〔オリンピック運動と国際ユースキャンプ〕
小 池 喜 一
「オリンピック運動」ロスアンゼルスオリンピアード競技大会
オリンピック運動は,オリンピァード競技大会を据えた「オリシピック憲章」なるルールに則して「スポーツを通じて,若き人々がより友好的になるよう教育し,より平和的な世界を建設するために助力する。」とあるまた,13条で義務づけられた「芸術展示」,そしで'「国際ユースキャンプ」がその意義と価値を高く評価し、五大陸全ての国ら選出.された国国で小さな実行委員会を組織して国際オ/ンピック委員会・文作委員会からの支持を得て密接な連携をとりながら定期的に会議を持って,ローマ大会(1960年)で芽生えて、,東京大会(1964年)で初めて組織的に開催され,メキンコ大会'一(ユ968年)を経て,ミュ:―ヘン大会(1972年)で初めて,IOCの承認の下で開催れた。依頼モントリオール(1976年)そして84年夏季 第23回オリンピアード競技ロサンゼルス大会に併せて実施された・「国際ユースキャンプ」
に,我国の青少年指導者代表ユ15才~20才を50名派遣した。次回の開催地韓国のソウル市(!988年)に於いても,実行委員会は役に立っ実のある「国際ユースキャンプ」になる様,提案し,決議され,準備も進められている。
幸いにしてソウルの受入体制は国家的な公式行事としてとらえ,布民はもとより,学生,青少年との協カが得られ,精力的な意欲と実践が機待できると,ロサンゼルスでの日韓会議で確認された。その中で特に日本の若い力の協力が要請され,我国実行委員会も同意した。重ねて、今後 全斗換大統領訪日を期に日韓青少年交流のより活発化を明言することも約束されて,実現した。
山下 柔道 金メダル
<ロサンゼルスというところ>
ロサンゼルス市の人口は297万人,全米第2位の都市である。面積は約280脇。気候は年間を通じて温暖微少雨で湿度は低く,300日以上の晴天日が続く。郊外や,海岸ばかりではなく,市内にも石油の掘削機が林立する石油を背景に,航空宇雷産業,機械工作,マイクロチップの生産などを主として発展した工業都市である。またワインとオレンジなど農業産物の出荷と併せて,良港を持つアメリカ西海岸の商工業の中心都市でもあるロサンゼルスは,アメリカの他の都市より多くの人種が集まったるつぼでもある。.東部のミルウオーキにしばらくの問滞在したとき,友人で赤色人のインデアン・ホワイトアロー氏が移住して来たらすぐに隣りの自人は引越してしまった。と話してくれた。ロサンゼルスでもその例外ではない。人口の76%の白人は郊外に逃避し言市内の中心部には有色人ユ16%,黒人8%が人り込み,丁度「まんじゅう」の断面に似た形になっている。道路は広く、高速道路は片道4~5車線、それに加えて3人以上同乗の自家用車には特別の車線が最近新たに設けられた。この様な道路が縦横に走り「車社会」の壮観さを見せている。巨大な空港,高層ビル,車の洪水、
最も公害の多い都市ロサンゼルス、など高度に発逢した面と,一方その裏面には発展途上國に見られるような混乱が雑居している。
20数年前に訪れて,学/したアメリカ大陸には,住みついた人々の前に自由と平等に未来への可われ,限りない発展を信じる国と、日本が模範とすべき偉大なアメリカであった。アメリカの土を今ヨ再び踏んで目の当りに見て,この混乱はなぜなのか。
「オリンピック運動」3
と疑いたくなってくる。
ロス空港には久しぶりに立ち寄っれUFO形のシンボルタワーと空港ロビーとの間に広大な駐車場ビルが建設されて近代的になった。かつては砂漢の中に空港があり離れた所の荒野にポツリとシンボルタワーが設けられていた。そんな光景であったことを思い浮かべる。ロス市は大平洋に面したロングビーチやサンタモニカの海岸に接してはいるが,砂漢の中の都市である。水道は530キロメートル,東京一名古屋聞も離れた水源より引いている。ユースキャンプで滞在中の3週間は一日も雨は降らなかった。ロス市民は「雨は降らない」のが前提に生活をしている。都市計画「水」を大量に確保して 供給する様に施行されていて市民は蛇口をひねるといつでも水が得られて,シャワーも使える 庭の芝生と植木にも スブリンクラーで散水して 葉は青々としている。水を緑に与えるのを忘れて
植木を枯らしてしまい「雨が降らない」からなどと他力本願では考えられない。市民は「雨は降らないもの」と体で知っていて 恵みの雨をな
