『風の谷のナウシカ』(全7巻)を久しぶりに読む。
アニメ版と違い、
宮崎駿という表現者の凄まじい思想的苦闘をそこにみて取ることができてなかなか面白いです。
読み手のレベルを選ぶマンガで、読むたびに深い気づきがある。
まだ読んでない人はぜひ。。
(難しいテーマなんで、興味ない人は読まなくていいです)
~ここからネタバレ~
■「王蟲の体液と墓のそれとが同…」発言
7巻の最後。ナウシカの「王蟲の体液と墓のそれとが同じだった」
とある確信をもって悲しんでる1コマ。
この発言をどう捉えるかという問題があります。
一般的な解釈では
旧世界の人間(墓所..)による思惑も自然の摂理(王蟲..)
もそれ自体は本質的にはさして変わりはないのだ、という風に読み取れます。
(さらに、それら自体ももっと大きな摂理の中の一面一面にすぎない、とも読み取れる)
ナウシカたちがその命を闇の中で瞬かせるのには意味があるが、それを手助けするも者も妨げる者も、それからおそらくはナウシカたち自身も、全てみな虚無の深淵からやってきて虚無の中へ帰って行くものにすぎない。
ただ、なぜナウシカがあのセリフを最後に言ったのか、それも、なぜあんな表情で言ったのか蓋然性に乏しい。
ずっと納得できなかった面でもあります。
王蟲の体液と墓の体液が同じだったと気付いても、あんな表情でそのことを思い巡らしたりしない。
それは別に同じであってもおかしくないことのように思えるからですが。
しかしナウシカは、それが考えてみなければならないことのような表情で言います。
改めて最近読んでわかってきたのは、そこに「王蟲の体液と墓のそれが同じ」だったことの悲しみと欺瞞への葛藤があったからだと考えてます。
mi amiさんの解釈が参考になります
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自分がもっとも受け入れがたかった「プログラムされた生命」と、もっとも敬愛する王蟲の「いたわりと友愛」の根源が同じ存在であると言うことを改めて確認して、それを受け入れる覚悟をしたのではなかったかと思いました。
墓は「青き清浄の地」で穏やかに賢く生きる「人間」の卵を保管していたわけですが、それを放つまで墓の存在を確保するためにも、結局汚れた人間の手を必要としていると言うアンビバレントな存在です。
人間が清浄と汚濁であるのと同じように墓もそうであり、王蟲はその間をつなぐものとして生まれてきた、と言う結論に至ったのではないでしょうか。
10人の子どもを犠牲にして生まれてきたように、自分(=人間)は癒されない哀しみによって支えられている存在であるという自覚、そのこと(多くの犠牲を払ってしか生きていけない存在としての人間)を証明する墓の存在、それらを無言でつなぐ王蟲(=腐海)。
自らが、その王蟲と同じく、生まれ変わろうとしている世界と、そこでは生きられない自分たちの哀しみを引き受けて生きていくのだ、と言う悲壮感とも言えるようなギリギリの肯定ではなかったかと思います。
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素晴らしいご意見ありがとうございました。
そして、この物語をさらに深く理解していくには
≪ナウシカが「青き清浄の地」に対する時の距離のとり方、関係のとり方≫をさらに考える必要があります。
その前に、真相を秘密にし「青き衣の者」として救世主を演じた「欺瞞」はどう理解すべきか?
この問いに答えるためには、1:ナウシカが番人の沈黙に聞き取った答えとは何か
2:いまや人間にとって絶対的に到達不可能な場所となってしまった「青き清浄の地」が、なぜいまだにナウシカの胸を揺さぶってやまないのかを考えねばならない。
■.「決して癒されぬ悲しみ」
マンガ版では「庭」の番人の存在が重要な役割を果たしてるので、その意味するところについて考えてみなければならない。
あくまでも母たるナウシカに忠実に、「立派な人」になろうとする巨神兵は、彼を利用し、本心ではその死を願っている彼女の良心を突き刺す。
そして「庭」の番人はまさにそこを問う。
テレパシーを使いこなせる番人は、幼い頃の優しい母の思い出によってナウシカを籠落しようとするが、
ナウシカは「オーマに名を与えたときからわたしは心を閉ざしています」とはねつける。
「母は十一人の子供を産み 育ったのはわたしだけです 他の子は母の身体にたまった毒を身代わりにひきうけて死んでいきました。あなたが見せてくれた母の心象はわたしの願望を利用した罠です。母はわたしを愛さなかった。でも決して癒されない悲しみがあることを教えてくれました」
しかし番人はさらに踏み込む。 「愛していないのに なぜ あの死神に名を与えたのだ 自分を愛さなかった母への復讐をしたのかね?」
誰にでも好かれ、愛される存在と見えたナウシカ、そして常人の及ばぬほどの愛する能力を持つナウシカの、その「愛」の限界がはっきりとここで明らかにされています。
となれば彼女の土鬼の民衆への「憎しみより友愛を」との呼び掛けも力を失うのか?
