北関東の宮彫・寺社彫刻(東照宮から派生した宮彫師集団の活躍)

『日光東照宮のスピリッツ』を受けついだ宮彫師たち

・利根川流域周辺の屋台・山車文化

2022年09月08日 | 総論 
 利根川両岸の地域は、水運の他、中山道と日光例幣使街道といった主要な陸路があり栄えた場所である。その経済的優位性を背景にして妻沼聖天堂(熊谷市)を始めとする華麗な装飾彫刻をもった寺社建造物が多く存在し、沢山の彫工がこの周辺から輩出されている。また、屋台・山車の祭り文化が非常に多く存在し、主要なものを図に示す。


利根川流域の主要な屋台・山車 (国土地理院地図使用)
 屋台・・●/ 山車・・■

 ●が屋台で、■が山車になる。桐生、熊谷のように山車と屋台が両方存在するものがある。屋台の数は、伊勢崎の波志江は屋台が10台、世良田は8台で、客屋台として伊勢崎の境の3台が遠征して一緒になり数が多い。屋台本体の規模では桐生、足利葉鹿、尾島のものが大きい。伊勢崎は、波志江、上植木、茂呂、境、馬見塚と非常に屋台文化が盛んな地である。茂呂地区には5台の屋台(美緒路、茂呂一丁目、茂呂二丁目、茂呂南、南北千木)がある。
 現在の祭りは、いわゆる「お祭り」の要素が強いが、祇園祭は祭礼(疫病退散祈願)が根底にある。江戸時代には、幕府の命により贅沢が制限される中、晴れの日の祭礼では派手にやることをある程度は許されていたと思われる。屋台・山車は彫刻だけでなく、屋台は町のプライドを示す象徴であり、各町で競って製作された。
 屋台・文化が栄えた背景にはその土地の地形も大きく関係する。この地は、利根川によって形成された平野で平坦な地であり、かつ屋台、山車を巡行するための道が整備されていた。
 日光東照宮の宮前での祭礼は、「家体(やたい)」と呼ばれる車輪が付かないもので、坂道を人力で担いで町内を廻った。また、栃木の鬼怒川周辺の田園地帯では、「天棚(てんだな)」と呼ばれる、屋台の車輪部が無い上部だけのものを一カ所に据え置きの形で組み立てて祭禮(天祭)を行っている。これは、巡行する道が整備されていないために、このような形になったと考えられる。

▼伊勢崎茂呂地区
・南北千木町の屋台(岸亦八、弥勒寺音八ら、過去のブログで紹介)


・茂呂一丁目の屋台


・茂呂南町の屋台



・美茂呂町の屋台



▼伊勢崎波志江地区
・岡屋敷の屋台(以前 ブログ紹介)


・中野面の屋台(以前 ブログ紹介)


・稲間の屋台(後藤恒徳、以前 ブログ紹介)


▼太田尾島
・三丁目の屋台(彫物のみ)


▼玉村
・五丁目の屋台


・六丁目の屋台




▼桐生
・三丁目の屋台





・四丁目の屋台




・四丁目の鉾




▼本庄(本庄中心街)
・七軒町の山車 人形:加藤清正公



▼本庄 児玉町
・上町の山車 -電線化で2階部分がはずされました。白黒写真は昔のもの。





・新町の屋台(佐藤正實) -平床式の回り舞台を付設




▼花園(深谷小前田)
・中町の屋台


・上町の屋台(弥勒寺音八)


・本町の屋台



▼寄居
・中町の山車(飯田岩次郎)



・茅町の山車(高澤改之助)



▼中瀬
・京街の屋台


▼足利
・葉鹿仲町の屋台(礒辺儀左衛門(凡龍斎)、小林丑五郎)



・小俣町の山車






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