合気道 真風会のブログ

合気道開祖、植芝盛平翁先生の精神。

最近、大東流合気道を名乗る先生が、総合格闘家と試合をし、惨敗した映像がユーチューブに流れ話題になっています。

この流派のホームページを拝見したところ、大東流という名前であっても、武田惣角先生の系統ではなく、また、合気道にしても植芝盛平翁先生が創始したものではない、どちらも全く関係がない独自に発展した、同じ名前の別の武道だということが分かりました。

しかし、現在65歳にして、しかも、心臓には手術で管が2本入っている体で、あのような激しい試合に、実践武術家として臨まれた精神力は常人には真似出来きません。

みなさんは、いつか自分が65歳になったとき、あの先生のように、あのようなチャレンジができるでしょうか?

自分自身は失敗を恐れて、何事にもチャレンジしないで、人の批判だけなら、誰にでもできるでしょう。

私は、決して、結果だけをとって、この先生を批判するべきではないと思います。


しかし、試合そのものは、素手による顔面殴打で、血が流れ、少し残酷な感じがしました。

やはり私には、植芝盛平翁先生が創始された合気道の方が合っているし、この合気道だからこそ道を追求して行きたいのです。


植芝盛平翁先生語録「合気神髄」という本から、合気道の精神が象徴された言葉をいくつかご紹介いたします。


”昔から、武道は誤って人命を絶えず殺し合う方向に進んできたのであるが、合気は人命を救うためにあるのである。
すなわち人殺し予防法が合気の道である。
人を殺すなかれが合気であり、「合」は「愛」に通じるので、私は、私の会得した独自の道を「合気道」と呼ぶことにしたのである。
従って、従来の武芸の人々が口にする「合気」と、私のいう「合気」とは、その内容、本質が根本的に異なる。
このことを皆さんはよく考えてほしいと願うものである。
この道は、相手と腕力・凶器で戦い、相手を腕力・凶器で破る術ではなく、世界を和合させ、人類を一元の下に一家たらしめる道である。


宇宙の心とは何か?
これは上下四方、古往今来(こおうこんらい)、宇宙のすみずみにまで及ぶ偉大なる「愛」である。
愛は争わない。
愛には敵はない。
何者かを敵とし、何者かと争う心はすでに宇宙の心ではないのである。
宇宙の心と一致しない人間は、宇宙の動きと調和できない。
宇宙の動きと調和できない人間の武は、破壊の武であって真の武ではない。
真の武道に敵はない、真の武道とは愛の働きである。
それは、殺し争うことでなく、すべてを生かし育てる、生成化育の働きである。
愛とはすべての守り本尊であり、愛なくばすべては成り立たない。
合気の道こそ愛の現れなのである。
だから武技を争って勝ったり、負けたりするのは真の武ではない。
真の武は、いかなる場合にも絶対不敗である。
すなわち、絶対不敗とは、絶対に何ものとも争わぬことである。
勝つとは己の心の中の「争う心」に打ち勝つことである。
己に与えられた使命を成しとげることである。


いうまでもなく戦争、喧嘩争いをしてはいけないのである。
和と統一で結ぶ、これ、合気である。
世界を和と統一で結ぼうとする人を真人というが、合気は、いうなれば真人養成の道であるともいえる。”

(”京築合気道研究会”は2007年1月13日より、道場名を”合気道 真風会”へ変更致しました。)

 

【ホームページ】

「合気道 真風会 オフィシャルサイト」


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コメント一覧

通りすがり人
この前の続きです
上土井さん、こんにちは。
こんな事考えたのですが、いかがでしょうか。
「端」(恥:言葉遊びです)からみれば「中庸」も「端」にみえ、「中庸」に立つことに努めれば両「端」が見えるなり。なんて謂うのはどうでしょうか。捉えようとする物事が大きければ大きいほど片側からみれば正しきことを「偽」と思ってしまいますよね。それこそ、「端」に執着してしまえば御陀仏ですね。また、自分が成長し変化し続けなければ「中庸」に立ち続けることも難しいですよね(世の中の事象が何の変化もせず、新しき発見が何もないのであれば別ですが)。「実」ばかりに捕らわれると、「虚」が見えず、「虚」ばかりに捕らわれても「実」が見えなくなる。「実」と「実」を結ぶことは簡単ですが(「実」になった瞬間に「虚」が潜んでしまうから、難しいと思っていますが、「実」と「虚」よりはと言う意味で)、「実」と「虚」を結びあわせ体得するのは難しいですね。自分自身が思っていることは、自分自身に現れていることなのだから、これは自分からすれば「実」ですよね。それに対し、相手の思うところは、自分からみれば全くわからないから、これは「虚」ですよね。いろいろ展開していくと、楽しいですよね、勉強になるし、ワクワクします。武道に展開しても同じですよね。謙虚さにも通じますし。私にとって、伝えたいことは前回と同じなのですが。
上土井
>Re通りすがり人さん、オッチーさん
ありがとうございます。
どちらの解釈も私なりに、なんとなく漠然と理解していたことと同様でした。
しかし、通りすがり人さんもオッチーさんも実に良く勉強されていますね。
これからも宜しくお願い致します。
オッチー
http://sikisima.cocolog-nifty.com/
お尋ねありがとうございます☆

