまして、三十年間も江戸に居って多くの生徒を教へて居りましたが、それは単に註釈をするとか、古い学問をするとか、学者的の仕事ばかりではない、白から歌を作り文を作るの模範を示した。恰も物徂徠が初めて立派な漢文を書いて天下を風靡したと同じやうで、真淵が名声を得たのも、一つは歌文の才が大いに助けて居る。それが評判を高くしたのであります。さうして江戸の花の都に居ったのであるから、国学が益笹間から認められるやうに成って来ました。其功労は余ほど大きなことゝ言はなければなりませぬ。
 江戸には沢山の人があるから、多くの学者がそれに就て学ぶやうになって、欝然として最早漢学に対抗する勢力となって来て、世間でも国学を認める様になって来たと思ひます。併しながら真淵は歎息しました、自分が是だけ研究すると云ふ事は、つまり日本の古い詞を研究して、さうして日本の皇道を明らめると云ふ主義である。然るに我が門人を見ると、多くは歌や文章に力を入れるが、古い皇国の事に力を入れる者が少ないと言って歎息しました。それは恰も自分の娘に沢山芸を仕込んで、嫁にやらうと思ふ時分に、あだし男を拵へて迯げたやうなものであると云ふことを言って居る。真淵の真意とは違ひましたらうが、真淵の歌文の才がそれだけの門人を呼んだので、仕方がありませぬ。彼の村田春海の如き、橘千蔭の如き皆歌文の人であります。又真淵の門人中には大分に奥御殿から女中が来て居ます。是等は皆歌を学ぶと云ふことの為に来たのであらうと思ふが、兎に角歌を学び文を作ると云ふことに就ては、一々論拠のある学者であるから、安心して習へると云ふことになったのが、此の国学の基礎を固めたのであります。
 処が此の真淵の門人中で、田舎に居りました本居宣長は、伊勢国松坂の人で、真淵が松坂にまゐりました時に、初めて会ひまして、さうしてかねがね真淵の書物も読んで感服して居るので、どうか門人になりたいと云ふことを願ひました。其の時真淵は余はもう年取って古典を研究する暇がない。お前は十分に古事記を研究したら宜からうと言はれたので、そこで宣長は謹んで其の教をうけて、三十余年間の苦心を積んで拵へたのが、即ち古事記伝四十五巻である。それはどう云ふ立場から来るかと云ふと、総べて是までの国史は日本紀を基礎として居る。日本紀は勅選の国史であるからして、之を確かなものとして取ったのであるが、それは矢張り支那的の頭脳であって、真実には此の古事記が大に尊ぶべきものであると云ふので、此の事は真淵も書意考に論じてあるのであります。
 宣長の時代は、春満の時代から真淵の時代を経ましたから、大層に学術が進んで来まして、平安文学、古い文学書のいろいろの註釈書までが出来た。又其の他の学問の研究も出来た。宣長が一生懸命古事記を研究する間に、其副産物として、詞の玉の緒とか、玉あられとか、万葉集玉の小琴とか、源氏物語玉の小櫛とか云ふやうな風に、つまり六十何種と云ふ著述が出来ましたが、皆それは古事記伝を拵へる為の副産物と云はなければならない。さうして是までの詞を研究して、一々詞の解釈を加へ、国語の性質も多少説いて来ることになった。又文法のやうなこと真淵も少し説き始めて来た。「ア」の段は物の初めの段である。将然の段で「行カン」とか「思ハン」とか云ふは未来のことである、「キ」と「イ」の段は連用語になる形である、「ウ」の段は用言の動詞になる形になる、「エ」の段は命令の形であるとか、ボンヤリと文法のことを考へ出すやうになって居たが、宣長になっては詞の玉の緒と云ふものを拵て、所謂かゝり結びのことを研究致し、これからして詞の活用と云ひまして、日本の動詞の研究なども始めて来るやうになって来ました。そこで先づ宣長に至りまして、徳川時代の国学と云ふものは、殆んと九分までの発達を遂げたと云ふやうな形になって来たのであります。先づ一段と大きな発達をしたと言っても宜しいのであります。


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2 コメント

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老子 (湖南)
2005-03-24 22:17:19
初めまして



苦手な分野なので大変ためになります。

ところで真淵が老子を研究してその神秘主義的部分に注目したというのは本当なんですか。

よろしく。

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気付くのが遅れました (kokugogaku)
2005-03-29 12:49:15
コメントやトラックバックがあったらメールが来る設定にしているのですが、どうやら来なかったようで見過ごしていました。

返事が遅くなり済みません。



芳賀矢一は、真淵は老子の質朴を尊んだ、と言っているのだと思います。神秘主義云々のことは分かりません。



いずれにせよ、芳賀矢一のこの文は、百年近く前のものですし、「そうなのか」ではなく、「芳賀矢一はそう言っているのか」と思って読んでいただければと思います。
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