そんなある日のことだった。その日は夏の夕立が街を濃紺に染めて、春川の繁華街も人通りがまばらになっていた。むせかえるような暑さと、アスファルトの焼ける臭い、雨がしみ込んだ土埃のにおいが混じった、独特の夏の匂いを今も覚えている。ギョンヒが店を閉めるという母親よりも一歩先に店を出ると、軒先にヒョンスがポツリと立っていた。
「夕立って本当に突然だな。いやだなあ。」
困り果てた顔で、真っ暗な空を見上げていたヒョンスの横顔を、ギョンヒは昨日のように思い出す。
ギョンヒはヒョンスに手招きをして、無言のまま歩き始めた。ギョンヒは春川で知る人ぞ知るタッカルビ(鶏肉と野菜の甘辛炒め)の店に連れて行くと、店員のアジュンマに「タッカルビ2人前」と言って腰を下ろした。「今日は私のおごり。いつも食べに来てくれるから」ギョンヒが恥ずかしそうに微笑むと「夕立もいいもんだな」とヒョンスも笑って、二人は黙々とタッカルビを食べ始めた。その日からだった、二人の距離が縮まったのは。ヒョンスはお腹が満たされると饒舌になった。兄弟を高校まで卒業させて一人前にしたいこと、将来は大工になって家族の家を建てたいこと、春川第一高校出身なこと、そして留学している婚約者のことも。ギョンヒはすこしちくりと胸が痛んだものの、自分も父親が亡くなって困窮していること、姉妹を成人させる目標があること、将来は洋服屋になりたいことをいつの間にかしゃべっていた。二人はお互いのことを「聞き上手だ。ついいろんなことを話してしまう」と言って笑った。そして日頃の愚痴をたくさん話してたくさん笑って別れた。
ヒョンスとギョンヒの関係はそれから進展することはなかった。時々ふらりと現れるヒョンスとしばらく話し込んで食事を提供する、二人の関係はそれだけだったが、ギョンヒはいつしかヒョンスが来るのを心待ちにしていた。しかし、ヒョンスの方でもギョンヒと会うのを楽しみにしている様子が見られ、ギョンヒは「婚約者がいるのに大丈夫かしら」と思いつつも、気のせいなのかもしれない、と考えないようにしていた。
そんな二人の関係が変わったのは次の年の初夏のことだった。その日もまたものすごい夕立で、町は漆黒の闇に包まれていた。ギョンヒが店を閉めて出ようとしたとき、軒先にいつかのようにヒョンスが立っているのが見えた。今日のヒョンスはいつもの穏やかな笑みは封印して、真っ黒なガラス玉のような目でギョンヒを見つめていた。ギョンヒはなんとなく感じたものがあり、今閉めた店のカギを開けて電気をつけて、食堂の中で話をすることになった。
ヒョンスは髪の毛からポタポタと落ちるしずくをそのままに、静かに話を始めた。オーストリアに留学中のピアニストの卵である婚約者の話だった。ギョンヒは彼女の話を心がつぶれる思いで聞き続けた。
「彼女は僕にもったいないほど素晴らしい人なんだよ、、、、。でも、彼女は僕を必要としてるけど、それはいつもそばで彼女を励まして勇気づける、そんな僕を求めてるんだ。でも彼女の夢の中にいることは出来ない。僕は大工になる夢かある。春川の家族を大事にしてここで生きたいと思ってる。でも、ミヒは違うんだ。世界的に有名なピアニストになりたいんだよ。そして、世界中で演奏して回りたいんだ。僕は彼女の足を引っ張ってしまう。だって、どこにも行きたくないんだ。ここにいたいと思ってる、、、。彼女と僕は違いすぎて、おんなじ夢は見れないんだよ。」ヒョンスは、そういうと静かに席を立って行ってしまった。3日後に婚約者が帰国するから、別れを告げてくると言ったまま。
それからしばらくの間、ヒョンスは店に現れなかった。ギョンヒは毎日気をもみながら来るのを待っていたが、不安は募るばかりだった。別に、ヒョンスに愛の告白をされたわけでもないし、待っていてくれと言われたわけでもないのに、ひたすら待っていた。ギョンヒはヒョンスの連絡先すら知らない自分に笑ってしまうのだった。
そしてついにその日が来た。ヒョンスが、仕事終わりのギョンヒを待っていたのだった。