文科省かどっかの見解で「理由がわからない」と言っているのをみて、教育の現場にいない私が耳にしていることは何だろうかとふと思った。
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国語、すなわち日本語なのだから「家やテレビで学べるからいいよね、学校から削っても」という理論を十年くらい前には聞いていた。ハッピーマンデーで授業日数が足りない等で、何を削るかと言ったら国語だというものだったと記憶している。
家庭やテレビで流れる日本が「語彙豊富」で「丁寧な」日本語ならば、それで構わないのではないだろうか? 親に対して丁寧語で話、それができないと親が指摘できるような世界なら問題ないだろう。
実際は「テレビから流れる言葉が汚い」と昭和のころからも言われていたのではないだろうか。むしろ、平成の世で昭和の芸能人の言葉遣いが丁寧なことに驚いた。徐々にしゃべり方が変わるのだが、言葉の選び方も変わってきている。
丁寧か否かより、単純に伝わればいいという状況のような気もする。
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英語やらプログラミングを学校で教えるようになる。
日本語さえできないの外国語を教えることには、教育者や外国を操る人からも問題視する声は上がっていた。
母語の日本語ができていないところに、英語など外国を教えたところで、限度があるということ。母語以上にはならないという。
親が二か国語使う家は使えるから、小さいころから慣れれば使えるという理論が聞こえてきていたが、それは、親たちは母語をしゃべっているため、語彙力などがしっかりある。
つまり、あやふやなところにあやふやなところを覚えるのではなく、流ちょうに使う人たちの間にいるからこそ、語彙力などが身に付きどちらも使えるようになるということだと説明を聞いたことがある。
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読解力がない、自分の意見がいえないのは、母語である日本語が怪しい上に基礎知識がないこともあるのではないか?
数学などのリテラシーは高かったというけれども、このまま読解力の低下を起こせば、問題文だって読めなくなり、それらだってトップレベルから落ちる。
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結局、母語である日本語をきちんと使えるようになるには、読書をして理解することを身につけないとならないのではないか?
短文だって私は構わないと思う。絵本や童話から始めて、じっくり読み、理解することが必要なのだ。
物語文が生きるのに関係ないとか耳にしたが、読んで理解すること、想像することは読解力の向上と関係ないとは思えない。それに、実用文を読むにしても、読解力がなければ理解できない。
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理論的な思考や外国語は必要だろう。
しかし、基礎となる言葉、知識を充実させ、そこから自分がどう考えるか言えるようにしていけばよいのではないのだろうか?
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私は専門家ではない。
ただ、なんとなく、朝刊読んでもやもやしたライターにすぎないため、これまで読んだ文章や意見から納得したことをしたためた。
にしても、長いなぁ(苦笑)。
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