哲学日記

映画『彌勒 MIROKU』

 

の文学世界の映画化。

 前半は終始耐え難いほどの異様な違和感が支配する映画だ。
タルホ級の高貴な男性にしか言えないセリフを、なぜか女性が言うので、「言わされてる感」が凄まじい。女の大多数はこういう男を理解せずバカにして残酷に扱う存在だから。

 


 誰もがおもうことだが、タルホ作品の映像化は無理っぽい。難解で辛気臭い内容を予感して気乗りせず、それでも一種の義務感に近い気持ちで観た。

 

 映画は2部構成になっている。

 (1部)
 タルホは十代で『一千一秒物語』を書き、以後の自分の全作品はこの注釈に過ぎないと宣言した。その『一千一秒物語』

この記事を書いていたら偶然にも、テレビで子供が
「お月様を食べたい」
「なんで?」
「おせんべいみたいだから」
と言っている。

『一千一秒物語』はそういうことを、おもいきりいっぱいやっちゃう話だ。

昨夜 メトロポリタンの前で電車から跳び下りたはずみに 自分を落としてしまった」とか書いてある。しかも自分はお月様だったりもする。



 (2部)あれから十数年後…
 精根尽き果てかけたタルホが銭湯に入ったものの、体を洗う力もなく、ただ手拭いを静かに身体に当てている。そのタルホの脳裏に突然脈絡なく「saint(修行者,聖者)」という言葉が浮かぶ場面と名言。
ショーペンハウアー哲学との浅からぬ関係。
そういえばショーペンハウアーも「意志と表象としての世界」の偉大な思想を二十代で自分のものにし、以後の自分の全作品はこの注釈に過ぎないと云ってたな。

その他色々。

愛読した原作の数々の名言を聴いて、数十年ぶりに『弥勒』も拾い読みし、おもいを新たにした。

自殺者は意欲を断ちかねて現象のみを殺すもの、生きようとする意志を置いて、現実の生存のみを破棄するものだ(『弥勒』)

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(My Favorite Songs)   
 
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