うつ解消マニュアル
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)
第17回目(2008・10・28作成)
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
「知里幸恵とアイヌ神謡集のこと」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104
今回は、アイヌ出身の天才少女・知里幸恵さん
(1903.6.8~1922.9.18)のことについて、
触れたいと思います。
と言うのも、10月15日にNHK番組『その時歴史が動いた』で
放送された「知里幸恵」について、補足したいことがあるからです。
私が知里幸恵さんを知ったのは、高校生の時です。
当時私は、文芸部の部長をしていたのですが、
文学の何たるかを何も知らないことに
気付かされたのが「アイヌ神謡集」でした。
言葉の重みというか、力というか、
何とも言えない衝撃を受けたものです。
特にその序文は、美しくしかも力強く、
読むものを圧倒させるものがありました。
どうしてもこの作品を世に残したい、
書かねばならないという思いが、
時を越えて強く熱く伝わってきました。
『その昔この広い北海道は、
私たちの先祖の自由の天地でありました。
天真爛漫な稚児の様に、
美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、
真に自然の寵児、
なんという幸福な人だちであったでしょう。
(中略)
平和の境、それも今は昔、
夢は破れて幾十年、
この地は急速な変転をなし、
山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。
(中略)
その昔、幸福な私たちの先祖は、
自分のこの郷土が末に
こうした惨めなありさまに変ろうなどとは、
露ほども想像し得なかったのでありましょう。
時は絶えず流れる、
世は限りなくしんてんしてゆく。
激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、
いつかは、二人三人でも強いものが出てきたら、
進みゆく世と歩をならべる日も、
やがては来ましょう。
それはほんとうに私たちの切なる望み、
明暮(あけくれ)祈っている事で御座います。
(略)
大正11年3月1日』
(北海道富良野市、鳥沼7号バス停側)
この「アイヌ神謡集」の序文は、
たった19歳の少女が書いたのです。
今私たちが置かれている現状を考えるとき、
この美しいが悲しい響きを持った文章は、
私たちに人間としての魂を呼び戻せと語りかけているように
聞こえないでしょうか。
この作品は、金田一京助(1882.5.5~1971.11.14)
を抜きにしては語れません。
金田一は、
東京帝国時代の恩師・上田万年(うえだかずとし)の
「アイヌは日本にしか住んでいないのだから、
アイヌ語研究は日本の学者の責務だ。」
という教えに共感して、
その後アイヌ研究に没頭することになります。
アイヌは、明治政府のアイヌの同化政策
(土地の没収・漁業や狩猟の禁止・習慣風習の禁止
・アイヌ語の禁止・戸籍編入など)により、
アイヌ民族の誇りばかりか、生活の基盤まで奪われました。
そんな中で育った幸恵の前に現れたのが、金田一でした。
アイヌは劣等民族・賎しい民族であると
学校で教えられていた幸恵に、
金田一は「アイヌ文化は偉大であり誇るべきものである。」
と熱く語りました。
幸恵15歳の時です。
幸恵は、
幼い頃から祖母(モナシノウク)から
カムイユーカラを聞いて育ちました。
後にも書きますが、
ユーカラは人として生きていく
人生の処方箋のようなものですから、
幸恵は知らず知らずのうちに
このユーカラの教えを学んでゆきます。
だから、まだ幸恵は気が付いていなかったと思いますが、
金田一の言葉は
幸恵に民族の誇りを呼び起こす端緒を開いたのだと思います。
金田一にアイヌの本を出そうと誘われて、
上京したのが大正11年5月20日頃、
亡くなったのが9月18日だから、
僅か4ヶ月足らずの東京の生活でした。
心臓病を患っていた幸恵が何故、
それも自然の少ない東京に行ったのでしょうか。
19歳の花も実もある娘が、
アイヌ民族の復権だけのためにだけに
上京したのでしょうか。
NHKでは語られなかったが、
実は幸恵には恋人がいました。
今の名寄市の郊外(ナイブチコタン)の農家の青年でした。
