日光東照宮、世良田東照宮と紹介してきまして、次に紹介すべきは「妻沼の聖天山」です。国宝にも指定されている名建築物です。特に奥殿(本殿)は、三面に素晴らしい彫刻が施されています。
寛文10年(1670)に大火で焼失。享保5年(1720)に地元の大隅流大工・林兵庫頭藤原正清によって再建が計画され、享保20年(1735)に着工。途中工事が中断(寛保2年(1742)の洪水:信濃では『戌の満水』)されましたが、宝暦10年(1760)に完成しました(完成時には、正清は没後で子の正信が棟梁を務めた。) 奥殿は延享元年(1744)に竣工。拝殿は宝暦6年(1756)に上棟、宝暦10年に竣工。
林兵庫頭正清は、平内大隅流の平内応勝の二男とされ、名門の出身でした。正清が武州妻沼の宮大工・林家に養子に入り林姓を名乗りました。大隅流・林兵庫頭正清の流れは、こののちも優秀な彫工を随えて、北関東に名建築を作っていきます。林正清の系譜は別の機会に紹介します。
この聖天山に関わった宮彫師ですが、彫物に2か所に「小沢五右衛門」「後藤茂右衛門」の銘があり(後述)、明らかになっています。残念ながら古文書、棟札に彫工の銘は確認されていません。しかし、奥殿の完成後の、工事が一時中断していた時期に、聖天山の関係者が手がけたとされる、江南諏訪神社本殿(熊谷市)の棟札が残されております。
・江南諏訪神社本殿の棟札(現物は所在不明で写しが残っています)
大工棟梁:当国三ヶ尻村 内田清八郎、林兵庫、 大工細工人 妻沼村 林兵庫門弟 中條丈八郎、羽生淀八郎、鷲宮清右衛門、妻沼源内、三ヶ尻七右衛門、新堀元右衛門
彫物大工棟梁:北上州花輪村 石原吟八郎、同門弟 前原藤次郎、深沢軍八郎、 同棟梁 江戸両国米沢町 小沢五右衛門、同門弟二人。とあります。
■妻沼聖天山 左側面(南面)、左から奥殿(本殿)、中殿、拝殿
聖天堂は権現造り(奥殿、中殿、拝殿からなる)。名称は、明治の神仏分離の前は、聖天堂は聖天宮、奥殿は御本社、中殿は幣殿、拝殿は拝殿と呼ばれました。奥殿の屋根には千木、鰹木がありました。
今回は、奥殿、中殿を紹介します。奥殿は入り母屋造り(桁行3間、梁間3間)、中殿は両下造り(桁行3間、梁間1間)。
■奥殿の左側面(南面)
・後方より
・左側(南)面の海老虹梁周辺 鳳凰の裏に、「両国米沢町 小沢五右衛門 江戸湯嶋天神前 絵師 下山平吉」とあり。
・左側(南)面の胴羽目 鹿を連れた寿老人
・左側 軒下
・左側(南)面 中殿
・左側(南)面 向拝の下部の板戸彫刻
・左側(南)面 唐破風の装飾 破風入(表現表記に異論あるかもしれません)「三聖吸酸」
後面、対側(北面)も甕が入った題材で、甕が共通します(火除け)。
・左側(南)面 縁下 腰縁框付「猿」、腰羽目「唐子遊び」
唐子(竹馬遊) 桜、蘇鉄 「春」
唐子(小間取游) 梅 「春」
唐子(鶏合) 竹、牡丹 「初夏」
■後面(西面)
・西面上部唐破風の装飾 破風入「司馬温公の甕割」
・後面胴羽目
左:布袋の袋を唐子が引っ張る場面
中央:布袋と恵比寿の碁打ち-碁盤面は、本因坊道策と熊谷本碵の対局棋譜
右:恵比寿の鯛、大黒の俵を唐子が運ぶ場面
腰羽目 「唐子遊び」
唐子(凧あげ) ツツジ、菖蒲 「夏」
唐子(魚とり)、 桃 「夏」
唐子(盆踊り)、 蔦 「夏、初秋」
・脇障子の上部 竹の節 この形状は利根川周辺の建造物でよく見られます。
■右側面(北面)
・北面上部唐破風の装飾 破風入「猩々酒游図」
・右側面の胴羽目
左:吉祥天と弁天の双六、脇に毘沙門天。
・右側面 海老虹梁周囲
拡大部 鳳凰の裏面に「武江城下住 彫工 後藤茂右衛門 藤生堂 正綱(花押) 寛保二壬戌歳六月吉日」と墨書あり。
・右側面の縁下
土台部に「長谷川重右衛門」と銘あり。長谷川重右衛門は、岩国吉川家の作事方棟梁(忌部流)で、聖天山の総門(貴惣門)の設計をした人物。
・腰縁框付「猿」
・腰羽目
左:唐子(相撲) 雪椿 「冬」
中央:唐子(雪玉遊び) 梅、竹 「冬」
右:唐子(獅子舞) 芙蓉 「冬」
*社寺彫刻研究家で、ガイドボランティア「阿うんの会」専任講師の阿部修治氏には、大変お世話になりました。
参考文献
1.『熊谷市史 別編2 妻沼聖天山の建築』、熊谷市発行、平成28年
2.阿部修治、『甦る「聖天山本殿」と上州彫物師たちの足跡』、さきたま出版会、2011年
