希望へのとりくみ

平和は待っていてもやってきません、まず自分の心を平和にするためのとりくみから。それに成功したら皆に伝えてください。

「本当の脅威は核テロだ」 

2005年08月01日 06時38分31秒 | Weblog
岡本三夫さんから翻訳の紹介です。


   「本当の脅威は核テロだ」 

ディートリヒ・フィッシャー(欧州平和大学教務部長・トランセンド共同代表)
               
  ロンドンで2005年7月7日に爆発した4個の爆弾は計り知れない苦悩と悲嘆をもたらした。全世界がほとんど例外なしにこの犯罪を断罪したのは当然だった。暴力はどんな問題も解決せず、問題を悪化させるだけだ。しかし、今回の悲劇は、もし世界が現在のまま進むならば、将来、もっと恐ろしい破局的事件が起こるだろうことの前触れでしかない。

 大国が自国の安全保障には必要だとして核兵器保有にこだわる限り、他の国々やテロリスト集団が核兵器を取得すること。そして、何時の日かそれを使用することを妨げることはできない。

 広島に投下された原爆は20万人以上の人びとを殺害した。現在の核爆弾は比較にらないほどすさまじい破壊力を持っている。もし、駐車中の車なり、テームズ河に浮かぶボート上なりでただ1発の核兵器が爆発しただけでも、ロンドン市街は火煙と放射能の瓦礫に覆われ、百万人以上の人びとが即死し、その何倍もの人びとが放射能病によってゆっくりと死んでいくだろう。

 「核兵器は私たちには善だが、君たちには悪だ」というダブルスタンダード(二重基準)は馬鹿げており、説得性がない。核兵器技術が永遠に秘密裏に保たれると信じるのは浅はかだ。いまなお「核抑止論」というおとぎ話を信じている人たちは、自殺爆弾時代の到来に目覚めるがよい。爆死したら天国へ直行できると確信している人間を恐怖の報復という脅しによって「抑止」することはできない。

 イラクとアフガニスタンに何トンもの爆弾の雨を降らせることを命じている国々
は、その熱心な模倣者たちの心に模倣の種を蒔いているのだとしても驚くべきではあるまい。かつて、オサマ・ビン・ラディンはCIAが資金調達する援助と訓練の恩恵に浴していたのだ。長年、プリンストン大学の国際法教授をしているリチャード・フォークはいみじくも指摘している。「最も極端なユートピアンは自分たちを〈リアリスト〉を自認している人たちだ。なぜなら、彼らは通常の政治でもって核時代を生き延びることができると誤信しているからである。変更の必要を認める人びとこそ真のリアリストなのだ」、と。



 では、もし、人類が生き延びることを望むならばどのような変更をしなければならないのだろうか。
 
(1)私たちは、攻撃的軍事力の行使によって諸問題が解決されるという信念を捨
てなければならない。攻撃的軍事力の行使は他者が同じ方法で報復してくることを煽るだけだ。
  犯罪を阻止するための警察行動と外敵に対する防衛は正当化されるが、外国における軍事介入は、大量虐殺や巨大人災の防止のために国連安全保障理事会が命じた平和維持活動以外には、正当化できない。

 核不拡散条約に署名してから37年が経過しており、核兵器国が核軍縮への約束を果たすべき時が来ている。
  
  私たちは、また、すべての核兵器廃絶が検証可能であり、新しい核兵器製造が覆い隠せないもっとオープンな世界を必要としている。現在、国際原子力機関(IAEA)は、締約国の意思によって査察が認められた施設しか査察できない。

 もし、兵器密輸業者が国境の監視員に、「座席の下はチェックしても、トランクは開けないでくれ」と言ったならば、そのようなチェックは無意味である。IAEAは不審な核施設は、世界のどこであろうと、事前通告なしに、査察できる権限を持たなければならない。そうでなければ、核兵器の拡散を阻止することは不可能だ。


 現在核兵器を保有している国々はそのような立ち入った査察を「主権侵害」だとして反対している。だが、一連の深刻なハイジャック事件の後に銃砲や爆発物の有無が検査されるようになったとき、多くの旅行客は最初それに反対だったが、こんにち、旅行客は自分自身の安全のために検査が必要なことを理解している。隠す物がない者は恐れる必要もない。遅かれ早かれ、諸国は同じ結論に達するだろう。問題は、そうなるのは、テロリストによる最初の核爆弾の爆発の前か後かということだ。
 
 (そうだ!隗よりはじめよ! まずはアメリカの査察からですか!それですべてを明らかにしてしまうと・・・いったい、この大量の核兵器はどうしたらいいものなのでしょうか?!? 考えるだに恐ろしくなりますね。アメリカは世界にとって大変な厄介者です!世界は、それを自ら恥じるアメリカ人を支援しなくてはなりません。それには、まず自国を問うことがされるべきでしょう。:池邊)


