英字新聞社説学習研究

読売、毎日、朝日各社英字新聞の主として社説を学習研究します

オアフ島のノースショアモクレイアでホノルル市の山岳道路工事を担当

2019-06-05 20:02:45 | エッセイ

40代のときハワイはオアフ島のモクレイアでホノルル市の山岳道路工事を担当しました。
モクレイアはノースショアにあり、サーフィン世界大会で有名なハレイワに隣接する地域です。
一年間滞在したのはハワイの大富豪デリンガムの別荘でした。
一部屋が与えられ、そこで一年を過ごしました。

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これがわたしが一年間寝泊まりしていた部屋です。
100年を超す木製家具と調度の美しさにひかれました。

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工事の入札はビッグハウスの会議室でなされました。
こちらの大きなテーブルも100年を超す逸品です。
その美しさと手触りの良さに驚嘆させられました。
ペンダント式の照明器具も100年以上前のものです。

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天国より届いた手紙 (家族を本当に愛するならば)

2011-07-18 06:58:02 | エッセイ

私が突然死んでも家族がいきなり路頭に迷わないようにしなければならないと、何度も考えていました。
ですが、それは現在に至るまで実現されていません。

何故でしょうか。

人間は生まれてくれば必ず死にます。運命(さだめ)なのです。
その厳粛で当たり前の事実を受け入れるのが怖かったのでしょう。
現実から逃避していたような気がします。

来年の五月、バンコクの大使館を訪問するときに、大使館の職員に相談して対策をたてよう。
そんな言い訳で何年も先延ばしにしてきました。
気がつけば、在タイ13年目。
タイに生き、毎日充実した人生を送り、終焉はタイで迎えると決心できていました。

何かのきっかけで人生の方向が突然変わることがあります。
今回のがそのケースでした。
友人というか、知り合いから届いた一通のメールで目覚めました。

私は家族を本当に愛してはいなかったと。
私が愛していたのは自分自身に他ならなかったと、自分を責めました。
もしも明日突然交通事故で他界したらどうでしょうか。
家族は路頭に迷うに違いありません。

私は決心しました。
今すぐ作戦を実行すると。
名付けて、「天国より届いた手紙」(家族を本当に愛するならば)です。

天国より届いた手紙(ラフですが、原案です。英語、タイ語の翻訳も併記します)

関係者一同様:

皆様こんにちは。
この手紙は、いわば天国より届いた手紙とご認識ください。
本人はすでに他界しております。
この手紙は、生前に作成しており、私が死んだら郵便局より発送するように、タイ人妻(ソーンサアートカムプーン)に生前に依頼しておいたものです。
存命中は、皆様から多大なご助力を受けたことを、深く感謝いたします。ほんとうに、ありがとうございます。
同封の書類をご確認ください。
書類の作成には万全を期したつもりですが、万が一不備がございましたら、タイ人妻(ソーンサアートカムプーン)ではなくて、在タイ日本国大使館までご連絡ください。
大使館には、生前にその旨伝えておきます。
誠に勝手なお願いではありますが、妻は日本語を解しません。まったく対応ができないのです。
ここはタイ語の堪能な在タイ日本国大使館の職員の手助けが必須なのです。
私の死後も、家族が平穏に暮らせることを願っています。
皆様の暖かいお心、天国に行っても決して忘れません。
ありがとうございます。

松井清、天国より

英語翻訳:(粗訳です、まだチェックしていません)

To whom it may concern:

It is nice to see you again.
This letter is a kind of letter from the heaven, because I’ve already passed away.
Myself have created this letter when I’m still alive.
I’ve requested my wife, Khumpoon Sonsaard to send this letter to you immediately after my death.
I’d like to express my sincere gratitude to you and your kind assistance when I’m alive.
Thank you very much indeed.
Here enclosed is an attachment of this letter for your further assistance to the bereaved.
I’ve made every effort in creating this document but if there may be any mistake, please send the instruction in this regard to the Japanese Embassy in Bangkok for necessary correction.
I’ve already made an arrangement for it with the Japanese Embassy in Bangkok.
It’s almost impossible for my wife to understand Japanese words, so staff of the Japanese Embassy is a must in proceeding the deal, as they can contact my wife with Thai language.
I hope my family is able to spend a happy life, even after my death.
I never forget your thoughtful mind and kindness given to my family and myself.
Thank you so much.

