田村俊子「女作者」は大正2年1月号の『新潮』に「遊女」というタイトルで発表された。
のち5月に新潮社から刊行された『誓言』に収録される時に「女作者」に改題された。
所謂〈小説の書けない小説〉の、結構早い時期の物である。
〈小説の書けない〉女作者の夫も小説家のようだが、二人のやりとりは、令和の現代の男女の姿とも大きくは違わない、普遍的な姿にも見える。むしろ、令和の男性達は、女性の気持ちを察することを強要されている感も無くはないが。
女作者は、別居結婚という多様な結婚スタイルを採用した友人に、心を揺らされている。
そういった多様性が書き込まれているところに、一つの時代の空気を感じるし、現代において再読してゆく価値もあるのかもしれない。
しかし、主人公は、その多様な友達にむしろ心をおびやかされているという設定に、田村俊子が立ち位置も見えてくるように思われる。
そうでありながら女作者は〈この男の身体の中はおが屑が入っている〉と「断罪」(?)しているところが面白い。
そして、最後は田村俊子らしく、生々しさを匂わせて終わる。
なぜ、この作品が「遊女」というタイトルで発表されたかは、そのあたりにあるのだと思うが、それを一旦「遊女」と捉えた意識と、「女作者」に変更した意識の変化は大変興味深いところである。
私がこの本を読んで一番印象深かったのはこの「女作者」だったので、感想を書かれているのを目にしてついコメントを送ってしまいました。お元気なようで何よりです。これからもたまにこのブログに足を運ばせていただきます。どうかお元気で。