女として大阪で暮らす2

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世界的作家、カズオ・イシグロ

2016-01-26 10:35:52 | 日記
世界的作家、カズオ・イシグロが英国大使館で記者会見


悲しい運命を背負った3人の若者の青春を描いた『わたしを離さないで』は、イギリスの­権威ある文学賞、ブッカー賞を受賞したカズオ・イシグロの同名小説を映画化した作品。­その公開を前にイシグロが10年ぶりの来日を果たし、1月24日にイギリス大使館で記­者会見を行った。

カズオ、イシグロ(わたしを、離さないで。作者)

2016-01-26 10:25:14 | 日記

わたしを離さないで
カズオ・イシグロ
2011年6月


イギリス人カズオ・イシグロの話題作「わたしを離さないで」を読んだ。

かれはNHKBSの番組で突然目の前に現れた、それまではベールの向こう側に隠れていて。

名前からしてもちろん日本人・・・作品の奥には日本が潜んでいると、感じないわけにはいかない。



昭和29年長崎にて誕生

***

かれは多くの作品を書かない。5年に一冊というペース、時間をかけてテーマについて熟慮し大事につむぎ出しす。

1989年発表のイシグロの三作目「日の名残り(The Remains of the Day)」が英国最大の文学賞であるブッカー賞を受賞して、カズオ・イシグロは一躍世界に知られる作家となった。

英国の評論家は言う。「この作品の魅力的な要素は、そこに想像上の英国が作り上げられている点だ。架空の英国は真の姿を現し解体される。裏に潜む陰の部分をあらわにさせていく。だから重要な小説なのだ」と。

この作品を世に出す前にイシグロは国籍をイギリスに変えている。重要な決断だった。

かれの心には常に日本の残照がある。

「もはや日本で暮らすことはできません。日本語を話せないし、慣習もわからないのですから。自分自身に日本人になれるかと問いかけて、無理だと気づきました。日本に来るとよく知っている場所のように思えます。しかし、あらゆる意味で滞在が最も難しい国でもあります。日本語が話せない。理解できそうで理解できない。感傷的には日本人であり続けたいと感じていたし、イギリス人になることは裏切りなのかもしれません。しかし、英国教育だけで育ったわたしは後戻りできなかったのです」。

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<カズオ・イシグロとは?>

イシグロは5歳のとき、父の仕事の都合で長崎からイギリスに渡った。

移り住んだのはロンドン郊外の住宅地、家族は1、2年で日本に帰るつもりだった。



かれはイギリス人の子どもたちと同時に学校に入学した。家のなかでは日本の子、外ではイギリスの子という特異な育ち方をした。黒い髪に黒い瞳という、外見の違うこの少年は憎まれるか好まれるかのどちらか、どうせなら好まれるほうがよい。そしてそのテクニックをさぐって生きるるようになる。

父親は生涯を、海洋学の研究にささげた。

かれも科学者としての父の影響を受けた。また熱心な音楽家でもあった。かれは朝、父親の弾くピアノで起こされたと語る。

「世間は科学者と音楽家とを分けて考えたがるが、多くの科学者には発達した音楽感覚がある。双方には何らかの関連性がある」と彼は信じている。

***

「父からは、少し離れたところから人生を見詰める方法を学んだ。なじみのあるものでも、ちょっと離れて見てみようと、別の惑星から来たかのように冷めた眼差しで見てみようと」。

「小説家のやるべきことは人間の感じ方について、この世界で生きる人間の感情面について思いをめぐらせることだと感じている。それはまさに科学者が克明に描きわたしに教えてくれたものだ。芸術で仕事をするわたしの任務は、人間に内在する感情を伝えることです」。

「小説を書くとき私は読者に問いかける。これはあなた自身の感情でもあるのでは?と。人間誰しも感じる普遍的な感情ではないかと」。


けっきょくイシグロの家族は日本にもどらなかった。

イシグロは英国の大学で英文学を学ぶ。

「大きな野望は、ボブ・ディランのようなシンガーソングライターになることだった。興味の対象は日本ではなくアメリカにあった」

大学院を出た後のイシグロはさまざまな職に就いた。その経験が小説にいきる。
 ホームレスのケアもした。

「深刻な問題をかかえる人がいた。統合失調症や薬物依存症、アルコール依存症や、暴力も頻繁に見受けられた。わずかな間にわたしはかれらから多くのことを学んだ。もしその仕事をしていなかったら、わたしはおそらく同じ中産階級の人々としか出会えなかった。わたしは追い詰められた人間に対しある種の敬意を持つようになった。すべてを失ったときいかに自分を鼓舞するか、いかに尊厳を保つのか、その手段を学んだ」。

(これは「わたしを離さないで)主人公のキャシーだ!)