Kiyoshi Matsui, from the Heaven.

タイ語翻訳:
作成中です^^。タイ語は難しいのです。

私が死んだら、生前に作成しておいた10通ほどの封筒を郵便局に投函するだけで、家族が引き続き安心して暮らせるようにするのが狙いですが、在タイ日本国大使館の協力が必須だと思います。
もちろん、何も問題なければ、私はただ天国から微笑んでいればすむということになります。

すぐにやらなければならない作業のステップは100ステップ程度になるかも知れません。

まず、千葉市若葉区役所に死亡届の様式の送付を依頼します。同時に日本年金機構中央年金事務所に遺族年金請求の様式の送付を依頼します。平成23年7月18日(月)には郵便局から日本に向けて国際郵便を投函します。

やっと第一歩を踏み出せました。


旅の終わりに

2011-05-10 16:04:18 | エッセイ

どんなに楽しい旅であっても、終りのない旅はない。
また、どんなに苦しい旅であっても、終りのない旅はない。
どんな旅であっても、終りはかならずやってくるのだ。
旅は人生の縮図であるともいえるし、
旅とは実は人生そのものだということもできる。

一昨日2011年5月1日、夜8時半にコンケン駅で列車に飛び乗った。
2等車の座席は満席だった。
しかたなくバンコク、ホアランポーン駅まで3等車の狭くて堅い座席で我慢した。
さらに、ディーゼル車の先頭車両だったので、音がものすごく、排気ガスが容赦なく目や喉(のど)を責めたてる。
列車は到着予定時刻の早朝5時より大幅に遅れて6時過ぎにホアランポーン駅に滑り込んだ。
9時間に及ぶ、拷問のようなつらい時間であった。
それでは、悪いことばかりだったのか。
答えはノーだ。
普段めったに交際できないタイ人家族と心も体も触れあう旅が楽しめた。

真向かいの体重80キロ超のおばさんは30歳くらい。
4~5歳の男の子を抱いている。
この堅い座席に座っているだけでも辛いのに子供を抱いているお母さんは柔和な表情をしている。
ときどき子供がむずかって、熟睡できないのか大声で泣きじゃぐる。
もしも白人の座席が近くにあれば間違いなくクレームをつけられるケースだ。
周囲のタイ人、全く動じない。動じているのは眠りを妨げられたスラチャイくらいのものだ。
満席状態で立ち席の人も多くいる。なんだか昔の日本の夜行列車の風景だ。

斜め前の20~30代の姉妹。なかなかの美形だ。
スラチャイが美人だなって見つめているとそれを見透かされたように笑顔を返してくる。
やがて妹のほうが眠りはじめて、姉の右肩に頭を埋めてこっくりしている。
こんなところでも美しい姉妹愛は人を感動させる。
もしもスラチャイが若くて独身だったら間違いなく話しかけているケースだ。

ずーっと向こうの席では、美しい20代の女性が大股開きでご開帳。
スラチャイが見て見ぬふりをして、そっと覗いていると、覗かれているのが分かるのか、閉じられてしまう。
こんな馬鹿なこと繰り返しているうちにも列車はひたすらバンコクを目指してがったんごっとん。
ご開帳のこの女性が突然目を覚ましてスラチャイと目があう。
赤くなって下を向いたのはスラチャイのほうであった。

横の30~40代のおばさん、スラチャイの横でやたらと姿勢をかえる。
そうでなくとも密着しているので、とても寝ていられる状態ではない。
スラチャイの左肩に頭を埋めて熟睡しているこの女性の首をしめてやろうかと思った。
こちらは一睡もしていないのだぞ!

