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日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

投票に行こう

2012年12月15日 | インポート
明日は国政に対して、私たち庶民がささやかな意思表示をする事が出来る投票日。

選挙公報の各候補者の主張をきちんと踏まえて、投票に行こう。

地域による1票の格差がある現状の選挙制度ではあるが、職業、性別、貧富の差、老若男女に関わらず、現行の選挙制度における条件さえ満たしていれば、投票する権利を与えられている。

権利だから、行使するもしないも各人が決めればよいことではあるが、せっかく与えられている権利であるから、それを行使しないのはもったいない。

普段は声なき声として見向きもされないような私たち庶民の1票ずつの行使が、国政の行方を左右することもある。

前回の国政選挙での大多数の国民の判断は、見事に裏切られてしまったが。

だからといって投票を棄権すれば、既得権益集団のような組織力を持った政党を利するだけになる。

核兵器の保有を示唆するような政党や、国防軍などという勇ましい掛け声で国民を扇動するような政党が国政を牛耳るようになったならばどのような事になるのかということを類推して熟慮し、投票に行こうと思う。

今回の選挙から雲仙市愛野町での投票所は、1箇所になってしまった。

以前までは3箇所あった投票所が1つになってしまった。

後付けの理由は色々と考えてはあるのだろうが、投票に行く一般人にとっては不便になり、投票率の低下に繋がるかもしれないということは充分に考えられる。

投票率が下がると有利になる、返り咲きを狙う、組織力を持った政党の策略かもしれないなどという考え方は、穿ち過ぎだろうか。



豊田一喜










雨のために早帰り

2012年12月14日 | インポート
遺跡発掘のアルバイト作業は、午後からの雨のために早帰りになった。

昼休み時間中に雨が降り出したので、午後1時より道具などの片付けと、一部区域へのブルーシートかけにて作業は終了となった。

午後3時半ごろには家に帰り着いたが、とりたててすることもなく台所に行ってみたら、ペットボトル入りの安いワインがテーブルの上にあるのが目に入った。

車を運転して出かけるような予定も無かったので、安ワインをコップに一杯注いで、一気に飲んでみた。

少しすっぱいジュースのような感覚。

コタツに入り、寝転んでテレビを見ていたが、夕食の時間に起こされる午後7時半ごろまで眠っていた。

平穏で幸せな時を過ごせている世の中だけれども、どうも隣国の挙動が芳しくない。

そのようになってくると、国防軍とか核兵器の保有などという主張が肯定されがちな風潮になりがちではあるが、冷静に自国の国力を客観的に見すえなければならないと私は思う。

資源の少ない我が国であり、食糧自給率が40パーセント以下の我が国である。

客観的に見れば、脆弱な国力の日本国ということになろう。

先の戦争の教訓から、そのような学習はしているはずではあるが、忘れかけたり、そのような悲惨な体験をしていないような世代が増えてくると、勇ましい掛け声にはついつい扇動されやすくなるのかもしれない。