しかし、この番人の問い掛けの意味について考えてみなければならない。
番人の誘惑は何のためになされるのか?
「庭」の園丁を増やすためか? ナウシカがこの「庭」に到達したときには、普通の人間はそこにいなかった。
人間の手などなくとも、この「庭」は自己を維持できるだけの性能を持っているらしい。
人を「墓所」から遠ざけ、旧世界の理想主義的人間達の世界浄化の計画を邪魔させないためか?
一般論としてはありうるが、ことナウシカのケースについては不合理な解釈になる。
何となれば、かの計画にとってはナウシカのごとき存在は計画にたいする脅威であるよりは、
むしろ「青き衣の者」として計画の一部をなすものであるはずだから。
番人の罠は計画の邪魔となるものも計画の一部となるものも、
もちろん通りかかっただけの無関係なものも、見境なしに捕らえてしまうのだから、
むしろかの大計画にとってはそれ自体が邪魔者になってしまう。
むしろわれわれは、番人自身の言葉を真に受けるべきでしょう。
:「そなた達人間はあきることなく 同じ道を歩みつづける」
:「みな自分だけは過ちをしないと信じながら 業が業を生み悲しみが悲しみを作る輪から抜け出せない。この庭はすべてをたちきる場所」
間違いなくこれが番人の真摯な本音。
かの大計画のためのタイムカプセルであると同時に、その計画の犠牲となって
苦しむ浄化前のあまたの世代を生きる人間たちに、現在において残されたほんのわずかなサンクチュアリであるこの「庭」を守ること、それこそがこの番人の使命です。
ナウシカと番人の最後の対話を聞くと。
番人「この庭にあるもの以外に 次の世に伝える価値のあるものを 人間は造れなかったのだ……」
ナウシカ「でもシュワの中心には別なものが仕組まれています 生命をあやつり オーマや粘菌を育て大海嘯の呼び水となる技が漏れ出ています。なぜ墓所には伝えるに値しない技が遺され 死の影を吐き出しているのですか?」
番人(沈黙)
ナウシカ「…………… 沈黙もまた答えです お別れです」
間違いなく番人もまた心を持っています。
王蟲と同様に、計画のために造られながら、計画の意味を、そしてその向こう側までもを知る、「決して癒されぬ悲しみ」を抱える存在です。
そしてナウシカはこの沈黙の答えを確かめるために、
「扉をとざしにではなく こじあけてでも真実を見極めるために」シュワの「墓所」へと旅立つ。
しかし、ナウシカのなかで答えは、決断はすでに下されています。
シュワへの途上、護人として彼女を追ってきた「蟲使い」の若者たちに、
「腐海」は世界を浄化しており、いつの日か人間は「青き清浄の地」で暮らせるだろう、
と語った後のナウシカはこうひとりごと。
「セルム 私は嘘をつきました これからもつきつづけます。
人間は汚染にあわせて身体をつくりかえてしまった…。でもそれをみんなに伝えて何になるでしょう。 」
「それに 私の中で何かが激しく叫びます。私が見た風景 あなたが案内してくれた 腐海の尽きる所 世界はよみがえろうとしていました。」
「たとえ私達の肉体がその清浄さに耐えられなくとも、次の瞬間に肺が血を噴き出したとしても、鳥達が渡ってくるように すべてをこの星にたくすべきだと…。
あの黒い墓所はおそらく再建のための核として遺されたのです。私はそれを破壊し闇に帰します」
■.「青き清浄の地」
物語終幕、「墓所」最深部でついにナウシカは「主」と会います。
「墓所」の機能で重要なのは、「清浄な世界が回復した時 汚染に適応した人間をつくりかえる技術」の保存です。
ただ、なぜ「墓所」は「庭」のようにひっそりと隠れたタイムカプセルであることに甘んじず、ピラミッドのごとき偉容をもってその存在を誇示しているのか?
そして、なぜそこから「生命をあやつり オーマや粘菌を育て 大海嘯の呼び水となる技が漏れ出て」いるのか?