コンケンからバンコクまでたくさんの駅に停車する。
深夜に列車が駅に到着する毎に大勢の物売りが乗り込んできて商いを行う。
次の停車駅までが勝負なので、深夜にもかかわらず大声が飛び交う。
タイの夜行列車でも三等車の車内はこの雰囲気なのでとても眠ることなどできないのだ。
売り子のなかにはまだ10代の美しいタイ娘がいたりするので、眠りかけていたスラチャイも現金なもの。
すぐに飛び起きて、飲み物や食べ物を買ってしまう。
サラパオ(中華まんじゅう)のお姉さんはまだ子供、多分14~15歳。美人だったな。
すらりと伸びた美しい姿態に圧倒されてしまった。
一瞬の静けさは、これらの売り子が列車を降りてしまって、次の売り子が乗り込むまでのわずかな時間だけなのだ。

明け方の6時半ころホアランポーン駅に到着した。
車内では乗車券のチェックがあるが駅の出口には係員さえいない。
誰でも自由に出たり入ったりできる。
3バーツ支払ってトイレを借りる。
タイでは公共トイレは有料なのだ。
電気カミソリでばりばりとひげを剃ると周囲のタイ人たちが珍しそうな顔をする。
かまわず歯を磨いて、顔を洗う。
爽快な気分が体いっぱいにあふれてくる。

ホアランポーン駅から徒歩10分で楽宮旅社、北京飯店がある。
スワニーさん元気にしているだろうか。
スワニーさんはまもなく80歳になる女性。
日本の貧乏旅行者(バックパッカー)にとって、楽宮旅社、北京飯店は聖地である。
欧米人のバックパッカーがカオサンを目指すのと好対照なのだ。
スワニーさんの料理はそのスピードが信条。いつもさっとおいしい日本料理を食べさせてくれる。
バンコクで遊びほうけてお金がなくなっては、ここで安い日本食を食べさせてもらった。
無性にスワニーさんに会いたくなった。

誘惑を断ち切って、ホアランポーン駅の地下鉄に飛び乗る。
日本大使館のあるルムピニまでわずか三つ目の駅であり、10分くらいで到着する。
早朝7時に日本大使館に到着、人影は全くない。
大使館領事部は8時半に業務開始であるが、8時には中に入れる。
8時にドアーが開くまで、チェンマイからやってきたビザ取得が目的の女性と、とりとめのない会話をする。
彼女は横須賀に行くと言っていた。

9時に在留証明申請を受け付けてもらったら、わずか30分で発行された。
大使の署名付きであるが、最近大使が人事異動で入れ替わっていた。
タイの大使は入れ替わりが激しいような印象を受ける。
これでは地に着いた大使館業務、サービスは難しいのではと思った。
大使は日本を代表する表看板なのだから。
職員はこの10年変わっていないようだ。
タイ語は流ちょうでもプライドが高すぎるような印象を受けた。(受け付けてもらった女性)

9時半に大使館の前からタクシーに飛び乗って、北バスターミナルへ。
いつもは高速道路を利用するが、運転手が今日はすいているので下を走りたいと抜かす。
何のことはない、時間をかけても走行距離を稼ぎたかっただけなのだ。
なつかしいあの道、この道、全部覚えていた。まるで昨日のことのように。
当時、バンコクの端から端までタクシーに乗っても100バーツを超すことはなかった。
北バスターミナルでメーターを見たら、137バーツとなっていたので、140バーツ支払った。
高速道路を利用すれば80バーツくらいなのだが、高速道路料金40バーツは客が支払う。
結局、時間の浪費であったが、バンコク観光をした気分にはひたれた。

10時半のバスに飛び乗って、夕方4時にはコンケンに無事戻ることができた。
コンケンのバスターミナルからローマホテルまで徒歩5分。
ローマホテルに駐車していた車に飛び乗って、団地に戻る。
まだ明るいので、娘たちは元気に外で遊んでいた。
バンコクからコンケンに戻ると空気までちがう。
安堵のため息を流したあとで、家族でローマホテルに戻りソレントレストランで食事をした。
酒を飲むので帰りはいつもタクシー。
わずか100バーツのタクシー代をけちって、事故っても情けない話だから。
私は小さな幸せを感じていた。