合法的な人と人との殺し合いという戦争など絶対に回避しなければならない。

人は生きるために生まれてくるのであって、殺したり殺されたりするために生きているのではない。

折もおり、国政選挙で核兵器の保有を示唆したり、国防軍などという言葉を使ったりするような政党が存在している。

そのような政党が日本の政治を牛耳るようになれば、過去の悪夢が再来する危険性も充分にありうる。

原発や、企業側に有利な雇用状態など、今のようなおかしな日本にしてきた政党が、「日本を取り戻す」などと言っている。

冗談じゃないと言いたいが、忘れやすい国民性ゆえか、そのような政党の支持者が多いらしい。

騙されたうえに騙されるのは、騙される方が愚かなだけである。

12月16日にはその愚かさが試される。


豊田一喜






空撮と安全教育

2012年12月13日 | インポート
本日の遺跡発掘アルバイト作業現場では、ラジコンヘリコプターによる空中写真の撮影と安全教育が実施された。

寒さも少し緩み、おだやかな一日だった。

安全に作業を実施するには、安全対策の細かい約束事を遵守しなければならないが、そうでない場面もいくらか見受けられる。

高い所での作業時には、特にそのような事が重要なはずだが、実際にはどうだろうか。

作業員の近くでのラジコンヘリコプターによる低空撮影などはいかがなものだろうか。

ラジコンヘリコプターによる空撮は終了したということで現場に行ったが、一部で残っていたようだった。

撮影の作業量が多くて、時間的に少し多めにかかったものとは思われる。

しかし、事故が起こってからの言い訳などは通用しない。

時間にして1分もかかからないような事柄を面倒がって軽視し、省略していれば、重大な事故に繋がる可能性もある。

各個人には、石橋をたたいて渡るような慎重さが望まれるし、管理する側には危険を排除するような環境整備が望まれる。

組織体全体として、危険予知意識を持たなければ事故は無くならないのではないだろうか。



豊田一喜







温まる話

2012年12月12日 | インポート
寒い日々が続いている。

アルバイトの現場作業から帰ったら、妻が温まる物を出してくれる。

朝の残りの味噌汁がお椀に一杯分残っているので、それを温めて、おろし生姜を入れて飲ませてくれる。

生姜の風味で口の中がひりひりと温かくなり、胃袋に落ちてからは体の中から温めてくれる。

仕事が終わり、ほっと一息つくときのコーヒーではなくて、お椀一杯の温かい味噌汁を飲む時に、日本人でよかったとつくずく思う。


豊田一喜





島原市に光が

2012年12月11日 | インポート
12月9日に投開票された島原市長選挙で、青果店経営の元島原市議会議員の古川隆三郎氏(56歳)が当選されていた。

現職との戦いだったが、2000票以上の差で当選されている。

民間人の経営感覚を市政に導入する事が出来たならば、従来より進められている割高な新庁舎建設も、再度検討しなおすことも出来るだろう。

従来からの利権構造を断ち切る事が出来れば、島原市に住んでおられる一般の人たちにとっては、明るい光が差し込む事になるのかもしれない。

しかし、今回の選挙で落選された横田修一郎氏が残された、市民にとっては有益な施策である「休日開庁」による市所窓口業務の実施は、横田氏の実績として評価すべきだと私は思う。

雲仙市などは、そのような事は全くやる気がない。

市民のための市役所ではなくて、単なる市役所職員の働き口としての職場になってしまっているようにも見受けられる。

元市長は、市役所内での公金の不正支出に対する責任意識もないかの如く、市長の職を辞して国政選挙に出馬している。

しかも、古巣の組織の先輩が、先に出馬の意向を固められて活動されているにもかかわらず出馬したということは、周りの風を見ての思いつき出馬の様にも受け取れる。

退路を絶っての無所属からの出馬と言えば聞こえはよいが、市長の職務の任期途中での、選挙への出馬のための辞職というのはいかがなものかと思う。

愛野町では、その選挙カーに、そっぽを向いた人も居るという話も聞いた。

雲仙市役所の建設問題に際しては、旧愛野町に住む多くの市民は、彼の決断によって愚弄された経緯がある。

合併前に旧7町で取り決めた合併の理念を反故にしてくれた。

地域住民による合併の理念を反故にするような人が、仮に国政に参画出来たとしても、地元としては多くを期待することはできないのではなかろうか。

また最近では、長崎県内近隣の市の市長は、元県議会議員や県の要職を歴任した人の天下りポストのような風潮になっていた様な感がある。

もちろん、選挙によって住民の多数から支持された方々ではあるが、その経歴から、官僚的な常識に基づいた施策の推進しか出来なかったということにもなろうかと思う。

それに比べれば、青果店を経営していて元島原市議会議員の古川隆三郎新市長の誕生は、島原市の行政に、庶民感覚に基づいた施策を展開される可能性をおおいに期待できるのではなかろうか。

古川氏が本気で行政改革に臨まれるのであれば、まずは特別職の市長や市議会議員の報酬額や、市役所職員の給料の削減から始められたら、市民目線の政治という言葉を市民の方々に信用して納得してもらうことができるのではないだろうか。

市長が提案し、市議会で決定し、組合が承諾すれば、すぐにでも実現可能な施策である。

既得権益を享受している人々の猛烈な反対があるということは、容易に想像できるが。

公務員は、地方の大多数の中小民間会社の実情を直視することから始めなければ、自分たちの行き過ぎた優遇され具合が理解できないだろう。

優遇された月給のほかに、冬のボーナスが平均で80万円に近い額だと新聞は報じていた。

庶民からむしりとった税金で、公務員がのうのうと優雅な生活をしていて、多くの自治体の財政が逼迫して借金を重ねているというような構図は、好ましい国家のあり方であるとは思えない。