どと頼らないので定期的に庭木には水を与える。オリンピアード期闇中,選手同様UCLAを中心に 国際ユースキャンプも郊外のクレアモント大学の寄宿舎で合宿生活をした。この構内でも毎夜中2時~3時になると自動ですべての植木や芝生の緑に水を与える。又高速道路側の檀込み 中央分離のグリーンベルト地帯はすべてスプリンクラーによる散水がなされ緑は生々していた。しかし土地所有者の不在や 持主が居住していない場所は 草一本生えない砂漢がむき出しになってもいた。オリンピアード競技のメインエベントと云われるマラソンコース,42,195キロメートルにも多くのシャワーが特設された。選手が必要ならば競技中浴びることが出来たのはゲームのために新設したのではないと思われる。すでに緑のために敷設配
管されている常設を活用,途中に数ケ所シャワー口を取り付けただけ。まさにアッと驚き,感心する。お金を掛けない大会と云われている一端を見た。
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南カルフォルニア大学(UCLA)周辺で開催された第23回オリンピアード競技は,広大な競技地域に分布した会場で展開された。選手は宿舎から会場まで射撃67キロメートル,水泳51キロメートルと30キロメートル以上が14種目と離れていて,国際ユースキャンプが寄宿したクレアモント市ピッッア大学もロス市街から東へ53キロメートルで共に輸送に苦労し選手とほぼ同じ条件のメニューで食事をとり合宿生活をした。競技へは直接出場はしないが参加はした。開会式・競技の観戦・応援・閉会式を通して我国の青少隼が国際的な資質の向上と各国青少年と選手との交流・研修による相互の友好親善を深め,さらには次代を担う指導者を養成した。ヨーロッパからの参加者も国体選手や次期オリンピック予備選手と思われる若人が派遣団として,編成され競技観戦や応援が主目的であったが前記の目的を主にすべきだと日本が提唱し続けて来た。韓国や他の十数ケ国も主張している真の「オリンピック国際ユースキャンプ」に重点に置く考えに改善する意向であると各国代表者会議で確認もされ了承された。一方日本代表団は水泳,野球,ボクシング,バレーボール,柔道,陸上他を10人~15人班に分れて観戦した。中でも陸上のトラック競技短矩離,100メートルでアメリカのカール・ルイスの快走はみごとであ
った。日本の山下選手の柔道金メダル獲得の決勝戦は手に汗握る熱戦で差った。優勝して日の丸掲揚の時は思わず目に涙が溢んだ。〈金メダル〉山(下口選サ手ンゼ柔ル道スにて
「国際ユースキャンプ」では家庭への分宿も試みた。この種のプログラムは,大切で重要であると確信する。ロス近郊とハワイでは青少年団体rボーイズ・ガールズクラブ」の好意もあって実施した。今までの分宿は一般に中流と云われた家庭にお世話になっていた。今回は共働きや母子・父子家庭に多く体験宿泊をして,現代アメリカ家庭の一面を感得した。
「リトル東京」は近くのrチャイナタウン」と並んで東洋のエキゾチックな響きで現地では親まれているが,小じんまりと一個所に固まっていて最近流行のホテル等で催されるパーィ会場の仮設屋台同然の模疑店,やき鳥屋,おでん屋,寿司屋そのものでまさに「リトル」である。ここに立つと最近放映されたテレビ放送ドラマ「山河燃ゆる」にみられるようにハワイでは感じられない米国本土ロスでは黄色人の日本人に対する人種差別は強いが,耐えて,力強く生活している人々の心が伝わって来る。こんなにも強いカルフォルニァの太陽・開放的な土地柄であるにもかかわらず,なぜひっそりと小さくなって暮らさなければならないのか。この土地に永く住んでみなければ理解出来ないのたろうか。こんな思いでリトル東京の一角で,市庁舎を背景にカメラのシャッターを歩行者の白人に押してもらった。
日頃,全国各地域に於いて,地道な活躍をしている青年指導者はそれぞれの異った訓育を経て,成長されて,この「ロス・オリンピック国際ユースキャンプ」という一つの目的に参集した。ロス大会は各種競技の視察,スポーツ交換を通して文化交流を共通課題にしていること
に大変意義があった。この企画を展開するに当り,事前研修は実のあるもの,準傭には自から協カし努力された方々に感謝しながら,実行に着いた私達も一増の全能を傾ける決意をもって望んだ。各地区から選ばれた青年指導者で構成された団員は,各自の徳をこの「国際ユースキャンプ」の場で発揮しようと誓い合って,第ヱ団を歓送した。次期オリンピックの開催国韓国ソウルとも良い交歓がなされることを託した。成果も良好とまずは嬉しい知らせだった。ロス・オリンピアード競技が開催されて8月に入ると第2団は成田空港を飛び立った。機中での団員は顔の表情やお互いの会話の様子から察すると緊張はしているがふるまいは自由であり,団員同志が自律を確め合っているように見えた。ロサンゼルス郊外のクレアモントにあるピッッア大学に落ち着くと
