『俳壇』2月号には「漱石百句」が載っている。この「百句」シリーズはまず最初に読む。先月号はたしか「北原白秋」だった。専門の俳人ではない人の句が纏めて見られるのが便利だからだ。今号は夏目漱石だが、編者が半藤一利さん。元編集者で今は作家。一味違った句を選ぶのではと期待があった。漱石の句は割りと知られているが、選ぶ人によって随分印象が変ってくるものだ。今回も、おや漱石はこんな面白い句も作っていたのかと、嬉しくなった。だいたい俳人の選句は決まってしまうもので、分野違いの人のほうが、いい句かどうかは別として楽しい句を選んでくれる。例えば三句ばかり。
春雨や寝ながら横に梅を見る
春雨や身をすり寄せて一つ傘
明け易き夜じやもの御前時鳥
なんて句は、それ程上手くないし、名句鑑賞には出てこないが、「漱石もそれほど野暮ではないな」と思わせてくれて参考になった。このシリーズは遊びがあって面白い企画だと思う。
突然、こんなに面白いなら漱石の全句から自分好みの抄録を作ってみようかと思った。幸い、漱石全集は手元にある。第十七巻が俳句と詩を収めているので見てみたら、なんと2527句もあった。小説家が本業だから、これは多い。止めにした。ゆっくり楽しめばいいのだ。しかし、ぺらぺら捲っているうちに、修善寺の大患のようなことがあった時、人間はどう変るのか興味が湧いた。制作順になっているから、これなら手っ取り早くわかる。
漱石の大吐血は明治四十三年の夏である。もともと胃弱な漱石だったが、この年の八月六日、松根東洋城と一緒に伊豆、修善寺温泉に行くことになっていた。療養のためである。しかし東洋城はどうしても手放せない用事で東京駅の約束の時間に間に合わなかった。仕方なく漱石は、ひとりで修善寺に向かう。ひと列車遅れてくる東洋城を待って御殿場で下車。ここで外国人に英語で話しかけられるが、声が出ないほど疲れていた。宿についても調子は悪く、終に十七日、吐血した。吐血までの漱石の句。
ふと揺るる蚊帳の釣手や今朝の朝
秋の思ひ池をめぐれば魚躍る
宮様の御立のあとや温泉の秋
尺八を秋のすさみや欄の人
温泉〔ゆ〕の村に弘法様の花火かな
宮様というのは、東洋城がお仕えする白川宮様で、彼はその御付としての仕事を兼ねていたのだ。東洋城は宮様とともに帰京している。
村山故郷は『明治俳壇史』のなかで、このあたりを次のように書いている。
・・・二十四日の午後八時三十分頃であった。
その時、雷鳥(朝日新聞記者)は別室で杉本、森成両医師にウイスキーを勧めて歓談していた。突然、中庭を隔てた二階の病室の手すりから、「森成さん早く早く」と、鏡子(漱石の妻)が手を叩き、悲鳴にも似た声を上げた。三人は驚いて宙を飛び、病室に入ると、漱石は鏡子の右手に抱かれ、左手に持っていた唾壷に一ぱい血を吐いていた。口から迸り出た血潮は、鏡子の浴衣を赤く染めていた。漱石の顔は蒼白に色を失い、眼は見開いたまま虚ろに光がなかった。カンフル注射が十五筒、他に食塩注射が立て続けに打たれた。人事不肖に陥っていた漱石は、三十分ばかり後、漸く息を吹き返したが、このまま、明日まで持つかどうかが懸念された。漱石急変を打電すべく、雷鳥はペンを執ったが、「只今激変、吐血多量、危篤」と書く手が震えて字が書けない程、動顛していた。
しかし、恐れられていた再度の吐血もなく、二十五日、二十六日、二十七日と漱石は奇蹟的に危機を乗り越え、九月に入ると日記をつけるまで、徐々に回復して行った。
(P295)
その直後の句を「漱石全集」から順にあげてみる。
