KKo ike 1〈One〉(西御門喜仁)

夢遙か! ロマン 温故創遊・戯言をつぶやく夜話(ヤーン)

記薩摩藩とボーイスカウト運動(Pioneering)

2015年05月26日 | Weblog
   薩摩藩の郷中教育とボーイスカウト運動
追記:(H27.2.17)
2008年のNHK大河ドラマでは篤姫が紹介されています。

 薩摩藩島津家の一門於一(おかつ、後の篤姫)は1835年、島津家の一門・今和泉島津家の娘として生まれました。
13代将軍徳川家定の正室・寿明姫が死去すると、将軍家から島津斉彬に縁組の話が持ち込まれ、於一が縁組候補に挙がる。
 将軍の正室(御台所)として輿入れするため、於一は島津斉彬の幼女となり、1853年3月10日、篤姫と改名し幕府に実子届を提出する。
 しかし、篤姫が江戸に上ったのはペリーが来航した2カ月後のこと。2人の結婚生活は1年7カ月という短い期間で幕を閉じる。1858年7月6日、家定が死去。さらにその10日後に島津斉彬も亡くなりその年天璋院(てんしょういん)と号する。
 若き将軍家茂の養母として、また大奥の総取締りとして、引き続き重責を担う、1867年の大政奉還・王政復古の大号令等を経て、世情は一気に倒幕へと向かう。
 1868年、鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発。旧幕府軍が緒戦で敗走する中、慶喜も戦場を離脱して江戸へと退き、大勢は決した。天璋院は実家の薩摩藩が主力となった軍勢が江戸へと進撃するという悲劇的状況の中、徳川家存続のため毅然とした態度をとる。ペリー来航や江戸城無血開城など、幕末の動乱期を生きた篤姫にスポットを当てた物語であります。
 東京の江戸東京博物館でも2008年2月19日(火)~4月6日(日)まで特別展「天璋院篤姫」が開催されるなど現地の鹿児島市だけでなく盛り上がっています。

 九州新幹線の終着予定駅となる鹿児島市の玄関口・鹿児島中央駅へ降り立つと、江戸時代の末期に国禁を犯して海外留学を果たし、新生日本を建設する原動力となった薩摩藩英国留学生をモチーフにした銅像『若き薩摩の群像』が出迎えてくれます。 高さが12.1mあって、彫刻家で日本芸術院会員の中村晋也氏(1926~)によって、昭和57年(1982年)に制作されました。
 イギリスへ渡航したのは、4名の使節団(通訳を含む)と15名の留学生でしたが、『若き薩摩の群像』には、留学生・高見弥一(土佐出身)と通訳・掘孝之(長崎写真)の銅像はありません。
それは薩摩出身でないという理由からです。もちろん群像の傍らにある案内板には、写真入で紹介があります。

 カリフォルニア州はアメリカ・ワイン発祥の地で、その生産量はアメリカ全体の90%を占めます。サンフランシスコ郊外には有名なナパ・バレーがあります。いまでは全米だけでなく世界中ですっかり有名になったカリフォルニアワインの興隆の裏には、一人の日本人が活躍したというエピソードを思い出しました。 このページを作成するためにインターネットで調べてみるとはやはりその人は長沢鼎(かなえ)といい、この17名の銅像の1人であります。
 メンバーでは一番若い13歳の時、イギリスに渡り私立中学を卒業した頃、トマス・レイク・ハリスという宗教家の詩人と出会い、長沢はハリスを頼ってアメリカに渡り、ニューヨーク州にある教団のブドウ園や牧場で奉仕生活をし、その後、教団は本拠地をナパ・バレーの北西にあるサンタ・ローザに移す。
 ハリスは「ファンテン・グローブ」という名のブドウ園を作りそして、すべての土地と醸造所を弟子の長沢に譲りました。そして長沢はぶどう作りに励み今ではワインの名所として知られるようになったのです。
 長沢ゆかりのサンタ・ローザ市のホームページにアクセスすると郷土の名士として長沢が紹介されていました。

 Santa Rosa history links (リンク) *日本語翻訳キーあり。
そしてなんと長沢鼎(かなえ)のワイン醸造所と農園跡地が、今では「ナガサワ・コミュニティー・パーク」として整備されることになった記事も見つけました。市当局は命名理由を「長沢の貢献を称賛するとともに、恩返しの意味もある」としている。

