天知探偵事務所文学支局

現在、工事中です。

尾崎一雄「五年」

2022-03-16 22:45:45 | 尾崎一雄


尾崎一雄の『閑な老人』(短編集)が中公文庫から出た。

冒頭に「五年」という短編がある。

「五年」は『早稲田文学』の1936(昭和11)年1月号に発表された。

尾崎一雄が「暢気眼鏡」で芥川賞を受賞する前の作品である。

たまたまではあるが、大学の文学部時代に尾崎一雄を読んだことはなかった。

ただ、子供の頃、母の持っていた文学全集に尾崎一雄の『暢気眼鏡』の巻があったのは覚えている。

そのとき読んだわけではなかったが。

だが、大学の師匠・山本洋の講読や特講の授業のリストに尾崎一雄の名前はあったような気がするし、入っていてもおかしくはない作家である。

どの作品が入っていたかは覚えていないのだが。

尾崎一雄は私小説作家とされているが、この「五年」はメタ・フィクションでもある。

「一」~「三」の節とアスタリスク(*)以降とが呼称が変わっている(「彼」から「私」へと)ので、恐らく「一」~「三」の節が〈書かれた小説〉でアスタリスク以降が「私」語りの部分なのだろう。


義父の丹毒や経済的な窮状など厳しい状況の中にある「彼」が、省線電車の中で不意に出会った老女=妻の実家の元ばあやの凛とした姿に影響されたのか、ある強い気持ちを持つに至っている。

〈為事、小説、・・・・・・そんなものは当分の間、身体のどこかーーかかとのようなところへ押しこめておかなければならぬ。そして、そのかかとを踏みつけ踏みつけ、無表情で人中を歩き廻らなければならない。〉

ただし、アスタリスクの間に五年の月日が流れており、その五年の間に「私」は〈行きつくところへ行きついて〉しまう。

かなり絶望的な状況に〈みすぼらしい自分〉を見出し、「実に滑稽」という感懐を抱く。

〈生きていること、生きていることの毎日は、何となく滑稽で面白い〉とある種達観したような境地に行きつくかと思いきや、〈だが、そんなことを面白がって書いたとて、他人に見せたとて、どうもなるまい〉と冷笑的なオチがつく。

それぞれの部分でさまざまな解釈が可能かと思うが、実に面白い短編である。

ちなみに中公文庫の表紙の猫の絵がかえらしい。

カバー画は鹿又きょうこ氏、カバーデザインは細野綾子氏。