良心の詩(うた) 田螺の呟き
人はみな 心の生きもの 心の僕(しもべ)
来た道 行(ゆ)く道 心の旅路
荒野(こうや)も牧場(まきば)も 花園も
瓦礫(がれき)も骸(むくろ)も 絶望も
心のままに 踏んだ道
強く雄々(おお)しく優しき人は
良心 花咲く 平和の道へ
みんなの心を 励まし歩む
人はみな 心の生きもの 心の僕(しもべ)
幸せ 不幸も 心の旅路
天使(あなた)の心の 眼差しは
みんなの心に ささやいた
子らにも上げよう 真心(まごころ)を
強く雄々しく優しき人は
良心 花咲く 明日(あした)の園へ
子供の心を 誘(いざな)い進む
人はみな 心の生きもの 心の僕(しもべ)
安心 不安も 心の旅路
自分の心の 戸惑いに
他人(ひと)の心を 借りてみる
どうして陰(かげ)るか 見えるから
強く雄々しく優しき人は
良心 花咲く 倫理(りんり)の邦(くに)へ
触れ合う心を 抱(いだ)いて向う
> あるときの住民は、
> 「良心とは自分の中に住んでいる他人ではあんめえか」
> といってきだみのるを驚嘆させる。
> 出典:「きだみのる、- 放浪のエピキュリアン - 、p155」、新藤謙著、リブロポート刊
あの世で「心と化した人々」を幸せにするのが宗教であるなら、この世で「心ある人々」に幸せをもたらす世を造り出すのが政治であろう。
あの世での「心」はと問われても、あの世を知らぬ身には答えようがない(精神的生命と答えたいのだが、それでよいものかどうかわからないから)。
この世での「心」はと問われれば、「良心」の一言をもって答える。政治は「個々の人々が持つ良心によってもたらされた幸せ」が、その境遇によって壊されることがないよう、積極的に保障することを主要な責務とする、と考える。
それでは政治とは、それを為す特定の者に任されているものかといえば、そうではない。社会の成員すべてが係わるものである。この係わりがあるゆえに、なん人の人権も保障されるのである。
この社会においては、なん人も政治に(意識するかしないかの違いはあるが)係わるのである。であるから、個々人それぞれが政治理念を持つことは当然である。その理念を「良心」とする党派を「良心党」と呼び、それに加わるべしというのが、この呼びかけである。
人が人として生きる時、「良心」を貫き通せれば、人生悔いる所がなかろう。先ずは己の「良心」を確かめよう。そして、「良心党」を名乗ろう(なお、現段階での「良心党」は党派を目指すものであるが、政治党派ではない)。「良心党」の名乗りは、自分が「良心」を信念とする人間であることを社会に宣言することである。
その上で、多くの人々に「良心党」への参加を呼びかけよう。幾百万、幾千万の人々が「良心党」と名乗り出た時、そこに「政治党派」としての「良心党」の形が現われる。その為に、先ずは「良心党」を名乗り、「良心」の宣教使になろう。
「良心党」がこの国の、この世界の政治の担い手となる日はそう遠くない。なぜなら、人類は「良心」を信念とする以外に、この有限の地球で久遠の時をすごすことなど出来ないからである。今や有限地球は、限りなき欲望の餌食にされている。この状況から逃れさせるものは「良心」だけなのだ。
さあ、有限の地球で人類の久遠を願う人々よ、物欲に心奪われることなき「良心」を持つ人々よ、「良心党」を名乗ろう。「良心党」を名乗る上での責任は「良心」を持つ自身によって果たせるのだ。さあ胸を張って「良心党」を名乗ろう。
◇
上記一文の配布転載を歓迎します
http://homepage1.nifty.com/kikugawa_koubo/tanishi.htm#kikko
人はみな 心の生きもの 心の僕(しもべ)
来た道 行(ゆ)く道 心の旅路
荒野(こうや)も牧場(まきば)も 花園も
瓦礫(がれき)も骸(むくろ)も 絶望も
心のままに 踏んだ道
強く雄々(おお)しく優しき人は
良心 花咲く 平和の道へ
みんなの心を 励まし歩む
人はみな 心の生きもの 心の僕(しもべ)
幸せ 不幸も 心の旅路
天使(あなた)の心の 眼差しは
みんなの心に ささやいた
子らにも上げよう 真心(まごころ)を
強く雄々しく優しき人は
良心 花咲く 明日(あした)の園へ
子供の心を 誘(いざな)い進む
人はみな 心の生きもの 心の僕(しもべ)
安心 不安も 心の旅路
自分の心の 戸惑いに
他人(ひと)の心を 借りてみる
どうして陰(かげ)るか 見えるから
強く雄々しく優しき人は
良心 花咲く 倫理(りんり)の邦(くに)へ
触れ合う心を 抱(いだ)いて向う
> あるときの住民は、
> 「良心とは自分の中に住んでいる他人ではあんめえか」
> といってきだみのるを驚嘆させる。
> 出典:「きだみのる、- 放浪のエピキュリアン - 、p155」、新藤謙著、リブロポート刊
あの世で「心と化した人々」を幸せにするのが宗教であるなら、この世で「心ある人々」に幸せをもたらす世を造り出すのが政治であろう。
あの世での「心」はと問われても、あの世を知らぬ身には答えようがない(精神的生命と答えたいのだが、それでよいものかどうかわからないから)。
この世での「心」はと問われれば、「良心」の一言をもって答える。政治は「個々の人々が持つ良心によってもたらされた幸せ」が、その境遇によって壊されることがないよう、積極的に保障することを主要な責務とする、と考える。
それでは政治とは、それを為す特定の者に任されているものかといえば、そうではない。社会の成員すべてが係わるものである。この係わりがあるゆえに、なん人の人権も保障されるのである。
この社会においては、なん人も政治に(意識するかしないかの違いはあるが)係わるのである。であるから、個々人それぞれが政治理念を持つことは当然である。その理念を「良心」とする党派を「良心党」と呼び、それに加わるべしというのが、この呼びかけである。
人が人として生きる時、「良心」を貫き通せれば、人生悔いる所がなかろう。先ずは己の「良心」を確かめよう。そして、「良心党」を名乗ろう(なお、現段階での「良心党」は党派を目指すものであるが、政治党派ではない)。「良心党」の名乗りは、自分が「良心」を信念とする人間であることを社会に宣言することである。
その上で、多くの人々に「良心党」への参加を呼びかけよう。幾百万、幾千万の人々が「良心党」と名乗り出た時、そこに「政治党派」としての「良心党」の形が現われる。その為に、先ずは「良心党」を名乗り、「良心」の宣教使になろう。
「良心党」がこの国の、この世界の政治の担い手となる日はそう遠くない。なぜなら、人類は「良心」を信念とする以外に、この有限の地球で久遠の時をすごすことなど出来ないからである。今や有限地球は、限りなき欲望の餌食にされている。この状況から逃れさせるものは「良心」だけなのだ。
さあ、有限の地球で人類の久遠を願う人々よ、物欲に心奪われることなき「良心」を持つ人々よ、「良心党」を名乗ろう。「良心党」を名乗る上での責任は「良心」を持つ自身によって果たせるのだ。さあ胸を張って「良心党」を名乗ろう。
◇
上記一文の配布転載を歓迎します
http://homepage1.nifty.com/kikugawa_koubo/tanishi.htm#kikko