3.『埼玉の近世社寺建築』、埼玉県教育委員会、昭和59年
寛文10年(1670)に大火で焼失。享保5年(1720)に地元の大隅流大工・林兵庫頭藤原正清によって再建が計画され、享保20年(1735)に着工。途中工事が中断(寛保2年(1742)の洪水:信濃では『戌の満水』)されましたが、宝暦10年(1760)に完成しました(完成時には、正清は没後で子の正信が棟梁を務めた。) 奥殿は延享元年(1744)に竣工。拝殿は宝暦6年(1756)に上棟、宝暦10年に竣工。
林兵庫頭正清は、平内大隅流の平内応勝の二男とされ、名門の出身でした。正清が武州妻沼の宮大工・林家に養子に入り林姓を名乗りました。大隅流・林兵庫頭正清の流れは、こののちも優秀な彫工を随えて、北関東に名建築を作っていきます。林正清の系譜は別の機会に紹介します。
この聖天山に関わった宮彫師ですが、彫物に2か所に「小沢五右衛門」「後藤茂右衛門」の銘があり(後述)、明らかになっています。残念ながら古文書、棟札に彫工の銘は確認されていません。しかし、奥殿の完成後の、工事が一時中断していた時期に、聖天山の関係者が手がけたとされる、江南諏訪神社本殿(熊谷市)の棟札が残されております。
・江南諏訪神社本殿の棟札(現物は所在不明で写しが残っています)
大工棟梁:当国三ヶ尻村 内田清八郎、林兵庫、 大工細工人 妻沼村 林兵庫門弟 中條丈八郎、羽生淀八郎、鷲宮清右衛門、妻沼源内、三ヶ尻七右衛門、新堀元右衛門
彫物大工棟梁:北上州花輪村 石原吟八郎、同門弟 前原藤次郎、深沢軍八郎、 同棟梁 江戸両国米沢町 小沢五右衛門、同門弟二人。とあります。
■妻沼聖天山 左側面(南面)、左から奥殿(本殿)、中殿、拝殿
聖天堂は権現造り(奥殿、中殿、拝殿からなる)。名称は、明治の神仏分離の前は、聖天堂は聖天宮、奥殿は御本社、中殿は幣殿、拝殿は拝殿と呼ばれました。奥殿の屋根には千木、鰹木がありました。
今回は、奥殿、中殿を紹介します。奥殿は入り母屋造り(桁行3間、梁間3間)、中殿は両下造り(桁行3間、梁間1間)。
■奥殿の左側面(南面)
・後方より
・左側(南)面の海老虹梁周辺 鳳凰の裏に、「両国米沢町 小沢五右衛門 江戸湯嶋天神前 絵師 下山平吉」とあり。
・左側(南)面の胴羽目 鹿を連れた寿老人
・左側 軒下
・左側(南)面 中殿
・左側(南)面 向拝の下部の板戸彫刻
・左側(南)面 唐破風の装飾 破風入(表現表記に異論あるかもしれません)「三聖吸酸」
後面、対側(北面)も甕が入った題材で、甕が共通します(火除け)。
・左側(南)面 縁下 腰縁框付「猿」、腰羽目「唐子遊び」
唐子(竹馬遊) 桜、蘇鉄 「春」
唐子(小間取游) 梅 「春」
唐子(鶏合) 竹、牡丹 「初夏」
■後面(西面)
・西面上部唐破風の装飾 破風入「司馬温公の甕割」
・後面胴羽目
左:布袋の袋を唐子が引っ張る場面
中央:布袋と恵比寿の碁打ち-碁盤面は、本因坊道策と熊谷本碵の対局棋譜
右:恵比寿の鯛、大黒の俵を唐子が運ぶ場面
腰羽目 「唐子遊び」
唐子(凧あげ) ツツジ、菖蒲 「夏」
唐子(魚とり)、 桃 「夏」
唐子(盆踊り)、 蔦 「夏、初秋」
・脇障子の上部 竹の節 この形状は利根川周辺の建造物でよく見られます。
■右側面(北面)
・北面上部唐破風の装飾 破風入「猩々酒游図」
・右側面の胴羽目
左:吉祥天と弁天の双六、脇に毘沙門天。
・右側面 海老虹梁周囲
拡大部 鳳凰の裏面に「武江城下住 彫工 後藤茂右衛門 藤生堂 正綱(花押) 寛保二壬戌歳六月吉日」と墨書あり。
・右側面の縁下
土台部に「長谷川重右衛門」と銘あり。長谷川重右衛門は、岩国吉川家の作事方棟梁(忌部流)で、聖天山の総門(貴惣門)の設計をした人物。
・腰縁框付「猿」
・腰羽目
左:唐子(相撲) 雪椿 「冬」
中央:唐子(雪玉遊び) 梅、竹 「冬」
右:唐子(獅子舞) 芙蓉 「冬」
*社寺彫刻研究家で、ガイドボランティア「阿うんの会」専任講師の阿部修治氏には、大変お世話になりました。
参考文献
1.『熊谷市史 別編2 妻沼聖天山の建築』、熊谷市発行、平成28年
2.阿部修治、『甦る「聖天山本殿」と上州彫物師たちの足跡』、さきたま出版会、2011年
3.『埼玉の近世社寺建築』、埼玉県教育委員会、昭和59年
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