平良から狩俣にむけて230号線を車で走ると
「四島の主の墓」という案内板が見える。
道路脇の細い道を進んで行くと石積みの大きなお墓がある。
この墓は、島尻、大神、狩俣、池間の4集落(四島)を
見渡せる小高い場所にある。
宮古島の方言で集落のことを「島(スマ)」といい、
四島の主とは、「四つの集落の主長」
という意味合いを持つ。
四島の主は、農耕を奨励し、平良を往来する街道の
整備と道沿いに井戸や休息所を設置するなど、
住民の生活をより良くするために尽力したと
伝えられている。
狩俣集落から平良まで3キロごとに井戸を掘ったそうだ。
四島の主の生没年は不詳で、この墓は近年まで
主の子孫によって代々受け継がれてきたという。
古い文献「宮古史伝」(1927年)
「宮古島庶民史」(1957年)などの歴史書にも
四島の主の生没年は不詳となっている。
古謡の「四島の主のアヤゴ」
(古くから唄つがれてきた民謡)に仲宗根豊見親が
登場することから、おそらく15世紀末〜16世紀はじめ頃の
人物ではないかと考えられている。
幼い頃から頭がよく、文筆才能にすぐれていたとされている。
集落には、四島の主のものだとされている墓が4つある。
その昔、偉人の骨は盗られやすかったため、
カモフラージュとしていくつも
造ったのではないかと考えられている。
狩俣集落の知り合いの家には代々受け継がれてきた
刀を家宝にしている。
この時代に刀を作る技術はなかった。
かって臆測であるが平家か源の落人ではないかと思っている。