幸恵の母ナミは、
その青年との交際に反対していました。
ナミは、農業を主たる生業とする家に嫁いで苦労している。
親として、体の弱い娘に同じ苦労をさせたくない
という思いだったらしいのです。
幸恵の死後、
ナミは「こんなことだったら、一緒にさせておけば良かった。」
と言っていたといいます。
幸恵から両親にあてた手紙に
「東京見物をして気をかえてみたい」という一文があります。
これはあながち嘘ではなく、
幸恵の本心であるように思えてなりません。
真面目な幸恵は、
金田一家で世話になっている内に
恩返しをせねばならないという義務感と、
ユーカラを書き連ねるうちに
アイヌとしての責務に目覚めたのではないでしょうか。
それにしても私が残念に思うのは、金田一の対応です。
心臓病を病んでいる少女に、
あのジメジメした暑苦しい東京に誘うなど、
殺人に等しいことだとは思わなかったのでしょうか。
また、19歳であれば恋人がいないのかなどと、
相談にのることが出来なかったのでしょうか。
何も蒸し暑い東京にわざわざ呼ぶ必要があったのでしょうか。
北海道にいても出来た仕事ではないでしょうか。
もっと言えば、幸恵の悲運は
人災であるとさえ思えてくるのです。
幸恵の死後、
金田一は弟の真志保の面倒
(当時、アイヌにはめずらしい大学教育を授ける)を見るだけではなく、
金田一をして「我が跡継ぎ」とまで言わしめています。
真志保は幸恵と同じく、語学の天才だったのです。
しかし、やがて真志保は金田一と決別します。
恩義のある金田一にとった真志保の態度は、
やはり姉の幸恵のことがあったと思えてなりません。
感受性が強いのは幸恵以上だったのかも知れないと思うと、
真志保もまた、
アイヌ差別の真っ直中に生きた犠牲者だったといえます。
ところで、この序文に、
幸恵のアイヌとして生きていこうという決心
のような迫力を感じるのは私だけでしょうか。
金田一と幸恵・真志保と決定的に違うのは、
アイヌに対する姿勢なのだと思います。
金田一にとってのアイヌは、
(彼がどういう思いであれ)過去に生きた存在なのです。
知里姉弟にとってのアイヌは、
自分自身のことであり、生きている証であり、生きる拠り所です。
つまり、研究材料でもなければ、
まして同情されるものでもないのです。
(北海道旭川市、花菜里ランド)
この序文から私は、アイヌであることの誇りと、
ユーカラにあるような
『素朴を愛し自然を慈しみ敬うような人間らしい人間』
として生きていかねばならないという決心を、
私は感じるのです。
幸恵は、カムイユーカラを翻訳するうちに、
その素晴らしい文化に
あらためて気付いたに違いありません。
序文の素晴らしさは勿論ですが、
本文の謡には別の意味で驚かされます。
この最初の謡「銀の滴降る降る・・・」には、
幸恵の天分と並々ならぬ思いを感じます。
あまりに文学的で美しく、内容も豊かです。
こんなに素晴らしい内容をもったユーカラを聞きながら、
幸恵は育ったのです。
東京の雑沓の中に何を感じたでしょう。
デパートに行ったときの感想を日記に書いていますが、
大量の金品をうらやましく思うどころか、
何も欲しくなかったと書いています。
このユーカラにあるような倫理観や道徳観、
もっと言えば人生観を持った民族は世界にも稀なのです。
幸恵は幼い頃から、
祖母のユーカラを子守唄代わりに聞いてきました。
学者金田一を通して、
日本の同化政策のもと、
決してなくしてはならない
アイヌ文化の価値に気付かされたのです。
そして、アイヌ文化は、
幸恵が幸恵であることを証明するものなのです。
このユーカラの本当の価値を知って大変喜んだことは、
想像に難くありません。
だからこそ、このユーカラの翻訳には、
読む私たちをして感動させ圧倒するものがあるのです。
幸恵の書いた「アイヌ神謡集」は、
本の左側にローマ字でアイヌの発音を書き、
右側には翻訳をしたものです。
アイヌは文字を持っていませんから、
この試みはそのことだけでも画期的なことなのです。
13篇のユーカラが納められ、
梟(ふくろう)の神が自ら歌った謡、
「銀の滴降る降るまわりに」が最初に出てきます。
(北海道美瑛町、ポピーの丘と名付けました)
『「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに。」
という歌を私は歌いながら
流れに沿って下り、
人間の村の上を通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今のお金持ちになっていて、