島原市民の方々の選択が、そのような事柄を払拭するための端緒となることに期待したい。



豊田一喜










早帰り

2012年12月10日 | インポート
遺跡の発掘現場のアルバイト作業員として働かせてもらうようになってから、初めての早帰りをさせてもらった。

最近では、定時に作業が終わっての帰宅途中で、車のヘッドライトを点灯しなければならないようになるぐらいに日の入りが早くなったが、晴れた日の15時過ぎという明るい内の帰宅だったので運転もしやすかった。

隣りの家の方が一昨日亡くなられたので、昨日仮通夜があり、本日が御通夜ということで、葬儀場である御通夜の受付の手伝いをするために早帰りをさせてもらった。

30戸ほどの町内会の中で、私たちの親の世代が、櫛の歯が抜け落ちていくように亡くなっていかれる。

子どもの頃から慣れ親しんだ顔が、遺影の中でしか見られなくなっていく。

戦争という悲惨な体験をしてこられた世代で、ほとんどが、機械化があまり進んでいなかった頃の農業で過酷な肉体労働をしてそれぞれの生活を支え、私たちの世代を育ててくれた人達でもある。

ほとんどの人が私の親と同じように、農閑期には現金収入を得るために土方をするなどして、それぞれの生活を維持するために働いてこられた。

そのおかげで、私たちはひもじい思いをすることもなく育ててもらった。

果たして、死後の世界がどのようなものであるのかは分かりはしないが、あの世という世界があるのだとすれば、現世の苦痛や苦悩から開放されて、やすらかに休んで頂けるように祈らせてもらうしかない。


豊田一喜






















ゴム長靴

2012年12月09日 | インポート
6月に1280円で購入したゴム長靴を履いて作業をしていて昼休みにそれを脱ぐと、最近では靴下が湿っている事が多かった。

足から出た汗で湿っているのだろうと思っていたが、数日前には靴下の底が泥で汚れていたし、靴下の湿り方がひどかったので、もしかしたらと思ってゴム長靴の底を見たら、そのかかとの底に小さな穴が開いていた。

何か鋭利な物を踏んで開いた穴ではなくて、かかとの部分のゴムが磨り減って開いた穴だった。

材料を節約するためであろうと思われるが、かかとの部分のゴムは、成型する段階で、中の方が中空になるような構造で製造されていた物だったようだ。

ゴム長靴の側面も、ゴムの劣化によるものと思われるひびが割れたが、それは瞬間接着剤を充填して、表面をコーティングするようにして修理する事はできた。

しかし、かかとの底の穴の修理は出来そうにもないし、作業を続けるためにはゴム長靴は必需品なので、新しいゴム長靴を買うことにした。

費用対効果で見ると、1280円でおよそ6ヶ月もってくれたので、充分に元は取れているのかもしれないが、昔の製品に比べれば、耐用年数が短いような製品が多いように思う。

作業現場の他の人たちも、長靴から水がしみるようになったという話をよく聞くようになった。

じっくりと見比べて、冷たい冬に備えて、今回は少し奮発して1980円のゴム長靴を購入した。

作業が終わる2月の末ぐらいまでは、充分に漏らないでもってくれるとは思う。



豊田一喜








選果と箱詰め

2012年12月08日 | インポート
また、新しい体験をさせてもらった。

昨日の楽しい集まりのあとに、友人とふたりで泊めていただくお礼に、労力でお返しをさせてもらうことにしていた。

朝食をご馳走になってから、その作業をさせてもらった。

ダンボールのみかん箱の表の面を大きなホッチギスで留め、箱の上面と下面を逆さまにして選果済みのみかんを並べ、規定の重さになったら箱の裏の面をホッチギス留めするという作業だった。

