香具姫(小山田信茂の娘)は武田家に人質に出されていた姫です。
織田軍の攻撃に、武田勝頼が小山田を頼って行ったのにも関わらず、受け入れず、その結果、勝頼が天目山で自刃。武田家の滅亡につながりますが、この行為は味方の筈の織田信長の逆鱗に触れ、裏切り者として首をはねられています。
松姫さんは人質とはいえこの姫を哀れんで、変わりなく行動を共にしたようです。この姫も貞姫と同様に、家康の命により何方かが養育をされたのでは?・・・・年月日は分かりませんが、この香具姫は 磐城平藩2代藩主・内藤忠興に側室として嫁いでいます。
忠興には当然正室がおりますが、男子に恵まれませんでしたが、香具姫は2男1女を生み、後継者・内藤頼長(義泰)を生んだのは彼女です。長男・頼長は1619年生まれ。香具姫41歳の時のお子さんで、ご主人忠興さんは28歳。13歳上の年上女房ですね。
その後も出産していますから、高齢出産なんのその体も丈夫なのですね。
因みに 頼長(義泰)は天和2年(1682)4月1日 朝鮮通信使饗応役を仰せつかり、履歴の中に生母・小山田氏と記してあるそうです。
父の裏切りにより、人質として当然無いはずの命を救われ、側室でありながら大事な後継者を生む事が出来、内藤家でも大事にされた事でしょう。強運をお持ちの方なのですね。
寛文13年(1673)8月6日95歳で生涯を閉じられたそうです。大変な長生きです。
でも、何歳で内藤家に嫁いだのか、その以前は何処にいらしたのか興味が湧きます。
織田軍の攻撃に、武田勝頼が小山田を頼って行ったのにも関わらず、受け入れず、その結果、勝頼が天目山で自刃。武田家の滅亡につながりますが、この行為は味方の筈の織田信長の逆鱗に触れ、裏切り者として首をはねられています。
松姫さんは人質とはいえこの姫を哀れんで、変わりなく行動を共にしたようです。この姫も貞姫と同様に、家康の命により何方かが養育をされたのでは?・・・・年月日は分かりませんが、この香具姫は 磐城平藩2代藩主・内藤忠興に側室として嫁いでいます。
忠興には当然正室がおりますが、男子に恵まれませんでしたが、香具姫は2男1女を生み、後継者・内藤頼長(義泰)を生んだのは彼女です。長男・頼長は1619年生まれ。香具姫41歳の時のお子さんで、ご主人忠興さんは28歳。13歳上の年上女房ですね。
その後も出産していますから、高齢出産なんのその体も丈夫なのですね。
因みに 頼長(義泰)は天和2年(1682)4月1日 朝鮮通信使饗応役を仰せつかり、履歴の中に生母・小山田氏と記してあるそうです。
父の裏切りにより、人質として当然無いはずの命を救われ、側室でありながら大事な後継者を生む事が出来、内藤家でも大事にされた事でしょう。強運をお持ちの方なのですね。
寛文13年(1673)8月6日95歳で生涯を閉じられたそうです。大変な長生きです。
でも、何歳で内藤家に嫁いだのか、その以前は何処にいらしたのか興味が湧きます。
こうちゃんは、そう思いません。逃げたのではなく、当時の官道である、御坂路から大月に向かい大月で落ち合う相談をしていたのではないのかと考えます。
逃げたのではなく、二手に分かれて大月に向かっていたのではないかと思います。いかがでしょうか。
従って、笹子峠を封鎖することができたでしょうか。もし笹子峠を封鎖したとしたなら、信茂公は、旧道から来る勝頼公一行と大月に集合していた勝頼公配下の方々との挟み撃ちになってしまうはずです。
従って、甲陽軍監の作者の記述は、ここの部分で整合性がないと私は考えております。
その上で、笹子峠は封鎖されていないので、松姫様達と大月で待っていたであろう人たちと一緒になって、武蔵国へ行ったり、相模国へ行ったりした方々が、多数いたのではないかと考えております。ご意見いただけますとありがたいです。