昔のお金持ちが今の貧乏人になっている様です。
(中略)
この家の左の座へ右の座へ
美しい音をたてて飛びました。
私が羽ばたきをすると、
私のまわりに
美しい宝物、神の宝物が美しい音をたてて
落ち散りました。
(中略)
彼(か)のアイヌ村の方を見ると、
今はもう平穏で、
人間たちは平穏で、
人間たちは仲よく、
彼のニシパが村の頭になっています。
彼の子供は、
今はもう、成人して、妻ももち子も持って
父や母に孝行しています。
何時でも何時でも、酒を造った時は
酒宴のはじめに、
御弊やお酒を私に贈ってよこします。
私も人間たちの後に座して
何時でも
人間たちの国を守護(まも)っています。
と、ふくろうの神様が物語りました。』
なんと、平和な情景でしょう。
幸恵の墓は東京の雑司ヶ谷霊園にありますが、
上京に反対していた父・高吉は、
持ち帰った幸恵の遺髪を
生まれ故郷の登別に埋葬しました。
幸恵はきっと、
登別の知里家の海を望む墓所に眠っていると思います。
何故かって、
ここからは幸恵が最も愛した登別の海や山が見えるからです。
序文で謳いあげた
「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地」は、
正にこの生まれ故郷の登別を
思い出して書いたに相違ないからです。
(追記)
この「アイヌ神謡集」は、
私たちの物質文明の華やかさにある心の貧しさを教えてくれました。
私が本当に残念に思うのは、心臓病を患い、
また、旭川の近くに恋人までいた幸恵を、
アイヌの本を出そうと誘った金田一の学者としての一念です。
一寸考えれば分かりそうなのものです。
生よりも大切なものなどないのです。
金田一の学者馬鹿が、
金田一の判断を鈍らせたのだと思います。
北海道とは全く気候の違う、
湿気が多く極端に暑い東京に、
心臓病を患っていた乙女を誘っていいのでしょうか。
内風呂のない時代、風呂はどうしていたのでしょう。
色は白かったといいますが、
眉やまつ毛や体毛の濃さ多さはどう克服したのでしょうか。
風貌はどうでしょうか。
絶対安静、北海道のようなところでの保養が必要な心臓病と闘い、
またあの蒸し暑い東京で肌を見せまいと
着物でおおっていたのではないかと思うと、
涙を禁じ得ません。
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)
第17回目(2008・10・28作成)
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
「知里幸恵とアイヌ神謡集のこと」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104
今回は、アイヌ出身の天才少女・知里幸恵さん
(1903.6.8~1922.9.18)のことについて、
触れたいと思います。
と言うのも、10月15日にNHK番組『その時歴史が動いた』で
放送された「知里幸恵」について、補足したいことがあるからです。
私が知里幸恵さんを知ったのは、高校生の時です。
当時私は、文芸部の部長をしていたのですが、
文学の何たるかを何も知らないことに
気付かされたのが「アイヌ神謡集」でした。
言葉の重みというか、力というか、
何とも言えない衝撃を受けたものです。
特にその序文は、美しくしかも力強く、
読むものを圧倒させるものがありました。
どうしてもこの作品を世に残したい、
書かねばならないという思いが、
時を越えて強く熱く伝わってきました。
『その昔この広い北海道は、
私たちの先祖の自由の天地でありました。
天真爛漫な稚児の様に、
美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、
真に自然の寵児、
なんという幸福な人だちであったでしょう。
(中略)
平和の境、それも今は昔、
夢は破れて幾十年、
この地は急速な変転をなし、
山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。
(中略)
その昔、幸福な私たちの先祖は、
自分のこの郷土が末に
こうした惨めなありさまに変ろうなどとは、
露ほども想像し得なかったのでありましょう。
時は絶えず流れる、
世は限りなくしんてんしてゆく。
激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、
いつかは、二人三人でも強いものが出てきたら、
進みゆく世と歩をならべる日も、