中身入りのみかん箱が宅配便で届いた時には、箱の表の面から開くが、その時にみかんが整然と並んで見えるようにそのような手順でみかんを詰め込むのだと。

みかん箱を開いた時の最上面の一段目には葉付きのみかんを並べるというのが、みかんの購入者に対するその方の特別な配慮なのだと聞いた。

葉っぱが付いている市販のみかんはあまり見かけないので、珍しがられるのだそうだ。

予定していた数量の箱詰め作業のあとは、収穫したままでコンテナに入れて積み上げられていたみかんの選果のお手伝いをさせてもらった。

選果台の上に広げたみかんの中から、小玉のみかん、傷が付いているみかん、形状が良くないみかん、表面の色が芳しくないみかんなどを選り分ける作業だった。

3人で流れ作業的に選別したら、午前11時ごろには予定されていた作業は終了した。

お土産に、またまた袋にいっぱいのみかんなどをいただいて帰った。

楽しかった集まりの翌日もまた、楽しい初体験をさせてもらって、有意義な時を過ごさせてもらった。


豊田一喜


雷電(ライデン)の甘い歌声

2012年12月07日 | インポート
印象に残る甘い歌声だった。

澄んだ雄大な湖の表面に広がる波紋を連想させるような、個性的な声質だと感じた。

何よりも、楽しみながら自由自在に声帯を駆使して歌っており、聴いている者を引き付けて魅了する。

彼が活動しているグループの名称は「雷電(ライデン)」というそうだ。

5人のグループで、グループの中では彼が一番年少で、他の4人は20歳代という構成だという。

若者のグループなのに、「雷電」という漢字のネーミングもなかなか良い。

私の年代では、雷電という言葉から連想するのは、江戸時代の大相撲史上未曾有の最強力士とされている相撲取りの雷電為右エ門ぐらいだが、ネットで「雷電」を検索したら、「雷電」を冠した多くの電子ゲームがある事を知った。

おそらく、その辺からの関連で付けたグループ名だろうとは思われるが、雷(かみなり)のように強烈にとどろき、稲妻のような電光を発するような音楽性を目指しているのだろうとの推測は出来る。

アルバイト作業の現場に、プロのミュージシャンを目指している若者が居るということは聞いてはいたが、その歌声を聴かせてもらうのは初めてだった。

正直な所、60歳に近いおじさんは、最近では珍しく、若者が歌う歌を聴いて感動してしまった。

今は近隣の地域のみでの活動らしいが、近い将来には、もっと脚光を浴びる場所で活躍する存在になっていて欲しいと思う。

老齢に近付きつつある身としては、将来を夢見て輝いている若者の姿を、まぶしいとさえ感じる。

勝手に、私的な応援団の会員ナンバー1号を名乗らせてもらうことにしよう。

気の合う人たちと、とても楽しい時間を過ごさせてもらった大村市の「富浦屋(とみうらや)」で、そんなことなどを思った素敵な日だった。



豊田一喜










手渡し

2012年12月06日 | インポート
測量の作業が午後1時半ごろには終わったので、その後は自分の班に戻っての作業になった。

ベルトコンベアーの根元付近に集積した石を、手渡しで移動させ、ベルトコンベアーを越した道路側に集積する作業から始めた。

10人ほどで列を作り、テンポよく石を手渡しでリレーしていくと、適度に体が温まる。

友人が以前に、石運びのリレーはなかなか楽しい作業だと言っていたが、実際にやってみるとやはり楽しい作業だった。

30分ほどで、適度に体が温まるような楽しい石の手渡し移動の作業は終了した。

次は、掘削した土砂の運搬係をやらせてもらった。

ホゲ(手箕:てみ)に集めた掘削土砂を一輪車に積み込み、ベルトコンベアーまで運んで流す作業では、厚着をしている服の中には汗が出た。

作業を継続している時は調子が良かったが、休憩時間になると汗が冷えて冷たくなったので、作業開始の号令がかかるのが待ちどうしかった。

作業を始めると、程なくして体が温まり、冷たくなった汗も再び温かくなり、調子よく作業を続ける事が出来た。

じっとしている時間が長い測量の作業では、風の冷たさがかなり堪えるが、適度に体を動かす事が出来る土砂運搬の作業では、適度に温まることも出来る。

体を動かしていると、時間が過ぎるのが速く感じた。

手渡しと言えば、以前に働かせてもらっていた組織では、最近では珍しく、給料を手渡しで貰っていた。

手渡しで給料を貰った日の帰りには、少しだけ豊かな気分になり、家族にショートケーキなどを買って帰っていた。

暑い季節には、早く涼しくならないかと待ち望んでいたが、寒くなると夏の暑さが懐かしい。


豊田一喜




熟慮後の決心なのだろう

2012年12月05日 | インポート
今朝の新聞を見て、驚き、爽やかな気分になった。

衆議院議員選挙で、私が投票できる長崎2区から出馬される人のところを見ていたら、昨日の朝までに報道されていた人数よりも1人多い。

加藤氏、矢崎氏、川越氏、奥村氏の4名の立候補予定者が立候補されるものとばかり思っていたが、他に、元小長井漁業協同組合長の森文義氏という方が立候補の届出をされていた。