「日本のタベ」の構想を焦点に患い思い練り上げる気運が高まって来るのが感じられた。まさに青年リーダーとしての醸成がなされている。この盛り上りが頂点に達したとき協力によるみごとな演出が国境や人種の隔たりを越えて本当の青年の集いに成っていった。この時団員は寄宿舎での合宿生活の不都合や,衣・食・住の不満足な事柄が取るに足らないものになって,むしろこの国際ユースキャン
プの意義や偲値を新ためて見つめる努力がうかがえ,建設的な志向や行動に移り変わって行った。
一方,企画・運営を担当したドイッ青少年団体の異国の地ではあるがアメリカでの各国参加団員への気の配りが,内容の展開に端末にまっわりっく小さな行き違いはあっても国際的な青年らしく皆んなで良い方向に仕向けて行こうとするばねで,水平にも垂直にも自在に楽しみへと発展させていった。“各国の夕べ"はお国自慢である。その国の歴史や文化,近代科学の発達を背景にする普段の生活の場と,その近くで呼吸している共通の文化を披露する。そういった意味で交流に欠かせない要素であると同時に必要でもある。オリンピアード競技も各国青年の活躍はこのオリンピックムーブメントにふさわしく,明るく,生々と,力強く行われた。競技選手と国際ユースキャンプ参加青年は共通の心意気を持っていた。
競技選手団も合宿の場で各種の催しを開く機会を今まで以上に多く持つならば国際交流と理解をさらに一歩進めるうえで役立つにちがいない。
いづれにせよ,この体験を持ち帰った私達青年はこれからの各地域での活動の中で,スポーツの市民化,社会スポーツの確立,施設の拡充を訴え啓蒙する。スポーツを通して青少年のすがたをとらえる。また「オリンピアード競技とオりンピック国際ユースキャンプ」が共に持っムーブメントの必要性を広く青年に知らせ,これに参画して発現・体現し,発展的な展開をしてくれることを期待する。
「国際ユースキャンプ」は西ドイツが幹事国となり,企画・運営にあたった。きめが細かく,手際も良く,高い気晶で展開された代表者会議は,英語で進められたが,
ヨーロッパからの参加が多いこともあって仏・独語も混合していささか閉口もした。各国催し物を派遣団はお国柄よろしく「自国のタベ」と銘打って披露した。派遣団代表役員が演出する各国主催の晩餐会や昼食会も用意された。日本が主催する席には日本酒を準傭して,せんべい・やき鳥・奴豆腐などをつまみに話がはずむ。立食の国際交流だけにとどまらず,重要な決議の下話しがなされる場合が多いい,例えば1988年ソウルオリンピックには西側諸国が率先して協カする意志表明したり,中国では秋10月1日の国慶節にユ5000人の若人を世界中から招聰したい,その内日本からの参加者を3000人の要請された。これに対応,派遣の準備は進められていることを報告した。実現もした。さらには1985年,本年は「国際
青年の年」をIYY(ワイワイワイ)と各国で展開する運動方針・骨子等をうたいあげる。青年が自己を「開発」し,若者達は社会「参加」を積極的に「平和」のために行動すると。こう
して「オリンピック国際ユースキャンプ」がオリンピック運動の一環でスポーツを中心とした,共同生活,見学,自然との生活,文化的交歓活動等と一体をなし,現代社会の求める機能となりえるのではなかろうか。こういった意味を再度確認して各国レベルで,学校体育の施設や地域青少年施設の拡育と指導体制作りスポーツ都市計画への配慮,スポーツコミュニテーの形成,これをなしとげるための指導者の獲保と養成にまで
つずく
話題も広がり,それぞれの国に於いて具現する決意を約約束し合った。我国でもこの課題を帰り,報告書を作成し、日本体育連盟。JOC(日本オリンピック委員会)をはじめ文部省・地方公共団体・各関係機関に提言、次回への参考になれば幸と今作業を進めている。
〔`84オリンピック'国際ユースキャンプ事務総長〕
KIICHI KOIKE
Secretary General
'84 Olympic Youth Camp .JAPAN
4.10.3 Namamugi Turumi
Yokohama Kanagawa 230
k.nisimikadokiichi@goo.jp
kiichi koike/Facebook
DSP66koriankiichi@yahoo.co.jp
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