やがては来ましょう。
それはほんとうに私たちの切なる望み、
明暮(あけくれ)祈っている事で御座います。
(略)
大正11年3月1日』
(北海道富良野市、鳥沼7号バス停側)
この「アイヌ神謡集」の序文は、
たった19歳の少女が書いたのです。
今私たちが置かれている現状を考えるとき、
この美しいが悲しい響きを持った文章は、
私たちに人間としての魂を呼び戻せと語りかけているように
聞こえないでしょうか。
この作品は、金田一京助(1882.5.5~1971.11.14)
を抜きにしては語れません。
金田一は、
東京帝国時代の恩師・上田万年(うえだかずとし)の
「アイヌは日本にしか住んでいないのだから、
アイヌ語研究は日本の学者の責務だ。」
という教えに共感して、
その後アイヌ研究に没頭することになります。
アイヌは、明治政府のアイヌの同化政策
(土地の没収・漁業や狩猟の禁止・習慣風習の禁止
・アイヌ語の禁止・戸籍編入など)により、
アイヌ民族の誇りばかりか、生活の基盤まで奪われました。
そんな中で育った幸恵の前に現れたのが、金田一でした。
アイヌは劣等民族・賎しい民族であると
学校で教えられていた幸恵に、
金田一は「アイヌ文化は偉大であり誇るべきものである。」
と熱く語りました。
幸恵15歳の時です。
幸恵は、
幼い頃から祖母(モナシノウク)から
カムイユーカラを聞いて育ちました。
後にも書きますが、
ユーカラは人として生きていく
人生の処方箋のようなものですから、
幸恵は知らず知らずのうちに
このユーカラの教えを学んでゆきます。
だから、まだ幸恵は気が付いていなかったと思いますが、
金田一の言葉は
幸恵に民族の誇りを呼び起こす端緒を開いたのだと思います。
金田一にアイヌの本を出そうと誘われて、
上京したのが大正11年5月20日頃、
亡くなったのが9月18日だから、
僅か4ヶ月足らずの東京の生活でした。
心臓病を患っていた幸恵が何故、
それも自然の少ない東京に行ったのでしょうか。
19歳の花も実もある娘が、
アイヌ民族の復権だけのためにだけに
上京したのでしょうか。
NHKでは語られなかったが、
実は幸恵には恋人がいました。
今の名寄市の郊外(ナイブチコタン)の農家の青年でした。
幸恵の母ナミは、
その青年との交際に反対していました。
ナミは、農業を主たる生業とする家に嫁いで苦労している。
親として、体の弱い娘に同じ苦労をさせたくない
という思いだったらしいのです。
幸恵の死後、
ナミは「こんなことだったら、一緒にさせておけば良かった。」
と言っていたといいます。
幸恵から両親にあてた手紙に
「東京見物をして気をかえてみたい」という一文があります。
これはあながち嘘ではなく、
幸恵の本心であるように思えてなりません。
真面目な幸恵は、
金田一家で世話になっている内に
恩返しをせねばならないという義務感と、
ユーカラを書き連ねるうちに
アイヌとしての責務に目覚めたのではないでしょうか。
それにしても私が残念に思うのは、金田一の対応です。
心臓病を病んでいる少女に、
あのジメジメした暑苦しい東京に誘うなど、
殺人に等しいことだとは思わなかったのでしょうか。
また、19歳であれば恋人がいないのかなどと、
相談にのることが出来なかったのでしょうか。
何も蒸し暑い東京にわざわざ呼ぶ必要があったのでしょうか。
北海道にいても出来た仕事ではないでしょうか。
もっと言えば、幸恵の悲運は
人災であるとさえ思えてくるのです。
幸恵の死後、
金田一は弟の真志保の面倒
(当時、アイヌにはめずらしい大学教育を授ける)を見るだけではなく、
金田一をして「我が跡継ぎ」とまで言わしめています。
真志保は幸恵と同じく、語学の天才だったのです。
しかし、やがて真志保は金田一と決別します。
恩義のある金田一にとった真志保の態度は、
やはり姉の幸恵のことがあったと思えてなりません。
感受性が強いのは幸恵以上だったのかも知れないと思うと、
真志保もまた、
アイヌ差別の真っ直中に生きた犠牲者だったといえます。
ところで、この序文に、
幸恵のアイヌとして生きていこうという決心
のような迫力を感じるのは私だけでしょうか。
金田一と幸恵・真志保と決定的に違うのは、
アイヌに対する姿勢なのだと思います。
金田一にとってのアイヌは、
(彼がどういう思いであれ)過去に生きた存在なのです。
知里姉弟にとってのアイヌは、
自分自身のことであり、生きている証であり、生きる拠り所です。
つまり、研究材料でもなければ、
まして同情されるものでもないのです。