昨日の午後4時過ぎに長崎県庁で、衆議院議員選挙への立候補の届出をされたのだと書いてあった。

熟慮の上での決心だったのだろう。

何の関わりも面識も無いが、目標とされていることを読んで、迷いがなくなった。


以下は、森 文義さんに関する記事の転写。


いさかいの海 閉め切り15年 諫干を語る・上/元小長井町漁協組合長 森文義さん(63)

「天罰」"宝"売り人生狂う

 潮受け堤防排水門に漁船で突っ込み「開門」してやろうと考えたことが何度かある。

でも分厚い排水門を見てあきらめた。

「こりゃ、船が沈むだけだなと。今はその船もないけどさ」。

諫早湾を見詰めながら笑った。

 今、横浜に住み定職はない。わずかばかりの年金と、それだけでは暮らせないから地下鉄工事などの現場作業員を転々として生計を立てている。

「"海を売った男"のなれの果てさ」。

でも、そう言いながら、自身では惨めだとは全然思わない。

 1981年、32歳で当時全国最年少の組合長になった。

若い組合員が多く、目の前は高級二枚貝タイラギなどの漁場としてずばぬけた漁獲を誇る、まさに"宝の海"が広がっていた。

 漁港近くに海産物加工工場を構え、多いときは約100人の従業員を雇った。

年商約3億円。建坪130坪超の家も建てた。

 だが、順風だった人生は諫干事業が動きだし狂い始める。

湾内の漁協は次々と事業に同意したが、最後まで抵抗した。

タイラギ漁師の稼ぎは少なくとも年2千万円。反対は当然だった。

 それでも同意せざるを得なかったのは周りからの圧力が強まったことと、防災が目的と言われてやむなくだった。

「最後は全面的に海が消えるわけではないと自分に言い聞かせたね」

 でも残った海にはすぐに異変が起きた。

試験堤を造るという名目で実質的に潮受け堤防の真ん中から工事が始まった。

環境に配慮するからと小型船が石をピストン輸送をする約束だった。

ところが大型輸送船がどんどん来て漁場を荒らす。だまされたと感じた。

 「官僚は本当に頭がいい。船はこのルートを通るなと言ったら言葉の裏を返して『漁協から要請された』と別のルートは容認したことになってしまう」。

そうして国を動かすんだと感じた。

 タイラギの稚貝は全滅。

アサリも激減した。金を稼ぎ出す海はもうそこにはなく、「天罰だ」と思った。

受け取った補償金もすぐになくなった。

妻子と別れ、55歳の時、町を出た。

 それから1年ほどたったある日の未明、東京の線路工事現場で警備をしていた時、帰宅途中のスーツの男に目がとまった。

組合長をしていた時に折衝相手だった農水省の官僚だった。

呼び止めると「ここにいたんですか」と驚いた。

返す刀で約40分間説教した。

現場監督が飛んできて「仕事しろ」とこっぴどく怒られた。

でも、言わずにはいられなかった。

「おまえら一人勝ちであんまりひどいんじゃないの」と。

 その国も今、開門義務を負い立場が苦しい。

「今までのつけが回ってきたのさ」。

そう感じている。

 ◆ 

 国営諫早湾干拓事業に伴う潮止め工事から14日で丸15年。

あの日、さまざまな立場で現場を見つめた関係者に今、何を思うのか話を聞いた。


以上は、森 文義氏に関する記事の転写。

人柄をうかがい知る事が出来る記事だと思う。

立候補に際して、諫早湾干拓の潮受け堤防の排水門は、裁判の結果どおりに開門すべきだという主張をされている。

法治国家において、地元の人たちが、かたくなに裁判の結果に従わないことを当たり前の様にしていることに対して疑問を感じていた。

国が命じている開門調査は、地元にとってはむしろ歓迎すべきような内容を含んでいる。

開門に際しては、前準備としての旧来の干拓堤防の補強や、制限付きの調査方法や、溜池の築造などによる代替水源の確保や、開門調査に起因する災害で損害を受けた場合の国家からの補償のことなど、国はきちんとした方針を伝えようとして、話し合いのテーブルにつくように地元に再三言ってくれている。

しかし、開門調査をすれば、そのことによって諸般の被害が生じるのだということで反対している。

諫早湾干拓の調整池に面している旧来の干拓堤防は、開門調査をしてもしなくても、老朽化しているので、補強工事を実施しなければ、その周辺低平地に居住している私たちにとっては安心して生活することは出来ない。

