歳時記に記されている忌日はよく知られているので、別に季語を入れるまでもない。
しかし、あまり知られていない忌日は別に季語を置いたほうがよいと聞いたような気がする。
石川桂郎の句にチエホフ忌がある。
噴水の音にもあるやチエホフ忌 桂郎
チエホフは1904年7月2日に没した。これは新暦の7月15日なのだそうだ。
夏である。桂郎は「噴水」を入れている。
草田男の句がある。
燭の火を煙草火としてチエホフ忌 草田男
これはそういう配慮はない。
バッハ忌のわが盃のみに灯蛾溺れ 楠本憲吉
バッハは1750年7月28日没。夏季である。蛾が置かれている。
草間時彦は没日を前書として記してモーツアルト忌を詠んでいる。これなら初心にもよくわかる。
十二月五日
菊焚きてモーツアルト忌の夕べかな 草間時彦
ゲーテは1832年の1月29日に没した。冬季だ。
阿部次郎はゲーテ日として詠んでいる。
残飯でゲーテ日過ごす野分かな 阿部次郎
野分は秋季。食い違いがあるが、実は誕生日なのだそうだ。ゲーテは8月20日生まれ。
忌日ではなく誕生日というのが面白い。阿部はどうも誕生日を季語とする推進論者だったらしい。
<俳句の季題には忌ありて誕生日なし、誕生日は両陛下の天長地久両説あるのみ。死者の誕生日は年中行事より姿を消し去るを常とする。されど偉人の生涯に於いて記念すべきは豈その物故の日に限らむや寧ろ世界が其人を所有するに至りたる誕生日こそ永久に記念すべきなれ。故にゲーテ日という新語を製造してこれに季感を持たしめんとす>
しかしこれは馴染まないかもしれない。日本には棺を蓋いて後定まるという格言もあるように忌日を重くみる。誕生日は軽い。
変った俳人では自分の忌日を詠んでしまった人もいる。
経は知らず鐘で成仏三充忌 中野三充
まるで生前葬儀みたいなものだが、この人はどういう人かよくわからない。
しかし、あまり知られていない忌日は別に季語を置いたほうがよいと聞いたような気がする。
石川桂郎の句にチエホフ忌がある。
噴水の音にもあるやチエホフ忌 桂郎
チエホフは1904年7月2日に没した。これは新暦の7月15日なのだそうだ。
夏である。桂郎は「噴水」を入れている。
草田男の句がある。
燭の火を煙草火としてチエホフ忌 草田男
これはそういう配慮はない。
バッハ忌のわが盃のみに灯蛾溺れ 楠本憲吉
バッハは1750年7月28日没。夏季である。蛾が置かれている。
草間時彦は没日を前書として記してモーツアルト忌を詠んでいる。これなら初心にもよくわかる。
十二月五日
菊焚きてモーツアルト忌の夕べかな 草間時彦
ゲーテは1832年の1月29日に没した。冬季だ。
阿部次郎はゲーテ日として詠んでいる。
残飯でゲーテ日過ごす野分かな 阿部次郎
野分は秋季。食い違いがあるが、実は誕生日なのだそうだ。ゲーテは8月20日生まれ。
忌日ではなく誕生日というのが面白い。阿部はどうも誕生日を季語とする推進論者だったらしい。
<俳句の季題には忌ありて誕生日なし、誕生日は両陛下の天長地久両説あるのみ。死者の誕生日は年中行事より姿を消し去るを常とする。されど偉人の生涯に於いて記念すべきは豈その物故の日に限らむや寧ろ世界が其人を所有するに至りたる誕生日こそ永久に記念すべきなれ。故にゲーテ日という新語を製造してこれに季感を持たしめんとす>
しかしこれは馴染まないかもしれない。日本には棺を蓋いて後定まるという格言もあるように忌日を重くみる。誕生日は軽い。
変った俳人では自分の忌日を詠んでしまった人もいる。
経は知らず鐘で成仏三充忌 中野三充
まるで生前葬儀みたいなものだが、この人はどういう人かよくわからない。
でも季語や忌日には興味があります。「寅さん」は某グループでは新年の季語に認定?されたそうですね。正月映画だからだそうですが、もう作られないのですから遅きに失する感もあります。仲間内だけで認定するというのも可笑しなものです。忌日なども結社の主宰などの忌日であると、皆さん、ドンドコ詠むのでしょうか。これも変ですね。
一度、句会で高杉晋作の忌日を「東行忌」として詠んだのですが、誰にも理解されませんでした。東行は西行に倣っての晋作の号ですが、知られていませんから前書などつけないと無理ですね。
ケネディの忌日など詠んだ句はあるのでしょうか。忌日だけの句集というのも作ると面白いかもしれません。まあ、売れないでしょうが。笑。有難うございました。
或る一部の結社とか俳人によって決められた忌日を季語として受け入れることは反対ですね。永年 人に使われ誰もが納得できるまでは別の季語を入れるのが当然でしょうね。勉強になりました。
俳人の忌日というのは分かるのですが、そうでない人物の忌日を忌日とする基準が曖昧なんですね。戦前、チエホフは新劇運動のなかでチエホフ劇が持て囃されたという程度なんだと思います。今ではチエホフなど、どこの劇団も上演さえしません。そもそも忌日を詠むとはどういう意味なのか。分かったようで分かりません。習慣的に詠んでいるところが僕自身も含めてありますね。有難うございました。