帰ってきた赤城山の熊さん

恥ずかしながら、帰って参りました!(^_^ゞ

これも忖度?それともクイズ?(^_^;)木崎宿大通寺

2017-05-07 15:56:00 | 日記

日光例幣使街道の木崎宿を車で通りかかったら、こんな案内板がありました。

案内板の先は、大通寺という、立派なお寺サンでした。
門前には、新田義貞公の名が…どうやら、ゆかりがありそうです。

山門を警備する?仁王サン達の表情も、なかなかイイですね(^_^)v


山門をくぐって振り返ると、上は鐘楼になってました。

ここには、美しい樹木がイッパイあるみたい。
このケヤキは500年物!だそうです(^o^)v


コレが、冠掛の松!

近くで見ると、どうして立派な物です。

説明板には、生品神社で挙兵した義貞公が、鎌倉へ向かう途中、ここで休息したとあります。
「ヤレヤレ、暑いのう!」とか言いながら、兜を脱いで、この松の枝にチョイと掛けたンでしょうか。


本堂から、古そうな墓地の方へまわってみたら…思いがけず、飯盛女の供養塔を見つけました!

石に映っているのは、飯盛女の霊!…ではなく、ワタシです(^_^;)

説明板もキレイ過ぎて、読みにくいンですが…


この木崎宿は、日光例幣使街道の宿場町として栄え、旅籠には飯盛り女が置かれていました。
江戸の頃、宿場町には、旅人の一夜の相手をする遊女が付き物でした。しかし、旅籠に遊女を置くことは禁じられていたので、食事の給仕をするという名目で、飯盛女と呼ばれる女達が多くいたようです。
ここにも書かれていますが、彼女達は体を酷使され、若くして死んでいったのですね。そういえば、 供養塔の近くには、女性の名前の小さなお墓が並んでいます。

そんな彼女達のことを、地元の人々は、いまでも忘れていないンですね。この供養塔も、趣旨に賛同した方々の浄財で建てられたとあります(*^^*)
ただ、チョッと気になることが…

説明文が空白になっている場所があります。
(飯盛女達は)前借制の年季奉公で、越後などから来た若者の子女でした。彼女達の実態は…のあとが、もともと空白だったのか、あとで削られたのか?
ここに入る言葉は、大体想像がつきます。たぶん、子供達などに見せたくない言葉なンでしょうが…
これも、いま流行りの忖度?まさかクイズ?
どちらにしても、彼女達の苦難を隠すようで、何だか釈然としないのは、ワタシだけでしょうか…?(-_-;)
さて帰ろうとしたら、門前の畑に、ルピナスの花がニョキニョキ…

思わず撮影していたら、畑の持ち主の方が出てきて…叱られると思いきや、ニコニコ。丹精して育てておられるンだそうで。特に、この真っ白なのは珍しいンだとか(///ω///)♪

「気に入ったなら、秋には種を分けてあげるから、もう一度いらっしゃい!」とまで言われちゃって…
ヤッパリ良い人達なンですよ!木崎宿の方々は!\(^_^)/

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1 コメント

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行ってみます (どらく)
2018-07-07 15:04:04
同じ市内に住んでいるのに、飯盛女の供養碑のことは知りませんでした。勉強になりました。「生まれては苦界、死しては浄閑寺」という有名な?言葉を思い出しました。

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