長崎県や雲仙市や諫早市で、そのような工事をするための予算を捻出する余裕などは全く無いはずだ。

そのような公共事業を、国家がやってくれようとしているのに、それを実行することも出来ないような地方自治体が、かたくなに反対している。

経営計画などの厳正な審査を経て入植したはずの諫早湾干拓の大規模農家の中には、干拓地の土地のレンタル料の未納者がかなりの比率でいるのだそうだ。

多額の補助金を受けて大型の農業機械などを購入して、国際競争力をつけるのだなどという謳い文句で営農しているはずだが、高くも無い土地のレンタル料を未納しているのだと聞けば、あきれ返ってしまう。

公的な土地を借りている者の義務を果たしてから自己主張はするべきだろう。

水門なのだから、当然の事ながら開閉が出来る。

最近の詳細な気象予測技術により、豪雨などの予測は相当正確になっている。

そのような気象予測に従って水門の開閉をコントロールすれば、洪水被害などに見舞われる可能性はほとんど無いのにもかかわらず、開門をすれば被害をこうむるというような洗脳をして、開門調査を阻止しようとしている集団がある。

調整池の中の水質は今のままでは永久に改善されはしない。

潮水を出し入れして干潟を回復させるしか、下層が潟土の閉鎖性水域における水質浄化の方法は無い。

開門調査に関する、地元の建設関連業にとっては救世主的な、国家が実施する公共事業が眠っているというのに、自分たちのことだけしか頭に無いような人たちが、地域の経済活動の活性化を阻止しているような構図が今の長崎県の様に思える。

森 文義さんの立候補により、明確な意識を持って、12月16日に2枚の投票用紙に記入する内容は決まった。


豊田一喜














鼻水が出るような寒さ

2012年12月04日 | インポート
寒い日だった。

曇り模様の作業現場で、風が吹くと、なおさら冷たさが身にしみた。

お日様が出ると、いくぶんかは暖かくは感じたが、鼻水が垂れてくるような一日だった。

小学生の頃には、11の字の様な鼻水を垂らしている子どもも何人かはいたが、最近ではそのような子どもはあまり見かけなくなったように思う。

服の袖口で、11の字のように垂れた鼻水を拭くので、袖口がテカテカになっている服を着ていた情景を見ることもあった。

子どもの頃は、靴下を履くのが嫌いだった。

冬に靴下を履かなくとも、それほど冷たいとは思わなかったから。

小学校に入る前ぐらいの頃には、靴下をうまく履く事が出来なくて、「靴下ば履ききらん」と言って泣きべそをかいていた記憶がある。

今は、靴下を2枚重ねて履いているが、家の中でも靴下を脱ぐと足先が冷たくなってしまう。

昼休みの休憩棟の中は、暖房が効いており、極楽の様だったが、首から上に寒さを感じた。

そのような時には、タオルを首にかけて、首の後ろを乾布摩擦すると暖かくなる。

4~5回タオルを往復させるとすぐに暖かくなり、そのままタオルを首に巻いておくと寒さも軽減できる。

夏の外業の暑さは耐えるしかないが、冬の寒さは、服を着込むなどして色々と工夫すれば何とか対処は出来る。

北海道や東北地方の雪国で暮らしている人たちに比べれば、私たちの身の回りの寒さなど序の口だろう。

鼻水が出るような寒さも、これからが本番になっていくが、鼻水を垂らしながらも健康で働ける体と職がある事に感謝。



豊田一喜










軍艦島(端島)

2012年12月02日 | インポート
最近届いた「写真測量とリモートセンシング」という、日本写真測量学会が発行している学会誌の表紙に、軍艦島(端島)の画像が載っていた。

以下は、その表紙説明文。


表紙は端島(通称軍艦島)を3Dスキャナで計測したものである。

軍艦島は、長崎半島の西方海上にある面積6.3haの小島で、かつては海底炭鉱によって栄え東京以上の人口密度を有していたが、1974年の閉山以後無人島となった。

大正から昭和の各時代を反映した鉄筋コンクリート構造物が残存し、産業遺産となっている。

長崎大学インフラ長寿命化センター(松田浩センター長)は「軍艦島の鉄筋コンクリート造高層建物群の環境劣化調査と安全性評価に関する研究」を実施しており、3Dレーザスキャナ(Riegl VZ-400)を用い計25箇所から計測を行なった。

