日本語史資料の連関(裏)

日本語の資料、日本語学史の資料の連関をめざす(裏)。「表」は別のところにあります。

慶應第四年戊辰夏五月『都鄙新聞』第二

1868-05-11 00:00:00 | 近代語
仏蘭西人の話の釈文大坂より来状抜書 ○この頃、大政一新せる日本帝国の布令多くは支那の語を用ゆるが故に、民間に読む者甚少く、読て其意を解せざる者、十人に八九人なりと云。これ文学技芸の教育ゆきとゞかざる故なるばし。各国文明の開けし折柄、如此き闇昧の土地は世界中にまれなりと思へり。各里各村に於て小学校を建てざるべからずと云。
(原文は片仮名)

【参考文献】
中山泰昌(1934)『新聞集成明治編年史1』p78



慶應第四年戊辰夏五月『都鄙新聞』第一

1868-05-01 00:00:00 | 近代語
此頃《このころ》鴨東《かはひがし》の芸妓《げいこ》|少女《まひこ》に至る迄、専ら漢語《からことば》を使ふことを好み霖雨に盆池の金魚が脱走し、火鉢が因循《いんじゅん》してゐるなど、何のわきまへもなく、いひ合ふこととなれり。又は客に逢って、此間の金策の事件に付建白の御返答なきは如何が、など実に聞に堪へざること也。鴨西漁隠曰、己若かりし比は近国近在富農の娘を京奉公に出すは、給金に不拘、行儀言詞のやさしきを習ふが為め也。糊《のり》を「のもじ」と呼び、葱《ねぎ》を「ねもじ」といひ、「かちん」をはやしてを「むし」にて烹るなど如何にも皇都《みやこ》の優なる詞《ことば》なるを、〓[魚條]《どじょう》に天誅を加へ、鮒に割腹させて、晩餐の周旋せん、閨中の事件は、我が関係せざる所なり、など、厨下《だいどこ》の少婢《しろは》に嘲らるゝ、面白き時勢となれりと云々
(原文は片仮名・「」は傍線)

『幕末明治新聞全集』第5巻 p74-75

【参考文献】
中山泰昌(1934)『新聞集成明治編年史1』p78
日置昌一(1950)『話の大事典 第1巻』万里閣 昭25.12.10 p355
岩淵悦太郎(1952)「明治の自由学校」 『言語生活』 昭27・1 68ペ (未確認)
日置昌一(1952)『ものしり事典 言語篇』河出書房 昭27.10.15 p73
池上禎造(1957)「漢語流行の一時期」(『国語国文』)『漢語研究の構想』
寿岳章子(1960)『現代のことば』三一新書 第1章 p23-24
池上禎造(1974)「日本における漢字」(『アジア文化』11-2)『漢語研究の構想』
松井利彦(1977)「漢語辞書の展開―『布令字弁弐篇』と『未味字解漢語都々逸』の成立をめぐって―」 『京都教育大学国文学会誌』 13
飛田良文(1992)『東京語成立史の研究』東京堂出版 p430
樺島忠夫(1981)『日本語はどう変わるか』岩波新書 p3
『日本語百科事典』p453
小島憲之『日本文学における漢語表現』
『日本を知る小事典2ことばと表現』現代教養文庫
『講座国語史・語彙史』大修館書店 p361
佐竹昭広「和語と漢語」
米川明彦『新語と流行語』南雲堂
『漢字講座10』明治書院 p141
木村秀次(1994)『研究資料漢文学10』明治書院 p262
進藤咲子「漢語サ変動詞の語彙からみた江戸語と東京語」国語学 054