別るるや夢一筋の天の川
秋の江に打ち込む杭の響きかな
秋風や唐紅の咽喉仏
秋晴に病間あるや髭を剃る
秋の空浅黄に澄めり杉の斧
衰に夜寒逼るや雨の音
旅にやむ夜寒心や世は情
蕭々の雨と聞くらん宵の伽
秋風やひびの入りたる胃の袋
風流の昔恋しき紙衣かな
生残る吾恥かしや鬢の霜
立秋の紺落ち付くや伊予絣
骨立を吹けば疾(や)む身に野分かな
稍寒の鏡もなくに櫛る
鯛切れば鱗眼を射る稍寒み
病む日又簾(れん)の隙より秋の蝶
病んでより白萩に露の繁く降る事よ
蜻蛉の夢や幾度杭の先
蜻蛉や留まり損ねて羽の光
取り留むる命も細き薄かな
仏より痩せて哀れや曼珠沙華
虫遠近(おちこち)病む夜ぞ静なる心
余所心三味聞きゐればそぞろ寒
月を亘るわがいたつきや旅に菊 いたつき=病気
起きもならぬわが枕辺や菊を待つ
生き返るわれ嬉しさよ菊の秋
これがだいたい九月二十二日ころまでの句である。
古郷は「漱石の句は、従来の漱石の俳句になかった面目と、生命の真実の光を放ってかがやいた。この修善寺滞留中の俳句は、漱石の絶唱といわれる。死を越えた生命は、詩の上に不滅の白珠のごとく輝き、蘇ったのであった」と書いている。
春雨や寝ながら横に梅を見る
春雨や身をすり寄せて一つ傘
明け易き夜じやもの御前時鳥
なんて句は、それ程上手くないし、名句鑑賞には出てこないが、「漱石もそれほど野暮ではないな」と思わせてくれて参考になった。このシリーズは遊びがあって面白い企画だと思う。
突然、こんなに面白いなら漱石の全句から自分好みの抄録を作ってみようかと思った。幸い、漱石全集は手元にある。第十七巻が俳句と詩を収めているので見てみたら、なんと2527句もあった。小説家が本業だから、これは多い。止めにした。ゆっくり楽しめばいいのだ。しかし、ぺらぺら捲っているうちに、修善寺の大患のようなことがあった時、人間はどう変るのか興味が湧いた。制作順になっているから、これなら手っ取り早くわかる。
漱石の大吐血は明治四十三年の夏である。もともと胃弱な漱石だったが、この年の八月六日、松根東洋城と一緒に伊豆、修善寺温泉に行くことになっていた。療養のためである。しかし東洋城はどうしても手放せない用事で東京駅の約束の時間に間に合わなかった。仕方なく漱石は、ひとりで修善寺に向かう。ひと列車遅れてくる東洋城を待って御殿場で下車。ここで外国人に英語で話しかけられるが、声が出ないほど疲れていた。宿についても調子は悪く、終に十七日、吐血した。吐血までの漱石の句。
ふと揺るる蚊帳の釣手や今朝の朝
秋の思ひ池をめぐれば魚躍る
宮様の御立のあとや温泉の秋
尺八を秋のすさみや欄の人
温泉〔ゆ〕の村に弘法様の花火かな
宮様というのは、東洋城がお仕えする白川宮様で、彼はその御付としての仕事を兼ねていたのだ。東洋城は宮様とともに帰京している。
村山故郷は『明治俳壇史』のなかで、このあたりを次のように書いている。
・・・二十四日の午後八時三十分頃であった。
その時、雷鳥(朝日新聞記者)は別室で杉本、森成両医師にウイスキーを勧めて歓談していた。突然、中庭を隔てた二階の病室の手すりから、「森成さん早く早く」と、鏡子(漱石の妻)が手を叩き、悲鳴にも似た声を上げた。三人は驚いて宙を飛び、病室に入ると、漱石は鏡子の右手に抱かれ、左手に持っていた唾壷に一ぱい血を吐いていた。口から迸り出た血潮は、鏡子の浴衣を赤く染めていた。漱石の顔は蒼白に色を失い、眼は見開いたまま虚ろに光がなかった。カンフル注射が十五筒、他に食塩注射が立て続けに打たれた。人事不肖に陥っていた漱石は、三十分ばかり後、漸く息を吹き返したが、このまま、明日まで持つかどうかが懸念された。漱石急変を打電すべく、雷鳥はペンを執ったが、「只今激変、吐血多量、危篤」と書く手が震えて字が書けない程、動顛していた。