‥ちょこっと、こそばゆいですけど・・・お答えを記しますね(*^_^*)ヾ

“天之浮橋に立たねばならない”とは‥

①まず最初に『世の中と人間社会に存在する「ハシ」というものを、しっかりと認識』しなさい。‥という教えです。

‥つまり、世の中の人と人、人種と人種、国と国・・・といったものたちの間に存在する「ミゾ(溝)」を見つめること。

なぜなら、橋が必要だということは、そこには“溝”(=間=マ【真・魔】)があるということでしょ?

②そして、そこに“立たねばならない”とは‥
“自分は、そこに橋を掛けるんだ!”って決める意志。‥決断すること。覚悟を決めること。

それがすなわち、気を「ムスブ(結ぶ)=(産素武)」ことであります。

‥気は、また同時に、“軌”であり“機”であり“期”であると同時に“奇”でなければならず、‥結果として“木”となり“器”となって“貴”となるわけだと考えております。

気を合するためには、「アイ」が分からねば始まらないよね♪

‥と、やさしく教え導いてくれているのが日本の神々なのだとオッチーは確信しております。。

お役に立てば幸いです。 m(__)m
通りすがり人
上土井さん、今晩は。
「天之浮橋に立たなければいけません」について。己に展開させると、自分の中の神性を見いだし、現在の自分(実部)と結び合わせることが出来る人になりなさい、自分以外の物事に展開すると、物事に潜んでいる神の御働きを見いだし、現象界に指し示せるようになりなさい、という意味が含まれているのではないかと、私は考えています。
上土井
>Reオッチーさん
書き込みありがとうございます。
来年春が楽しみです。
それなら私と一緒に”はだか踊り”をしましょう。
もしかすると、私達の素顔は、そのノリの方が似合っているかも、知れませんネ。(笑)その際は、ぜひ我家にお泊りで来てくださいね。家族一同大歓迎でお迎えいたします!
上土井
>Re通りすがり人さん
通りすがりさん、始めまして。
書き込みありがとうございます。
今後とも宜しくお願い致します。
武道家として、真の実力を持っていた植芝盛平翁先生だからこそ、たどり着いた境地なんでしょうね。
武を極めていくと、武の字の意味である”鉾先(ほこさき)を止める”平和への道に続いて行くのでしょうね。
オッチー
http://sikisima.cocolog-nifty.com/
こんにちわ☆

植芝先生のお言葉に触れると、いつもながら、ホッとしてしまいます。。 ‥ほんとうに早く一杯行きたいものですね!(*^_^*)ヾ

‥いましばらく。。生業の方が大ピンチ☆でありますので、来年春ごろまではお時間をくださいませ!m(__)m

リンクされている皆さまも、本当に素敵な方々ばかりで、上土井先生のお人柄が、ほんとうに良く伝わってまいります。

・・・実は、ひとつ、ささやかなお願いがあるのです。

“鎌倉古芸風門武芸帳”の kirara様がコメントで“オッチー先生”とお書きになるのが、こっ恥ずかしいやら何やらで‥。。

今度お会いしたときに、酔っ払って“はだか踊り”のひとつでもやりますから、どうぞお心遣いをされませんようにお伝えいただければ有り難いのです・・・。本当に‥恥ずかしくて。

こころから、お願いを申し上げます。m(__)m

‥寒くなってまいりましたが、合気の道を精進してまいりましょう!

ありがとうございます☆
通りすがり人
上土井さん、はじめまして。植芝盛平翁先生のお言葉は、奥が深いですね。己に「争う心」を懐くことなく、人と戦いなさい、議論しなさい、と言うことでしょうか。「己が真なり」(自分は正しい、とか、自分は間違っていない、など)と思った瞬間、「争う心」を自分の中に懐くことになるのですから。
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