なぜ「墓所」は、遠い未来における浄化された世界のためにいく世代にも渡る人びとを、生き物たちを犠牲にするだけでは足りずに、今現在においても「生命をあやつる技をエサに 人間の奉仕を求める」のか?
世界浄化の計画が、徹底的に秘密裡に遂行されずに、
欺瞞、詐術というかたちで中途半端に自己をさらすものである理由は比較的簡単に推測できます。
「腐海」が尽きる「清浄な世界が回復した時」まですべてを秘密にしておいて、
そのときがきて初めて世界中の人間に真実を告知し、「墓所」まできて改造を受けよ、と呼び掛けるよりは、世界は浄化の過程にあるという知識を一応は普及させておいたほうが、清浄な世界への移行に際してのコストは低くすむからです。
浄化の過程が徐々に進行するものであって、ある日突然に起きるものではないことから考えても、人間の側でも浄化の結果を受け入れるために長い時間を掛けての準備がなされたほうがよいことは理解できる。
しかし、「技」をその浄化の準備期間のさなかにも垂れ流す必要があるのか?
あるとすれば、浄化の計画の存在を暗示するだけではなく、それに権威の後光をまとわせ、説得力を増すためにだと思われます。
何らかの意味での現世利益がなければ宗教的権威と言えど確立はできない。
そのため「墓所」は時の権力者たちに扉を開き、彼らの目的に奉仕してきた。
その扉をタブーとして閉じていた神聖皇帝以前の土王でさえ、
結局は「青き衣の者」の信仰を守ることによってその計画に奉仕していた。
つまり恐怖の対象としてタブーとすることさえ、その権威にひれ伏す一つのやり方なのである。
だがそれは物語にたいし、いったい何をもたらしたのか?
「計画では今は再生への道程のはずでした けれど 現実には愚行はやまず虚無と絶望は更に広がっています」
旧世界における人間たちの愚行の連鎖を精算すべく実行された世界浄化の計画は、浄化の過程において結局また愚行の連鎖を生み出すことに荷担している。
おそらくこの「輪」は「清浄な世界が回復した」あともとぎれることなく続いてしまうでしょう。
結局この計画自体が愚行の精算どころか、一つのとてつもない愚行にほかならないというアイロニカルな話です。
ただ、他のあらゆる可能性を否定し摘み取る計画自体も、その意図ぜざる結果として王蟲や番人のような存在、つまり必ずしも予定外とは言えずとも、計画自体のプログラムのうちに回収し切ることのできない別の可能性を生み出してしまうことがあるということです。
5巻に登場する上人(宗教者)についても同様のことが言えます。
上人の偉大さは、自らの信仰と衝突するナウシカを「やさしく猛々しい風」
として祝福することができたこと、単に世界の浄化のみならず、それを超えていくナウシカのような可能性を永く待っていたことにあります。
世界浄化の計画の真相、その欺瞞を見抜いたあともなおナウシカをして
「私の中で何かが激しく叫びます 私が見た風景 あなたが案内してくれた 腐海の尽きる所」と言わしめるものは、それゆえ単なる感傷ではない。
もはや「1000年かもっとたって あなたがもっと広く強くなっていて
私達が亡びずにもう少しかしこくなっていた」
としても人間はけっしてそこには到達できない場所、それどころか
「その時」には人間のほうがそれによって駆逐されてしまうであろう、
絶対的に隔絶された存在となってしまった「青き清浄の地」を、
計画ごと否定されるべきものとしてはナウシカはとらえていない。
ナウシカにとって「青き清浄の地」はいかなる意味においても、
人間にとっての選択肢としての「可能性」でも「彼岸」でもない。
明確に現実の世界のなかに「存在するもの」である。
森の人の力によってであれ、ナウシカが実際にそこに旅した場所である。
そして人間の手の製作物でもある。
ナウシカの裁定(墓所の封印)を経たあとではもはやそれを「理想主義」の目指したものと呼ぶことはできない。それはおよそいかなる理想主義によっても目指しえない。
それを意図して建設することもそこに旅することもできない。
そうではなく、それは人間の意図にかかわらず端的に存在し、向こう側から偶然にやって来て、人間が抱く構想としての理想主義の方を逆に審問に掛ける、言わば「他者」です。
ナウシカがこの「青き清浄の地」にたいする時のこの距離のとり方、関係のとり方をどう理解すべきか?