 またこれら留学生は帰国後、「藩」という枠に捉われることなく、黎明期の近代国家日本建設の原動力となりそれぞれが大きな役割を担ったこれら19名の留学生を顕彰するため、「若き薩摩の群像を完成させる会」が2人の像の追加建立を鹿児島市に働きかける運動をされています。
 もっともな話であります。
 この会のページにはこれまでの建立に関する経緯が説明されており、「一部関係者から伺うところによりますと、「19人全員を入れるべき意見を述べたものの、受け入れて貰えなかった」、また「知らない間に17人に決まっていた」など、「2人外し」は市当局の一方的な決定であったようです。
 実際には、市当局も当初は留学生19人全員を入れた建設を計画していたようですが、途中で急遽17人にすることに計画変更がなされたようです。これは、恐らく、留学生の一人、土佐藩出身の高見弥一が、かつての同藩における暗殺事件に連座していたことが判明したことによるものと思われます。」との記載があります。

 前置きが長くなりましたが、今回鹿児島を訪れて感動したのはこの町で明治維新の原動力となった多くの元勲がなぜか市内の狭い地域の一角から集中して輩出しているということであります。
 その町は鹿児島市内の甲突川に面した一帯で加治屋町と呼ばれています。
 西郷隆盛、大久保利通、五代友厚、寺島宗則、松方正義、森有礼、東郷平八郎、西郷従道、大山巌 など歴史上おなじみの人物です。
 数多くの明治維新の英傑がこの地から飛躍した加治屋町はまさに”明治維新のふるさと”といえる場所です。 それ故にこの地に「維新ふるさと館」があり、中はハイテクを駆使した展示にこだわり近代日本を創った英傑たちの心を音や光で表現する空間・ジオラマや、等身大ロボットで明治維新の人物が演じる熱い歴史を、わかりやすく、体感できるようになっています。

  この維新ふるさと館では西郷隆盛はじめ薩摩蕃について詳しく紹介されております。
 特に感動したのは、これら明治の元勲となった下級武士のバックボーンとなったのが「郷中教育」とよばれる薩摩独特の教育システムです。

 薩摩(現在の鹿児島県一体)は江戸幕藩体制でも非常に珍しく農民よりも武士が多い藩だったため、他の藩のように、通常であれば大勢の農民が年貢を藩に納め、その年貢で少ない武士を支えるという構造となっているものですが、薩摩藩では農民より武士が多く存在していたために、武士は必然的に年貢の分け前が期待出来ないため半農半士になり、自分の食い扶持は自分達で賄うしかなったのです。

 もちろん加治屋町も一帯も例外でなく、特にこの地域は下級武士(しかも特に貧しい武士達)が多く住む地域であったため、江戸の旗本のように年貢で、のほほんと毎日を暮らす余裕のある武士と違い、日々の生活のため常日頃より農耕にいそしみ、畑を耕すという厳しい現実がありました。
 もう1つ、薩摩の武士達は示現流という流派は男の勇敢さでも知られている流派です。そして薩摩独特の教育システム(郷中教育)があり、男に生まれた者は幼い頃より、近所の男どもの家に集団で宿泊し、その際に強い薩摩の武士として生まれた男として武士道だけでなく、剣術、勉学、相撲そして時には切腹の作法まで教えられたとの事です。
 このような教育を受けて、武士としての勇敢さを先輩より学んでいったのです。
西郷さんも年下の後輩達に多くの”薩摩の男”の思想を教えていたそうです。 このような環境がこの加治屋町から多くの英雄達を生んだ原動力となったものです。

 敬天愛人(けいてんあいじん)~天を敬い人を愛す~。
 西郷隆盛が好んで使った言葉に「敬天愛人」というものがあります。 多くの後輩達(下級武士)を抜擢し、そして愛した西郷さんらしい言葉です。
 西郷隆盛は1868年鳥羽伏見の戦いが始まり戊辰戦争が起り激しく抵抗して敗れた庄内藩に対し、武士道にのっとり寛大な処置をとり恥辱を与えなかった。庄内藩はこの後、西郷へ尊敬の念を深め、藩主以下76名が鹿児島を訪れた。生涯にわたり写真も撮らず書籍も残さなかったが、そのときの西郷の一言一句が「南州翁遺訓」としてのちに庄内藩より世に出された。
 西郷は新政府の参義に就き、明治6年陸軍大将となり廃藩置県・学制・徴兵令・鉄道開通など多くの政策を実施した。しかし大久保・木戸・岩倉らと意見が合わず帰郷。その後政府の陽動作戦にのった私学塾生が蜂起した責任をとり、自ら西南戦争の陣頭に立ち49歳で故郷鹿児島の城山にて命を落とす。