そこに3D点群を球体表示することで構造形状がより把握しやすくなると考え、球体表示ビューワ「Macaron(ビジュアルツール(株)」で描画した結果、3DCADでモデリングしたものと同等に詳細部材まで表示可能である事が確認できた。(使用機器:RIEGL社製 VZ-400)


以上は、表紙説明文。


阪神・淡路大震災が発生した年の前の年から、諫早市内の長崎ソフトウエアーセンターという建物の一部を借りて入っていた扇精光株式会社の事業開発室で、航空写真測量の技術指導者ということで働かせてもらっていた。

その時に、扇精光株式会社が長崎県から受注していた「海岸台帳」作成のための航空写真測量を実施した海岸のひとつが端島(軍艦島)だった。

釣り船用の漁船をチャーターして端島に渡り、その漁船が迎えに来るまでの時刻までに測量作業を終えなくてはならなかった。

航空写真測量では、復元されたステレオモデルにおける水準面の規正と微調整のために、一部において、簡易水準測量という標高値を把握するための測量を実施する必要がある。

水準儀(レベル)を使っての水準測量で、標尺を立てた位置を、撮影計画に基づいて撮影された航空写真の2倍伸ばし写真画像の上に、刺針しながら進む作業になる。

端島の外周を囲んでいるコンクリート製の堤防の上に水準儀(レベル)を据えて、島を一周するという測量で、島の船着場の付近に設置されている標高の基準点から出発して、島を一周し、又その標高の基準点まで戻ってくるという測量だった。

当然の事ながら、標高の基準点から出発して、島の堤防の上を尺取虫の様にして水準測量を進めて行き、又その標高基準点まで戻ってきた時の水準測量による計算値が、所要の精度内に入っていなければならない。

島の堤防の上を左回りに測量して回ったが、右側は海面までかなりの高さがあり、高所恐怖症の自分にとってはあまり気持ちの良い状況ではなかった。

チャーターしていた漁船が迎えに来るまでの時刻に、所要精度にて測量を終える事ができた。

そのような思い出のある端島(軍艦島)だが、写真測量学会誌の表紙に載っている最近の端島(軍艦島)の現況は、測量をした当時の状況とは若干変化しているようだ。

観光資源としての活用のために、測量した当時は海だった一部分に、見学道路が新設されていて、端島(軍艦島)の面積が増えているようだ。

当時、測量して回った島の外周の堤防の一部は倒壊していて、その外側を締め切るようにして、堤防のような構造で見学道路が新設されており、海底だった部分の石が露出している様子がわかる。

面積が12平方キロメートル弱(わかりやすい長方形で表現すれば3km×4kmの広さ)の旧愛野町の現在の人口がおよそ5500人ぐらいだが、それと同じぐらいの人たちが、わずか6.3ha(わかりやすい長方形で表現すれば、100m×630mの広さ)の島の中に住んでいた時代があったということ。

必然的に高層建物群の建設によるしかそれらの数の人々を収容するすべはなかったゆえに、高層建物群が建設された。

石炭がエネルギー源として重視されていた頃の産業遺産ではあるが、現代の人類においては制御不能な原子力に頼らずとも、その気になって取り組めば、我が国のエネルギー源の選択肢は色々あるはずだ。

産業遺産の端島(軍艦島)がその事を象徴しているように思える。

なお、日本写真測量学会のホームページの閲覧は以下で。
http://www.jsprs.jp


豊田一喜












誕生日の想い

2012年12月01日 | インポート
母の84回目の誕生日だった。

父の誕生日と同じだが、父は27年前の、あと3ヶ月で60歳になるという時に59歳で他界した。

生きていれば、本日で87歳になっていることになる。

自分も、あと2ヶ月もすれば父が他界した年齢に到達する。

私たちの世代は、戦後生まれで、食糧不足によるひもじい思いなどはしたことが無かった。

貧しくはあったが、両親が農業をして育ててくれたおかげで、なにかしら食べる物はあった。

白米がしるし程度に入っている麦ご飯だったり、サツマイモのぶつ切りで嵩を増やしたはっちゃん飯だったり、畑から抜いてきた野菜だけの野菜炒めだったりの頃もあったが、ひもじい思いをしたことはなかった。

