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「灌漑長閘紀功之碑」の移設建碑 ~喜連の歴史を語りかける地に移設~
長年、如願寺弥勒堂裏に仮置きされていた喜連の歴史を物語る「灌漑長閘紀功之碑」が喜連北小学校の東三差路(喜連1-5-25)へ移設されました。喜連環濠地区まちづくり研究会の「喜連地区案内板構想」の一連の事業として、平成27年11月13日完工しました。当日は同碑のお披露目と共に、藤井清美区長の祝辞、白川俊義喜連村史の会代表の解説を頂きました。同解説は以下の内容です。
「当碑は宝永元年(1704)の大和川付け替えにより、狭山池からの水源を断たれる危機に際し、西喜連村庄屋増池彌右衛門の尽力で、東・中・西三村が協力し、国役(幕府持ち)で、新川からの取水樋を設置したことの記念碑です。事業を村民の記憶に留めるため、明治三十三年(1900)、村の人々により建立されました。
新樋設置とは、単に川から水を引く水門を作るという単純なものではありません。大和川川(かわ)違(たが)え自体が日本史上の大土木工事でしたから、堤の中腹に埋設された導水管の長さだけでも十八間(約三二m)、これに堤から北へ長原村領に五十間(約九十m)の水路を村人の人力で掘るという大工事でした。設置の後も享保年間まで何年も、喜連領内の灌漑網の再整備が続けられたことが、村の古文書から明らかになりました。
意外なことに「五十間樋」は設置後わずか七年の正徳元年に全面的に工事し直していることも判りました。「五十間樋」は高度成長期まで二五〇年、喜連の農業を支え続けてきましたが、これも先人の努力があったからです。江戸時代の農村の水の確保に対する多大の努力研鑚の経緯をまとめた五十間樋関連の史料を冊子にしております。(天野茶屋【喜連6‐1‐38】に置いています。)多くの方々に読み取って頂ければと思います。
碑文の撰は藤沢南岳。当時を代表する文人(漢学者)で、石碑自体の価値も高く、当時の喜連の学識を示す記念碑ともいえます。紀功碑脇の小碑の建設委員の方々が南学の門人だったことも最近分かりました。
新たな設置場所は元の「水道の川」跡で、村の「バチカル(揚水)」ポンプ場・後の精米所跡であり、旧字名「山の上」。古墳跡と推定される地です。喜連の古い歴史を偲ばせる、村の水利の要衝です。喜連北小学校通学路に、この灌漑長閘紀功碑が区役所の解説碑と共に並んだことは、今後、郷土の歴史を継承していく上でも意義深いことです。地域のみなさまの深い関心を呼び起こす移設となってくれることを願ってやみません。」
移設後の五十間樋
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