「400年の歴史を持つ郷中教育」
 新しい日本の夜明けである明治維新には、薩摩から多くの人材が出て、かれらが近代日本を築く礎となりました。 「ふるさと維新館」でも語られていますがこれらの人々は幼少の頃から郷中(ごじゅう)教育 で育った人々です。
 薩摩藩の郷中において行われた藩士の子弟同士の相互の助合いによる教育制度。島津家中興の祖、島津忠良(日新公)の「いろは歌」の教えを中心にしており、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、留守を預かった大口郷の地頭、新納忠元が武士の心得をまとめ、郷中教育に発展していった。郷中教育は島津 義弘公のころに確立され、今日まで継承されてきた400年の歴史を持つ薩摩藩独特の青少年教育です。

島津日新公のいろは歌(リンク)
 島津日新斉忠良公  明応元年9月23日(1492年)伊作亀丸城に生まれ、幼名菊三郎。21歳のとき伊作、田布施城主となり三郎左衛門忠良と称し、36歳のとき髪をそり相模守入道日新斉と号する。日新公は文武、神,儒、仏三教をきわめ、善政をひいた「薩摩の聖君」と呼ばれる。中でも「いろは歌」は天文8年から14年ごろの作で、藩政時代から薩摩武士、武士道教化、師弟教育の教典となった。今の時代にも通じる多くの教えを含んでいる。
        
  歌   いにしえの道を聞きても唱えても 我が行いにせずばかいなし
  大意   昔の賢者の立派な教えや学問も口に唱えるだけで、実行
       しなければ役に立たない。
     何事も実践して実行することがもっとも大事である。
     この歌は薩摩藩教学の金科玉 条となったもので47の代表名歌である。
     薩摩藩から維新の時代に行動的な武士を輩出したのも納得できます。

 『 郷中教育』は、各自が日常守るべき規約を定めて、違反した人は、処罰するという厳しいものでもあった。

伊丹市に縁のある白洲次郎氏の妻・白洲正子夫人の祖父である樺山資紀氏もまた薩摩藩士で、まさに『 郷中教育』で育った男です。
 この表紙の老軍人が樺山資紀氏で膝に抱かれているのが白洲正子氏の若き日の姿であります。
引用先 納光弘のホームページ夏の読書ーその1ー 

白洲正子自伝の記述より。
「お前が一番焼香じゃ。さきィ拝め」ただならぬ気配に、前田は恐る恐る進み出て焼香し、指宿の死体の上にうなだれた。
その時、橋口は腰刀をぬき、一刀のもとに首を斬った。首はひとたまりもなく棺の中に落ちた。「これでよか。蓋をせい」何とも野蛮な話である。 ー祖父 樺山資紀より引用ー
*上記記述の該当ページ(pdf)リンク

 樺山資紀 かばやま・すけのり
戊辰戦争に従軍。維新後陸軍に入り、台湾に出兵。
西南戦争で活躍。大警視・警視総監を経て海軍に移る。明治23年(1890年)第一次山県有朋内閣の海相となる。つづく第一次松方内閣期に行った『蛮勇演説』が衆議院解散の契機となる。明治28年(1895年)初代台湾総督に就任。第二次松方内閣では内相として新聞紙条例を緩和し、一時は首相候補と目された。第二次山県内閣の文相を経て枢密顧問官となる。

 *ボーイスカウト運動について
  私が関係しているボーイスカウト運動(このサイトでも紹介しています。)ですが、この運動は創始者である英国のベーデン・パウエル卿が50歳の時に自分自身の少年時代および軍人として多くの経験から、独創的な訓練方法を作り上げました。
 彼の意図を実現するために、英国のドーセット、プール近郊のブラウンシー島で1907年に20名の少年で行われた実験キャンプからこの運動が始まりました。
 2007年は創始100周年を迎え英国で世界中からスカウトが集まる第21回の世界ジャンボリーが開かれました。伊丹からも5名の高校生が代表参加しました。
 スカウト関係者ならこの教育制度は100年前にイギリスで生まれた我々のボーイスカウトの教育制度と非常によく似ているということに気づかれると思います。
  私自身「ふるさと維新館」での「郷中教育」について解説などを読むと創始者がこの郷中教育をモデルにしたのではないかと思えてますます関心が高まりました。