小学校では学校給食があり、栄養バランスを考えた昼食を食べることができた。

子どもの頃は、田植えも稲刈りも手作業で、農繁期にはその手伝いも農家の子どもの義務のようにしてやっていた。

旧諫早干拓の田んぼは、長辺が80メートルもあったので、5株ずつを刈り倒してゆく稲刈りの時には、一列の稲刈りをするのにかなりの時間を要し、腰が痛くなるので、何回も腰を伸ばさなくてはならないような、とてもきつい作業だったことを思い出す。

その後、自動的に稲刈りをして束ねるバインダーという稲刈り機の登場により、稲刈りの速度が格段に速くなり、稲刈りの作業も楽になった。

田植え機の登場により、田植え作業も楽になり、農家の人たちの肉体的な負担も軽減された。

脱穀機も、1箇所に固定して、発動機の回転をベルトで伝えて脱穀する方式のものから、ハーベスターという、キャタピラーの付いた移動可能な脱穀機が登場した時には、画期的な農業機械が出現したものだと喜んでいたが、私が住んでいる近隣の地域ではあまり長い期間使われることもなかった。

ほどなくして、稲刈り、脱穀までを一気に処理できるコンバインという機械の登場で、近隣の農家はほとんどがその機械を購入して使うようになった。

私の父も、亡くなる前の年の秋にはコンバインを購入して、一年だけはコンバインによる米の収穫を経験している。

私は、若い頃には東京や大阪で暮らしていたが、米の収穫期には毎年、少しだけ長い休みをいただいて、収穫の手伝いに帰郷していた。

コンバインを購入する前の年の収穫期にも帰郷して、米の収穫の手伝いをしたが、周りの農家がコンバインを使って米の収穫をしている姿を、うらやましそうな目で見ながら、バインダーで稲刈り作業をしていた父の姿を思い出す。

父は、農閑期には隣町の森山町の石切り山で、ケンチ石を割る仕事をして家族の生計を支えてくれた。

そのような生活の中で、何年にもわたり、石の粉を肺の中に吸い込んでいたものと思われるが、死因は硅肺のような肺癌から肝臓に転移した癌によるものだった。

徴兵されて戦場にも赴き、生きながらえて帰国して家庭を持ち、私たち4人の子どもを育てて、やっと楽に暮らせるかも知れないような年代になった時に、2週間の入院生活であっけなく他界してしまった。

それでもそのような経緯がなければ、私と私の家族は故郷には帰って来ていなかったかもしれない。

色々な縁(えにし)で結ばれて今があるのだろうと思う。

生んでくれた母がいたから自分は存在している。

自分はこの先、何回の誕生日を迎える事が出来るのかは分かりはしないが、せめて70歳ぐらいまでは生かして欲しいとは思う。

65歳から年金を受給できて、70歳まで生きる事が出来れば、払い込んだ年金の掛け金の元は充分取れるから。



豊田一喜






















200円で酔える男

2012年11月30日 | インポート
私のこと。

仕事帰りに、諫早市長野町のドラッグストアーコスモスに、例の如く、友人と二人で寄って買い物をした。

1本598円のビストロという名の、ペットボトル入りの赤ワイン1本と、白桃味チューハイ2本、梅酒味チューハイ2本を買って帰った。

土曜日・日曜日は、遺跡発掘のアルバイトの仕事が休みだから、花の金曜日の夜ということで、気分は公務員なみで、収入は同年代の公務員の5分の1以下という自分も、ゆったりと酒でも飲もうと思った。

1本79円の白桃味チューハイ1本と、梅酒味チューハイ1本と、ビストロというワインをコップに一杯、妻が作ってくれた、おいしい晩御飯を食べながら飲んだ。

缶チューハイは、ジュースのようで飲みやすく、コップ1杯のワインも、これまたジュースのような感覚で飲み干してしまった。

それだけで、晩御飯を食べ終える頃には、ほろ酔い気分になる事が出来た。

コップ1杯分のワインを42円として計算すれば、缶チューハイが2本で158円、合計で200円。

私は、200円で酔える男であることが自分で認識できた。

稼ぎが少ない分、安上がりに出来ているのかな。

本日は、大村市の公民館講座の方々の竹松遺跡の見学と、大村市中央小学校6年生の生徒さんたちの遺跡見学・発掘体験があった。

あまり寒くはなかった一日だった。

Iさんは、他に職が決まり、東京に行かれる事になって、Mさんも他に職が決まって、本日まででお別れになった。

来週からはTさんが職場に復帰される。





豊田一喜