「小説を書くようになったとき、これらの経験はすべて役に立った」。

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イシグロが小説を書くことになったきっかけは故郷の記憶と関係する。

「20代半ばのころに日本に強い関心を抱いた5年ほどの時期があった。特に自分の内なる日本の記憶に強い関心があった。幼少期に、永住すると思わず渡英したので、帰るべき場所日本はきわめて重要だった。もうひとつの場所JAPANをいつも考えていた。時間とともに、わたしの日本という私的な世界を創り上げていた」。



1982年の著作「遠い山なみの光」。

イギリスに暮らす主人公が自身の過去をふりかえる。回想するのは故郷長崎の人々が織りなす日常と光景、それはまさにイシグロ自身の記憶と風景である。

港と造船所の音、復興の槌音、ケーブルカーのすれ違う光景・・・。

「記憶というのは確かに当てにならないものだ。思い出すときの事情次第でひどく彩りの違うものになってしまうことは幾らでもある。わたしが語ってきた思い出のなかにもこういうものが混じっていることは疑いない」。

人は誰も同じだろうが、幼いころの記憶がときどきぱっと甦ることがある。夢の中でもそんなことがある。

長崎は被爆から立ち上がろうとするハンマーの音と復興へのブルドーザーの音だろうが、私の場合はいつも、映像としての鉄条網と稲藁があった・・・。


「わたしを離さないで(Never Let Me Go)」はイシグロの6作目である。

主人公のキャシー、トミー、ルースという三人によって物語は進行する。
 そこは過去の世界。重いテーマがベースにあって、現実と非現実の境がはっきりとしないグレートーンの幻想世界が進行してゆく。

三人による“心理劇”は大きな課題を読者に突きつけた。

***



少しだけ、中身の解説・・・

 クローンとして生まれたキャシーは物語後半で寄宿学校「ヘールシャム」のことを回想する。

キャシーたちはコテージと呼ばれる施設に移る。そこで臓器提供の日を待つ。外出を許されるようになったかれらは外の世界に足を踏み出すようになる。

<わたしたちはそれぞれに、あるとき普通の人間から複製された存在です。ですから外の世界のどこかに複製元といえる親がいて、それぞれの人生を生きているはずです。とすればその親と偶然出会うことも理論的にはあり得るでしょう。外の世界に出かけるとき、わたしたちは道でもショッピングセンターでも、サービスエリアでも、自分のあるいは友達の親に出くわさないか、いつも目を凝らしていました。>

けっきょくキャシーやルースたちは自分の親を探し出すことはできなかった。

ルースに“自身の存在”について言わしめることばはきつい。
 「わたしたちの親はクズなのよ、薬中にアル中に浮浪者、それに犯罪者だっているかもしれない。精神異常者が外されるのが救いかしら。それが、わたしたちの親よ、本当に捜したかったら、どぶの中でも覗かなきゃあ、それか、ゴミ箱とか下水道ね。わたしたちの親はそこにいるんだから」

キャシーは、気持ちの離れたルースとトミーをのこしてコテージを去ろうと決心した。
 そして医療施設の介護人となり、自分と同じ運命を持つ提供者の最期を看取るようになる。

離れ離れになった3人があるとき再会し、幼少時からの憧れだったイギリス南東部ノースフォークに向かう。

そこで3人は和解し、臓器提供の猶予の可能性についてまじめに話し合う。

しばらくして、ルースは提供したあと亡くなり、キャシーとトミーは愛を確かめ合い、最後の困難の打破に立ち向かう・・・。

結論についてはご自身で読まれるのがいいでしょう。



***

イシグロはいう。

「人生は短いから尊い、とだけいいたかったわけではない。人間にとって何が大切かを問いかけたかった。人間とは何か、クローンは人間なのかと考え始めたからだ。人生の短さを感じたとき、われわれは何を大切に思うだろうか。この作品は悲しい設定にもかかわらず、人間性に対する楽観的な見方をしている。人生が短いと悟ったとき、カネや権力や出世はたちまち重要性を失ってゆくだろう。人生の時間が限られていると実感したときこのことが重要になってくる。この作品は人間性に対し肯定的な見方をしている。人間が利益や権力だけに飢えた動物ではないことを提示している。赦し、友情、愛情といった要素こそが人間を人間たらしめる上で重要なものなのだ」

人間のレゾンデートル(存在意義)を突き詰めていく日本人イシグロは納得できる!

☆金曜日の夜が楽しみで、毎回みています。

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