 ボーイスカウトの教育制度との類似点
 (1)『 郷中教育』は薩摩藩の武士階級子弟の教育法で、面積でいうと4-5町四方を
    単位とす る「方限(ほうぎり)」を基盤として、そこに含まれる区画や集落に居住
    する青少年の教育システムで、一つの「方限(ほうぎり)」は40~80戸ほどの比
    較的小さな集団で、鹿児島の城下町はほぼ30の方限(ほうぎり)からなっていた。

    ボーイスカウト運動も同様に地域で活動単位として団(group)があり団は各年齢層に
    対応した隊(troop)で構成されています。伊丹市では各地域で活動する7ヶ団が
    ありそれぞれの団は隊員の年令に応じた隊があります。

 (2)各方限(ほうぎり)では郷中教育は小稚児(こちご、6-10歳)長稚児(おせちご、
   11-15歳)の上に 二才(にせ、15-25歳)、長老(おせんし、妻帯した先輩)の2つ
   のグループがあり、計4つのグループで編成されていた。

   ボーイスカウト運動もビーバースカウト(年長ー小2年)カブスカウト(小2-小5)
   ボーイスカウト(小5-中3)ベンチャースカウト(中3ー高3、20才未満まで)指導者・ロ
   ーバースカウト(18才以上)という年令に応じた活動単位の隊がある。

 (3)それぞれのグループで「頭(かしら)」(稚児頭、二才頭など)が選ばれ、頭は郷
   中での生活の一切を監督し、その責任を負う立場にあった。西郷隆盛は、二十
   歳のころ、下加治屋町郷中の二才頭に選ばれ、誠意をもって後輩を指導した。
   郷中教育では、先輩が後輩を指導し、特に難しいことは二才頭に教わることに
   なっていた。

   ボーイスカウト運動もビーバーやカブスカウトには組長、ボーイスカウト・ベンチャース
   カウトには班長があり組活動、班活動が活動の基本でありカブスカウトにはお兄
   ちゃんになるボーイスカウト隊員のデンコーチが指導したり、またボーイスカウト隊
   には高校生の上級班長が班長の指導をするなど小グループの自主活動が中心で
   ある。

  など基本的な活動方法で多くの類似点が見られますスカウト関係者ならきっとこれはボーイスカウトの創始者がこの教育システムを取り入れたものと思い込むのも無理からぬことです。
 ボーイスカウト運動の創始者が日本の郷中教育を知っていたかどうかは定かでないですが、イタリアの教育学者のモンテッソーリの教育法をとりいれたといわれています。
  実際にインターネットで検索してみるとボーイスカウト教育は郷中教育がヒントとなったとの説が多くのサイトで紹介されて掲載されています。

 その真偽は別にしてもボーイスカウト運動も100年の年月を経た普遍的な青少年教育として今では世界中に普及しており、それは400年以上の歴史をもつ郷中教育と多くの類似点があること。ちょうどボーイスカウト運動がはじまった時代は産業革命を成し遂げ後で疲弊した英国を憂いて、イギリス社会の復興を青少年の育成に託した創始者の思いが実現したものです。

 そしてそのような類似した教育制度がすでに日本では薩摩に存在しており、郷中教育が日本の国造りの原動力となった多くの明治の元勲を輩出してきた事実を知ることで類似した教育方法を採り入れているボーイスカウト運動が誇りに思えます。

Wikipediaより
 B-Pは薩摩藩の伝統的な子弟教育法である郷中(ごうじゅう/ごじゅう)にならってボーイスカウトを創設した」という説があるが、これは誤り(というより単なる俗説)である。
 1908年、英国ボーイスカウトを視察した北条時敬が、ボーイスカウトと郷中の類似性に言及している。また深尾韶が1915年に書いた「少年軍団教範」のなかにも同様の記述がある。ここまでは「類似の指摘」である。
1924年、日本連盟の総裁であった後藤新平と同副理事長の三島通陽が少年団普及のために鹿児島県知事と鹿児島市長らと会見し、その折に郷中に関する聞き取り調査を行った。ここから「起源説」が喧伝されるようになる。
 訪英してロバート・ベーデン・パウエル卿に直接、本件を確認した勝矢剣太郎(勝矢劔太郎)の著書『欧州のスカウト行脚』(1928、成輝堂書房)によれば、「いづれと云ふ程の確たるものがなく、只日本に負ふ処頗る多い」つまり「(ボーイスカウト運動が)日本の武士道に負う所は多いが、どこの藩のなにというような確たるものはない」(意訳)との回答であったとのこと。 またベーデン・パウエル卿の全著書35冊の中に、「武士道」について言及はあるが、「薩摩」「郷中」という語は見出されない。
(参考資料:「ボーイスカウト 二〇世紀青少年運動の原型」田中治彦)。