(北海道旭川市、花菜里ランド)
この序文から私は、アイヌであることの誇りと、
ユーカラにあるような
『素朴を愛し自然を慈しみ敬うような人間らしい人間』
として生きていかねばならないという決心を、
私は感じるのです。
幸恵は、カムイユーカラを翻訳するうちに、
その素晴らしい文化に
あらためて気付いたに違いありません。
序文の素晴らしさは勿論ですが、
本文の謡には別の意味で驚かされます。
この最初の謡「銀の滴降る降る・・・」には、
幸恵の天分と並々ならぬ思いを感じます。
あまりに文学的で美しく、内容も豊かです。
こんなに素晴らしい内容をもったユーカラを聞きながら、
幸恵は育ったのです。
東京の雑沓の中に何を感じたでしょう。
デパートに行ったときの感想を日記に書いていますが、
大量の金品をうらやましく思うどころか、
何も欲しくなかったと書いています。
このユーカラにあるような倫理観や道徳観、
もっと言えば人生観を持った民族は世界にも稀なのです。
幸恵は幼い頃から、
祖母のユーカラを子守唄代わりに聞いてきました。
学者金田一を通して、
日本の同化政策のもと、
決してなくしてはならない
アイヌ文化の価値に気付かされたのです。
そして、アイヌ文化は、
幸恵が幸恵であることを証明するものなのです。
このユーカラの本当の価値を知って大変喜んだことは、
想像に難くありません。
だからこそ、このユーカラの翻訳には、
読む私たちをして感動させ圧倒するものがあるのです。
幸恵の書いた「アイヌ神謡集」は、
本の左側にローマ字でアイヌの発音を書き、
右側には翻訳をしたものです。
アイヌは文字を持っていませんから、
この試みはそのことだけでも画期的なことなのです。
13篇のユーカラが納められ、
梟(ふくろう)の神が自ら歌った謡、
「銀の滴降る降るまわりに」が最初に出てきます。
(北海道美瑛町、ポピーの丘と名付けました)
『「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに。」
という歌を私は歌いながら
流れに沿って下り、
人間の村の上を通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今のお金持ちになっていて、
昔のお金持ちが今の貧乏人になっている様です。
(中略)
この家の左の座へ右の座へ
美しい音をたてて飛びました。
私が羽ばたきをすると、
私のまわりに
美しい宝物、神の宝物が美しい音をたてて
落ち散りました。
(中略)
彼(か)のアイヌ村の方を見ると、
今はもう平穏で、
人間たちは平穏で、
人間たちは仲よく、
彼のニシパが村の頭になっています。
彼の子供は、
今はもう、成人して、妻ももち子も持って
父や母に孝行しています。
何時でも何時でも、酒を造った時は
酒宴のはじめに、
御弊やお酒を私に贈ってよこします。
私も人間たちの後に座して
何時でも
人間たちの国を守護(まも)っています。
と、ふくろうの神様が物語りました。』
なんと、平和な情景でしょう。
幸恵の墓は東京の雑司ヶ谷霊園にありますが、
上京に反対していた父・高吉は、
持ち帰った幸恵の遺髪を
生まれ故郷の登別に埋葬しました。
幸恵はきっと、
登別の知里家の海を望む墓所に眠っていると思います。
何故かって、
ここからは幸恵が最も愛した登別の海や山が見えるからです。
序文で謳いあげた
「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地」は、
正にこの生まれ故郷の登別を
思い出して書いたに相違ないからです。
(追記)
この「アイヌ神謡集」は、
私たちの物質文明の華やかさにある心の貧しさを教えてくれました。
私が本当に残念に思うのは、心臓病を患い、
また、旭川の近くに恋人までいた幸恵を、
アイヌの本を出そうと誘った金田一の学者としての一念です。
一寸考えれば分かりそうなのものです。
生よりも大切なものなどないのです。
金田一の学者馬鹿が、
金田一の判断を鈍らせたのだと思います。
北海道とは全く気候の違う、
湿気が多く極端に暑い東京に、
心臓病を患っていた乙女を誘っていいのでしょうか。
内風呂のない時代、風呂はどうしていたのでしょう。
色は白かったといいますが、
眉やまつ毛や体毛の濃さ多さはどう克服したのでしょうか。
風貌はどうでしょうか。
絶対安静、北海道のようなところでの保養が必要な心臓病と闘い、
またあの蒸し暑い東京で肌を見せまいと
着物でおおっていたのではないかと思うと、
涙を禁じ得ません。