~ここでナウシカと番人の対話と、そこでナウシカが確認したことを思い出してください~
けっして自分が愛することのできないものたち、けっして自分を愛してくれることのないものたちと、われわれは同じ世界をわけあって生きていかなければならないということ。
そのような、愛の可能性の向こう側にいるものたちにたいして、どのような態度をとるのか?それは「決して癒されぬ悲しみ」の問題。
愛の癒しの手が届くことがないところ、誰もが抱えるであろう
その「悲しみ」にたいしていかなる関係を取り結べるのかという課題。
この問題はむろん「青き清浄の地」にのみかかわるのではないですが。
ナウシカの人並みはずれた愛する能力、さまざまなものをその存在のそれぞれの固有性において肯定する力でさえも審問に付す「青き清浄の地」によって、さらに母の思い出や巨神兵オーマによって、極限的にはあらゆる人、あらゆるものとのかかわりにおいて浮上してくる問題として問われています。
互いに互いの愛の可能性、理解の可能性の外側にいるもの同士が出会ったとき、憎悪と不信の支配するホッブズ的戦争状態はむしろ自然なことです。
ナウシカが民衆に「憎しみよりも友愛を 王蟲の心を」と呼び掛けたとき、
彼女はまさにこの「決して癒されぬ悲しみ」の問題にたいして憎悪と不信以外の道のあることを主張していたのです。
しかし、民衆がそこに聞き取ったのはむしろ救済の福音、無限の愛する力を
持ってすべてを引き受ける救世主、神の到来です。
(※宗教を信仰する者、しない者の多くがここを少し誤解しています。
神は髭を生やした爺さん姿の創造主などではなく、救済の福音でもない。
神(仏)と定義される対象は人の心の中に宿っているものであり、1枚の葉や土にも宿っている。)
そしてそのすれちがいをそのままに「墓所」への旅に出たナウシカは、
「庭」でその道の峻烈なることを思い知らされる。
その結果、彼女は最後の欺瞞、救世主の演技を通す決意をする。
彼女はその道を、あくまで自己の『倫理』としてのみ引き受けた。
この『倫理』の含意を十分に尽くす余裕はここにはないですが。。。
ナウシカの世界においてはっきりしていることだけを記しておくと。
まずそれは世界浄化の計画を拒否することによって、そこにあった人類の生存のためのプログラムをも拒否することになる。
計画が他のすべての可能性を封殺する傲慢な計画であっても、
それを拒否することは人類すべてを近い将来――長くとも数千年のうちに滅ぼすことになってしまうが。
それにたいして彼女は「それはこの星が決めること」と答えることになる。
たとえ人類が滅びても、「鳥達が渡ってくるように」生じるかもしれない他の可能性、たとえそれが人類にとって愛の可能性、理解の可能性の外側にしかありえないものであっても、そうしたものたちのための場所を空けておくしかないと。
かの大計画は自分たちにとってのみ愛すべき人間、愛すべき自然の生存を、他のあらゆる可能性を封殺してでも保障しようとするものであった。
しかし、それは同時に、現実の存在としての人間、自然がまさに今刻々と生み出している可能性をも封殺すること、「すべてを未来へ放り出し 今を無意味にしてしまう」ことでもある。
その一つひとつは「生まれ ひびきあい 消えていく」、「風や音のようなもの」である「私たちの生命」の意味を、種としての人類の生存、あるいは「清浄な世界」のために空虚にしてしまうことである。
それゆえにナウシカは、それが結果的に種としての人類の寿命を縮めることになろうとも、浄化の計画を解体することにしたのです。
しかし、この倫理をナウシカは他の人間たちに強いることはできなかった。
いや、語ることさえも・・。
この倫理は「森の人」の生き方と同様、あるいはそれ以上に達人的な、普遍的に共有されることが困難なものだからです。
それゆえにナウシカは沈黙し、いや嘘をつくことにした。そこで物語は幕を閉じることになります。
彼女が提示したものは、単なる「枠」のなかでのユートピア実験の一例ではない。
実践的にはそれは「腐海」のほとりでの業苦の生といういたって散文的な「政策」であり、同時に象徴的には「青き清浄の地」という彼岸的ユートピアの欺瞞です。
しかし、この欺瞞の裏側にある、さしあたりは彼女一人の個人的倫理として引き受けられた「青き清浄の地」の真実は、ユートピア主義的な「枠」などよりもいっそう高次です。
それは「枠」のような抽象性をもたず、あくまでも具体的な実在でありながら、
けっして人間にとって到達可能な選択肢ではありえない。
にもかかわらず、
それはその存在自体をもって、人間のなしうることを審問に付す、
少なくともナウシカ個人は、自らの生をそれとの関係で審問に付し続けることを選んだのです。
彼女がこの真実を欺瞞をもって覆い隠したのは、
「青き清浄の地」の審問に大多数の人間は耐えられないとの実践的判断ゆえです。
「青き清浄の地」は人間一人ひとりを断罪しはしない。
しかし、総体としての、種としての人類には死刑宣告を下している。
この種としての人類への死刑宣告は、
逆説的にも、「生まれ ひびきあい 消えていく」一人ひとりの人間にとっては解放を意味するものにほかならないのだが、なおほとんどの人間はナウシカや「森の人」とは異なり、種としての人類への自己同一化なくしては正気を保つことができないであろうと。
ただ、セルムと違いナウシカは、達観した一方で、葛藤は残り続けます。
なぜセルムのように達観しきれないのか!?