バンコク楽宮ホテル

2010-09-13 14:57:54 | エッセイ
北京飯店はタイフリークの間ではかなり有名な店です。
小さな決して清潔とは言えない店ですが、スワニーさんがいつもいつも笑顔で対応してくれるのが救いでした。
バンコクはヨーロッパや西アジア、インドなどを旅行するバックパッカーの中継地点でした。
インドやパキスタンを旅行してヘトヘトになった旅行者たちが帰国の途中でここに立ち寄り久しぶりの日本食を味わったのです。味噌汁、焼き魚、冷奴、納豆、豚肉の生姜焼き、トンカツ、チャーハン、等々は長旅で疲れ果てた旅人たちの心を休めてくれました。場末でもこれだけ美味しく感じるというのが実感です。
狭い店の中には小さなテーブルが三つほどしかありませんが、テーブルの上に小さな本棚があり旅人が残していった週刊誌や漫画、文庫本等々が置かれてあります。旅人はこれらの雑誌を懐かしそうに眺めながら、ビールを飲んだり、食事をしたり、雑談したり…、当時は日本人貧乏旅行者の溜まり場だったのです。
スワニーさんは日本人のくだらない話を真面目に聞いてくれる数少ない人でした。
タイフリークでスワニーさんのお世話になった人は結構多いのではないでしょうか。
私もその末席を汚しています。
昨年の6月スワニーさんを久しぶりに訪ねましたが、もはやあの厚化粧もされていなくて別人かと思いました。
時の流れっていうものは本当に非情なものですね。
(スラチャイ記)

北京飯店(店の左側の鉄製スライド式扉をくぐり2Fの楽宮ホテル受付へ)

photo by srachai from OCNフォトフレンド

スワニーさん(20年くらい前の写真)

photo by srachai from OCNフォトフレンド

バンコク楽宮ホテル

2010-09-11 14:09:24 | エッセイ
「バンコク楽宮ホテル」は谷恒生が1980年代に書き下ろした徳間文庫の小説である。
一等航海士として、世界中の海を渡り歩いていたころの経験をもとにして、バンコク中華街ヤワラーのはずれにある「楽宮ホテル」に出入りする不思議な日本人の生態、ホテルに居住する笑顔の娼婦などとの交流などが描写されている。
80年代の貧乏旅行者たちが楽宮ホテルの一室の壁にこう書き残している。「金の北米、女の南米、耐えてアフリカ、歴史のアジア、何もないのがヨーロッパ、問題外のオセアニア」、「豊かな青春、惨めな老後」、等々。
20年前私が楽宮ホテルを訪ねたときには落書きされた部屋を特定することも出来なかった。多分消されてしまったのであろう。部屋には多くの娼婦たちが寝泊りしていた。
ここは日本人貧乏旅行者の言わば溜まり場であったが、そのあまりの汚さに、その地位をすぐ近くのジュライホテルに奪われていた。どのくらい汚いかといえば昭和初期の公衆便所の小便器の脇に大きなベッドだけがむなしく横たわっていると表現できる。パスポートや現金は拠点ホテルのセイフティーボックスに納めて、とりあえず必要な現金のみズボンのポケットに押し込んでここに数日滞在した。
部屋は窓の無い階段下の狭い部屋で一泊50バーツ、日本人が泊まれる明るい窓のついた広い部屋は一泊120バーツだった。狭い部屋は居心地が悪いので娼婦たちは夕方になるとラジカセを片手に私の部屋まで押しかけて来た。毎晩集まる娼婦たちの人数は10名を超えていた。私は小額のお金を渡してビールやウイスキー、また屋台の軽食をパックしてもらったものを買ってきてもらい部屋で毎夜パーティーをした。楽しかった。深夜の2時頃には一人あたり50バーツのチップを渡して、それでやっと眠りにつくことができた。やがて、女を買わない変な日本人が有名になり、あぶれた街娼たちが集まりだしたので、潮時だと感じて拠点ホテルに戻った。ちょっと淋しかった。
ホテルの一階はタイフリークの間では有名な場末の北京飯店、経営者はスワニーさん。昨年の6月にここを訪れたときにもまだ元気で小さな汚いお店を一生懸命切り盛りしていた。スワニーさんとは長い間の顔見知り、私はビールを1本注文しておつまみは日本式冷奴、料理の素早さがこの店の信条である。スワニーさんとしばしの間世間話をして、それから私はタクシーでバンコク北バスターミナル(モーチット)まで戻り、すぐにコンケン行きのバスに飛び乗った。
(スラチャイ記)