しかし、恐れられていた再度の吐血もなく、二十五日、二十六日、二十七日と漱石は奇蹟的に危機を乗り越え、九月に入ると日記をつけるまで、徐々に回復して行った。
(P295)
その直後の句を「漱石全集」から順にあげてみる。
別るるや夢一筋の天の川
秋の江に打ち込む杭の響きかな
秋風や唐紅の咽喉仏
秋晴に病間あるや髭を剃る
秋の空浅黄に澄めり杉の斧
衰に夜寒逼るや雨の音
旅にやむ夜寒心や世は情
蕭々の雨と聞くらん宵の伽
秋風やひびの入りたる胃の袋
風流の昔恋しき紙衣かな
生残る吾恥かしや鬢の霜
立秋の紺落ち付くや伊予絣
骨立を吹けば疾(や)む身に野分かな
稍寒の鏡もなくに櫛る
鯛切れば鱗眼を射る稍寒み
病む日又簾(れん)の隙より秋の蝶
病んでより白萩に露の繁く降る事よ
蜻蛉の夢や幾度杭の先
蜻蛉や留まり損ねて羽の光
取り留むる命も細き薄かな
仏より痩せて哀れや曼珠沙華
虫遠近(おちこち)病む夜ぞ静なる心
余所心三味聞きゐればそぞろ寒
月を亘るわがいたつきや旅に菊 いたつき=病気
起きもならぬわが枕辺や菊を待つ
生き返るわれ嬉しさよ菊の秋
これがだいたい九月二十二日ころまでの句である。
古郷は「漱石の句は、従来の漱石の俳句になかった面目と、生命の真実の光を放ってかがやいた。この修善寺滞留中の俳句は、漱石の絶唱といわれる。死を越えた生命は、詩の上に不滅の白珠のごとく輝き、蘇ったのであった」と書いている。
実は若い頃には、ロンドンでノイローゼになるなんて、と漱石を馬鹿にしていたこともありました。その後次第に漱石の事を知るに及んで、見方が変わってきました。とくに、芳賀徹が大著『絵画の領分』で、漱石と絵画などとの関わり合いに、160ページ強を割くという扱いで、詳しく漱石の事について語ったのを読んでから、さらに見方が変化しました。美術批評家としての建設的な活躍や、また洗練されたブックデザインへの取り組みなどなど、そしてそれが小説の見方へも影響してきました。
お書きいただいた、大患以降の句は、たしかに深みをましてきていると思います。書き出すとながくなりますが、唐紅の句は、もちろんのこと「立秋の紺・・」や「生きかえるわれ嬉しさよ・・」などなど深く印象にのこります。
余談ですが、江国滋が病中吟について語ったところを、その著『俳句と遊ぶ法』で見ていたところでしたので、ひときわ興味深く読ませていただきました。ありがとうございました。
”活けて見る光琳の画の椿哉”
菫程に小さき人に生まれたし
この一句です。司馬遼太郎は、漱石が帝大教授を辞めて、朝日に入社したことを「すべての成功のカードを捨てた人」と捉えていますね。漱石の潜在的な悲しみ。これがキイワードなのだと言うことでしょう。
俳句に関することでは、やはり子規と漱石の関係ですね。文章、文学におけるリアリズムの追求、これは既に指摘され尽くしていますが、僕は「反薩長」の感情的共感があると睨んで(笑)います。少なくとも交友の初期の段階では。それも書きたいことのひとつです。『坊ちゃん』を通して。では。
日である。もともと漱石が好きで漱石の俳句、学生の頃か
らの子規との出会いから本を読み、少しばかり漱石の俳
句も覚えた。これを読み仲間に入れればと思いました。