追記:(H23.5.15)(クリック拡大表示)
 米国の首都ワシントンD.C.に日本から桜が贈られたのが1912年。来年2012年は100周年を迎えます。その最初の植樹式は1912年3月27日にワシントン・ポトマック河畔のタイダル貯水池で行われました。
 この植樹式は、当時の駐米大使(珍田捨己)夫人とタフト大統領夫人が最初の2本の桜を植えほんの数名が立ち会うという簡素なセレモニーでした。
 いまではこのポトマック河畔の桜の開花時期に様々なイベントが開催され、春の訪れとともに数週間にわたって開催される「桜まつり」は全米から期間中に100万人近い観光客が訪れるにぎやかな催しとなりました。
 津軽出身の外交官珍田大使はまた英国大使はじめ各国の領事等を歴任された外交官として活躍され大正10年(1921年)の皇太子渡欧の供奉長として随行され、また昭和天皇の侍従長を務められました。珍田大使の生涯をもとに描かれた「ポトマックの桜」に昭和天皇とボーイスカウトの創始者ベーデン・パウエル卿との面談した記述があります。(右のページ参照。)
  対談の中でボーイスカウト運動をベーデン・パウエルは少年を軍人に仕立てる予備教育であるとの考えは、甚だしい誤解であって「少年をして、名誉と愛国の観念を信条化せしめ、心身ともに、強壮な人間の育成を目的としている。」
 そして、訓練では「日本の武士道の精神」をもって行っております。と皇太子殿下(昭和天皇)に説明されています。
  いまではボーイスカウト日本連盟はじめ、ほとんどの国と同様に全ての部門で女子の加盟登録を認めています。
 2010年現在、世界スカウト機構 (WOSM) に加盟している160の国と26地域の他、加盟していない29カ国を合わせ、215の国と地域で活動が行われており、参加総人口は2,800万人にのぼります。
 ボーイスカウト運動がこれほどにまで広がった背景には、ボーイスカウト運動が宗教の多様性、さらには各々の宗教の尊厳を認めていることがあげられる。これにより、イギリス発祥のボーイスカウト運動がアジア、アフリカ、イスラム圏など、世界中に広まっていったと言えます。
 かって社会主義国のソ連下では、少年団体(ピオネール)が政治体制としてありましたが、現在ではボーイスカウト活動が広く認められています。 なお、ユーラシア地域は旧ソ連諸国のために冷戦崩壊後になって設立されました。

 現在でもボーイスカウト運動を法的に活動禁止されている主な国は以下の5カ国。
 北朝鮮   キューバ   中国本土(香港、マカオなどを除く) ミャンマー  ラオス  この5カ国に、正確にはスペインとフランスの国境ピレネー山脈にある小国・アンドラ公国を加えた6カ国以外では、全ての地域においてスカウト活動が展開されています。 
 
ボーイスカウトの制度のモデルは薩摩の『 郷中教育』
   以下は納光弘のホームページより引用。
 乃木希典は大正元年(1912年)9月13日に、明治天皇の後を追って夫妻ともども自害し殉死した(乃木希典63歳、静子夫人53歳)。 乃木希典は日々の出来事を丹念に日記に残しており、自害の寸前まで日記をつけていた。その日記は現存しており、『乃木希典日記』として公開されている。乃木希典は根っからの長州人であり、薩摩の郷中教育で育ったわけではない。しかし、『薩摩の郷中教育が英国発祥のボーイスカウトのモデルであった』ことが、この日記の中で語られており、その点で、薩摩の郷中教育を語る上で欠かせない人物となっている。 
 ボーイスカウトはイギリスの軍人ベーデン・パウエルが1908年に青少年の心身を健全に育成するために創始したものである。 1911年、イギリス国王ジョージ五世の戴冠式に明治天皇、皇后のご名代として派遣された東伏見宮依仁親王ご夫妻に随行した乃木希典(当時陸軍大将)がボーイスカウトの訓練を視察した時の模様がこの日記に記載されている。乃木大将がパウエル卿に「このようなよい制度をどのようにして創られたのですか」と尋ねたところパウエル卿は「あなたのお国の薩摩における“郷中教育”の制度を研究し、そのよい点を採り入れ組織しました。」と答えた。との記述のページを発見して大いに感動し興奮しました。