 (2)必要なのはテロの根本原因にメスを入れることである。長期化する未解決の血みどろの紛争がそれだ。

  特に非対称的な力関係の状況においては、力の弱い側が力の強い敵側の攻撃しやすい標的を狙って無差別の攻撃をする誘惑にかられやすく、1970年代におけるイタリアの「赤い旅団」、西ドイツの「赤軍」、イギリスの「アイルランド共和国軍」がそうだった。

 最近では、「タミールの虎」が軍事的にはより強力なスリランカ政府軍を相手に公共の場で爆弾テロを起こしている。
 こんにち、イラクでは自動車爆弾が毎日のように炸裂している。もちろん、車やバックパックで運搬される爆弾の代わりに、空から落とされる爆弾による市民の殺害は、ある種の「国家テロ」の典型であり、これが市民の暴力的な抵抗を刺激し、それがまたテロリスト捜索の強化の正当化に繋がるという悪循環を生んでいる。

 フランクリン・ルーズベルト米大統領とサウジアラビアのイブン・サウド王が米艦「クインシー号」船上で1945年2月14日に会談し、米国がサウジアラビアにお ける石油利権の保証と引き換えに、内乱に対してサウジ王室を保護する約束をしたことは、なにゆえ、2001年9月11日のニューヨークとワシントンにおける自爆者19人中15人がサウジアラビア人だったかを部分的には物語っている。
 
  抑圧的、独裁的政権への武器輸出は、その結果に苦悩している人びとの間に不満を呼び起こす。(日本への武器輸出とMD開発の資金強奪も同様・・:池邊)
 中近東の紛争は、パレスティナ人が難民キャンプで何世代にもわたって生活し、高い失業率に苦悩している地域で起きており、自爆者を生み出す契機となっている。
 もっと広いレベルでは、日々10万人の人びと、特に子どもたちが飢餓と、予防できるはずの病気によって不必要に死んでいるのに、他方では豊かな国々における途方もない贅沢と浪費を許している世界経済が不満の種になっている。
 
 米国が第二次世界大戦終結以来、67回も外国での軍事介入を実行し、これらの軍事介入のために推定1,200万人もの人びとが死んだ(ベトナムだけでも300万人が死んでいる)という事実は、世界の多くの地域で悪評の的となっている。
  
  テロはテロリストを殺してもなくならない。テロリストを殺せば彼らの支持者たちの怒りを買い、彼らの報復を促すことになるだけである。



 (3)苦しみと不正義が人びとを命がけで復讐に走らせているのだから、その原因を取り除く必要がある。

  先進諸国は正義のために闘っている人びととの話し合いに乗り出さなければならない。それは、罪のない市民に対する無差別な暴力を含む暴力行使への動機を除去するためだ。

 北アイルランドにおける暴力が終結したのは、抵抗勢力の苦しみの声を沈黙させるのにひたすら軍事力に依存する代わりに、英国政府が話し合いに応じたときだった。

 また、紛争が暴力にエスカレートする前に紛争を平和裏に転換することが重要だ。これは教授と学習が可能な技術である。たとえば、平和研究分野の創設者として広く知られているヨハン・ガルトゥングは、エクアドルとペルー間で4回も戦争になった 長年にわたる国境紛争の終結に一役買っている。ガルトゥングは紛争地帯を両国の共同管理の下における「両国自然公園区域」にすることを提案し、これが功を奏した。
 
  この平和的介入は軍事的平和維持活動に比べコストはほとんどゼロに近かった。私たちが必要としているのは、

  紛争が暴力にエスカレートするのを防止するのに有効な訓練を受けた数百人の仲裁員からなる国連仲裁機関だ。これは、何百万人もの軍隊を武装し、全体として世界をますます危険にしているだけの、毎年世界が費やしている何兆億ドルかに比べるならば、人類生き残りのためには極めてローコストの価値ある投資だ。 
 
 
 もし私たちが、時代遅れの思考法―他者に脅威を与えることが自分たちを安全にする-ということにこだわるならば、私たちは人類として死滅に直面するだろう。ちょうど、新しい状況に適応できなくなった他の動物種が死滅したように。

  
  すべての核兵器をなくすことは現実的な見通しだろうか。もちろん、核兵器が意図的にせよ偶発的にせよ実際に使用されることを待っているよりは遥かに現実的だ。核兵器が発明されなかった状態に戻ることはできないのだから文明が続く限り私たちは核兵器と共存せざるを得ないのだと言う人たちがいる。
 
  しかし、人食いの風習が発明されなかった状態に戻した人はおらず、ただ私たちはそれを忌み嫌うことを学習したに過ぎない。

 同じように、核兵器による都市全体の焼尽を忌み嫌うことを、私たちは学習できないのだろうか。