第6巻96pを見ればわかります。
「私と一緒に森へ来てくれませんか」と誘うセルムに対する彼女の返答。
「でもあなたは生命の流れの中に身をおいておられます 私はひとつひとつの生命とかかわってしまう…」からです。
結局ナウシカはその倫理について語ることはなくとも、その生き方においてそれを否応なく示していくでしょう。
彼女は救世主ではなく、それ以下でありかつそれ以上の存在であるのです。
※後記
解釈のポイントは、作者が昔インタビューで言っていたように、
「人が汚した水俣湾に魚が戻った」ということに対する驚きと感動なのではないでしょうか。
「青き清浄の地」の審問は、決して他人事ではない。
地球,太陽,宇宙は生きている以上、いずれ無に帰して人類は存在し続けることはできない。
ただナウシカを読むと、それは絶望とは限らないことがわかります。
宇宙・星々も含めて生命は今も「生まれ、ひびきあい、消えて」循環し、別な可能性を生み続けているからです。そこに畏怖と感動があります。
そんなことはなく、普遍的なテーマについて語っていると思いますが。
いつかすべてアニメーション化してほしいです。多分、宮崎さん以外の手で実現すると見ています。
難解な『ナウシカ解読』をここまでまとめてらっしゃるので参考になりますが、これらをご自身の意見のように書かれているのは気になります。
こねくり回して敢えて難解に論じる必要は全くない
人間の業を煮詰めて干したような16の少女をロリコンおじいさん(パヤオ)に好き勝手嬲られててキャラが可哀想でした
クシャナ、クロトワ、ユパ等粒ぞろいの役者だけが救い
この文章、かなりの部分は稲葉振一郎著『ナウシカ解読』のコピーですよね。
内容だけでなく言語表現まで一致する部分が多々あります。
稲葉氏本人が書いているようには読めないし、さりとて彼の著作物を引用するでもなし、厳しいことを言うけれど、これでは盗作と言われかねないのでは?
おはつです。
また遊びにきてくださいね。
>>きっけんさん
テーマがテーマだけに思ったより盛り上がりませんでしたね(笑)
またのお来しをお待ちしとります。
>>スガさん
いや…別に正解はないと思います。
ただ宮崎駿なら…こう考えてるのかなと。
物語の感想をあまり書きませんでしたが、普通に旅の物語としても面白いですし。
「ガンダム」や「エヴァ」のような自己のアイデンティティ確立のための戦い=「外部」も「他者」も見失った肥大化した自我の末路を示すような話じゃなく(笑)
エヴァやガンダムは帰るところも行き場も失った子供が自我のうちへと引き籠もり、世界から疎外されたという被害者面をしつつ逆に世界の方を疎外していくのにたいして、マンガ『ナウシカ』の主人公達ってそのような意味での自我などもたず(表現されていない)に「今」を生きてるから好きなんすよ。
ずっとわからなかったことがやっとわかりました。
今日までこう考えてきました。
墓の体液と王蟲のそれが同じという事実は、
墓所がナウシカにとって否定されるものならば
王蟲も同様に否定されるものになることを意味する。
つまり「もしかして王蟲って崇高なものじゃないのか?」
という不安の表情だと思ってました。
あなたの文章を読んで、
自分の解釈がもっとも作者の本意とかけ離れた解釈だったとわかりました。
自分が愛する哀しみを宮崎さんほど深く理解できていなかったのが原因だと思います。
勉強になりました。
切り口は「王蟲の体液と墓のそれとが同じだった」でなくても良いような・・・でも内容には唸ってしまったような・・・。
読むたび、いろんなことを考えるのは確かです。