 なぜパウエル卿は郷中教育に関心を持ったのでしょうか。 それは1863年に起きた薩英戦争で、薩摩は常勝イギリス艦隊7隻を錦江湾(きんこうわん)で迎え撃ち、大損害を与え、イギリス国民を驚かせたからです。パウエル卿自身がローデシアや南アフリカで前線部隊総司令官などを務めてた経歴を持っている。

 そしてハード・パワーの限界に直面した英国にあって、ソフト・パワー強化が叫ばれ始めた流れの一環として、パウエル卿は“心”の教育をも重視した「薩摩の郷中教育」を取り入れて次世代の兵士を育てるための青少年への軍事訓練としてのボーイスカウト運動を始めたという。この、パウエル卿によって創始されたボーイスカウト運動は瞬く間に世界へと拡がっていったことはご存知の通りである。
この薩英戦争を一転機に、イギリスと薩摩藩は親近関係が深まります。その2年後には薩摩藩は前述の日本で初めての19名の藩留学生をイギリスに留学させています。この逸話は薩摩の郷中教育が世界的に高く評価されたことを物語っています。
 
生麦事件と薩英戦争
 横浜市鶴見区生麦付近で江戸から京都に向かう途中であった島津久光の行列が生麦村に差し掛かった折り、前方を横浜在住のイギリス人4人が乗馬のまま横切ったこれに怒った奈良原喜左衛門ら一部藩士が斬りかかり1人が死亡2人が負傷した。
 幕府はこの件について謝罪と賠償金の要求を受け入れることになり翌文久3年5月9日、賠償金11万ポンドを支払いました。
 それにもかかわらず英国は、さらに薩摩藩と直接交渉するために、同年6月27日クーパー提督率いるイギリス艦隊7隻(旗艦ユーリアラス号2371t)に同行して鹿児島湾に遠征しました。薩摩藩に犯人の逮捕処罰と被害者、遺族への賠償金2万5000ポンドを要求しましたが、薩摩側は拒否。交渉は不調に終わります。(政府と違って薩摩藩はしっかりと筋を通した外交です。)
  翌文久三年(1862)二月、上洛した将軍家茂は、外国から攻撃されたら、という但書付きで「五月十日攘夷断行」を諸大名に布告する羽目に陥る。そして、この将軍上洛中、横浜にイギリス軍艦十二隻が入港して、生麦事件と公使館焼討ちの賠償を請求してきた。勝ち目のない幕府は巨額な賠償金請求に応じるしかなかった。
□ ところが、攘夷に凝り固まる長州・土佐藩も朝廷へ働きかけ、攘夷断行の勅命を幕府へ出させる。年末には長州の高杉普作らが、品川御殿山に建設中の英公使館を襲って焼討ちした。幕府の但書を無視して、五月十日、下関海峡を通る非武装の外国船を突然砲撃して喜んでいたところ、翌月には戦備をととのえた三隻の英・仏連合艦隊に報復され、長州の砲台や軍艦はあっけなく破壊されてしまいました。
 こうした生麦事件以降の一連の出来事によって、いわゆる「攘夷論」の実体の無さが証明されてしまいました。
 この戦争ではイギリス軍も薩摩の船を拿捕しますが薩摩軍もイギリス軍の旗艦ユリアラス号に多大の被害を与え艦長を死亡させます。結局大勢としてはイギリス側の勝利ではあったものの、死者の数はイギリス63名に対して薩摩はわずか17名でした。
 この結果イギリスも「薩摩は良くやる」と敵を評価し、両者は急速に仲がよくなって、維新への流れがますます加速することになります。 それは前述の英国が薩摩藩からの19名の留学生を受け入れたことや幕府に先立ってパリ万博に薩摩藩は独自に出品している。
 外交能力においてもジョン万次郎から情報収集したり、琉球や中国との交易などで当時の薩摩藩は幕府よりも上回っていました。
 世界で最初の万国博覧会は、1851年にロンドンで開催されたが、日本が正式に初参加したのは、慶応3年(1867年)のパリ万国博である。以下は鹿児島県のHPより。引用。
 1867(慶応3)年,フランスでパリ万国博覧会が開催されました。日本はこの時はじめて万博に参加し,幕府・薩摩藩・佐賀藩が出品しました。幕府は当初,日本の統一出品を予定していましたが,薩摩藩は独自に「日本薩摩琉球国太守政府」の名で別区に展示場を設け,琉球産物・薩摩焼・漆器・扇・煙草など百種をこえる産物を約400箱ほど出品しました。この時,全権大使岩下方平らは,フランス貴族モンブラン伯爵の発案で薩摩琉球国の勲章を作成し,ナポレオン3世をはじめフランス高官に贈りました。薩摩琉球国勲章は日本最初の勲章で,これにより薩摩藩は幕府と対等の独立国であるかのような印象を与えました。
 日本代表としてそこには薩摩琉球国大使の肩書きで薩摩藩使節団がいた十五代将軍徳川慶喜の使節団がパリに到着したのはその10日後。薩摩藩は独立したパピリオンを建てて出品しているだけでなく、フランス皇帝はじめ各国の高官と万博関係者に「薩摩琉球国勲章」を贈呈。二年前、留学生を引率して渡欧した薩摩藩士五大友厚がベルギー貴族モンブラン伯爵とパリ万博について打ち合わせ、モンブランが幕府に対抗する策を練り実行に移したという。幕府は抗議するが、薩摩藩代理人のモンブランは「薩摩は独立国だから将軍の支配は受け付けない」と突っぱね、日章旗の下で両者が展示を続けた。すごいですね。いまでもこんな自治体は日本にはありません。

