哲学日記

永井荷風「断腸亭日乗」

朝。

干し白菜とチーズと卵の具でホットサンド。

最近、毎朝飲むプロテイン+はちみつ

 

 

 

 

昼。

昨日の記事で、大型商業施設の休憩スペースが消滅してた話を書いたが、まだあと一ヵ所利用できる施設が残ってる。遠からずこれも消えると予想してるが。

ここは家から徒歩6分の最寄駅から1時間に1本出てる無料送迎バスに乗って行く。今日は1110発に乗り1135到着。2F定位置のソファーに座り自家製弁当をゆっくり食べながら朗読を聞く。

昨日から永井荷風「断腸亭日乗」を聴いてる。

朗読を楽しむ 永井荷風「摘録 断腸亭日乗」昭和11年


www.youtube.com

 

実は昨日何気なく聞いた「断腸亭日乗」の最初が、昭和34年分だった。4月29日で終わってる。次の日に急死したからだ。気になってググってみた。永井荷風は昭和の激動期を通して、この日記を死ぬ前日まで42年書き続けてる。尋常の決意で成せることはないとおもう。とりあえず、YouTubeにある限りの「断腸亭日乗」を全部聴くつもりだ。

 

おれの最も好きな文学者である坂口安吾は、
通俗作家 荷風
―『問はず語り』を中心として―

で、荷風を激烈な言葉で痛罵してる。

荷風といふ人は、凡そ文学者たるの内省をもたぬ人で、江戸前のたゞのいなせな老爺と同じく極めて幼稚に我のみ高しと信じわが趣味に非ざるものを低しと見る甚だ厭味な通人だ。……

 荷風においては懐古趣味の態度自体が反文学的であり、彼には新しき真実などは問題ではなく、失はれたる過去をなつかしむといふだけの、そして新しきものが過去に似ないことによつて良くないといふだけの、最も通俗安直な懐古家にすぎないのである。
 荷風の人物は男は女好きであり女は男好きであり、これは当然の話であるが、然し妖しい思ひや優しい心になつてふと関係を結ぶかと思ふと、忽ち風景に逃避して、心を風景に托し、嗟嘆したり、大悟したり、諦観したり荷風の心の「深度」は常にたゞそれだけだ。
 男と女とのこの宿命のつながり、肉慾と魂の宿命、つながり、葛藤は、かく安直に風景に通じ風景に結び得るものではない。荷風はその風景の安直さ、空虚なセンチメンタリズムにはいさゝかの内容もなくたゞ日本千年の歴史的常識的な惰性的風景観に身をまかせ、人の子たる自らの真実の魂を見究めようとするやうな悲しい願ひはもたないのだ。
 風景も人間も同じやうにたゞ眺めてゐる荷風であり、風景は恋をせず、人間は恋をするだけの違ひであり、人間の眺めに疲れたときに風景の眺めに心をやすめる荷風であつた。情緒と道楽と諦観があるのみで、真実人間の苦悩の魂は影もない。たゞ通俗な戯作の筆と踊る好色な人形と尤もらしい風景とが模様を織つてゐるだけである。

(以上引用終)

 

安吾は、人生を傍観者としてながめ味わう態度、いわゆる低徊趣味を憎悪してる。

だからこれとほぼ同じ論旨で、余裕派ともいわれる夏目漱石、森鴎外、志賀直哉等そうそうたる大文豪も、ただの文章家に過ぎないとこき下ろしてる。

 

安吾の深度のある見識は、日本文学の中で特別に優れてると、おれはおもう。

名作堕落論」「続堕落論は、今でもおれのバイブルだ。

 

それに比べれば、荷風の見識の深度は確かに少し浅いとおもう。

しかし(おそらく意識的な)浅さゆえに、荷風には常に圧倒的に安定した余裕があり、

その余裕が、流れるような文章で墨東綺譚のような見事な物語を作り出す。

「断腸亭日乗」は「墨東綺譚」の成立過程を著者自身が示す貴重な資料としての価値もある。

辻潤を餓死させ、大杉栄を絞殺し、幸徳秋水を処刑し、三木清を獄死させた昭和のトチ狂った暗黒社会に対して、荷風は死を賭してぶつかる勇気がない以上、自分は戯作者として生きるしかないと覚悟したのだ。まことに無理からぬ冷静な判断だ。ちなみに、荷風を尊敬してた谷崎潤一郎も(彼の作風によってより自然に)当時同様の選択をしたとおもう。両者とも、生涯異様なほど公の政治的言動が少ないのは、当然なのだ。

だから、安吾のほぼ全否定批評は酷で、これはこれで十分アリだとおもう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)

The Knightingales - Boogie Woogie Bugle Boy


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