 また余談になりますが、「satsuma」と聞くと、さつまいもや薩摩焼などを連想してしまいますが、英語で「satsuma」と言うと、サツマイモでなくて温州みかんのことを指すそうです。我々がいつも食べているあの温州みかんのことです。
 このsatsumaの言葉の起源は薩英戦争の後、賠償交渉がうまく運んだことに感謝した薩摩藩が、感謝のしるしとしてミカンを英国側に進呈したことに由来します。
 当時の駐日英国公使代理のニールが、外務大臣ラッセルに送った英文の書状に、「かごいっぱいのミカンが英国戦艦ユリアラス号に持ち込まれた」という記述があるそうです。また明治初頭、アメリカの外交官夫人が薩摩からみかんの木を取り寄せ、本国に持ち帰ったといわれています。 
  英語では温州みかんを一般的にMandarin Orange と表現するので、Mandarinという語はどうしても中国原産のイメージが強いですがミカンのことをサツマといえばなぜか嬉しくなりますね。
 さっそくオックスフォード英々辞典でsatsumaを検索してみると驚いたことに以下の記述が出てます。
satsuma /stsum/ noun
a type of small orange without seeds and with loose skin that comes off easily
  (種無しの皮がむきやすい種類の小さなオレンジ)英語で「satsuma」と言うと、温州みかんのことを指すそうです。
 またなんとハリー・ポッターの一番新しい版「Harry Potter & the Half-Blood Prince」にもsatsumaがでてきます。ロンのお父さんがsatsumaの皮をむいているシーンがあります。
'"Do you remember, Arthur?" Mphf?’said Mr Weasley, whose head had been nodding over the satsuma he was peeling.
(「覚えてます、あなた?」「んん~?」と答えたウィーズリー氏は、サツマ(みかん)を剥きかけたまま居眠りしていたのだった。)
(UK版6巻p.310)(SATSUMAとは?-「吾恥天地」日記より引用。)

 またMikanついて調べてみると、明治時代に米国へアメリカの外交官夫人が持ち帰ったとの記述を見つけました。そこで何かグーグルでもヒットするのではと思い検索してみるとやはり下記の記事がヒットしました。 Mikanの検索結果

In 1876 during the Meiji period, mikan were brought to the United States from the Satsuma Province in Kyushu, Japan by a spouse of a member of the U.S. Embassy. While the species originates from Japan, it does not originate from the Satsuma Province in particular. The towns of Satsuma, Alabama, Satsuma, Florida and Satsuma, Louisiana were named after this fruit.

明治時代1876年にミカンは米国大使館の家族により九州のサツマ地方から米国へ運ばれた。この品種は日本が起源であるが、特にサツマ地方が起源ではない。アラバマ州、フロリダ州、ルイジアナ州にあるサツマの町はこの果物にちなんで名付けられた。