蓼食う虫ブログ

我々が芸術と出会うとき -『隠喩としての少年愛』(水間碧)を参考に

 皆さんは普段、小説、絵画、音楽、映画等の芸術とどのように接していらっしゃるのだろうか。これは、読後、私にそうした疑問を起こさせた本である。ここでは、少年愛芸術の隆盛、おこげ現象など、主に女性が男性同性愛を好むことについて、その理由を、フロイトやユング派が確立した無意識についての心理学に基づいて、「少年愛」が「"母"から心理的に分離し自立するためのスプリングボードとして」機能する隠喩的なモチーフであるから、と結論している。近代になって少年愛嗜好が顕在化したのは、その時代が抱える特有の問題が人類の無意識に潜んでいる神話に働きかけ、少年愛ファンタジーを呼び覚ましたからである。(心理学についてはよくはわからないが、こういった解釈でよいと思う)
 さらに、少年愛を好む人々が、揶揄と嘲笑にさらされやすく、批評言語において、「作品とその読者を混同して語る」ことの問題点を指摘している。詳しくは、実際にこの本を手にとって読んでみていただきたい。
 最初の疑問に戻ろう。芸術への接し方はどのようなものがあるのか。芸術には、暴力的あるいは性的な描写が多く見られ、それを問題視する声も大きい。しかし、それらの捉え方は人それぞれである。たとえば、それらのモチーフを、単なる記号として捉えるか、作品世界に没入して、残虐な事柄をそのままそういった物事として捉えるかでは、作品とその読者との距離の違いは明白である。この本にも書かれていることだが、たとえば少年愛ものを好むといっても、読者が少年愛モチーフをどのように捉えているかは一様ではなく、ましてや少年愛モチーフを語ることと、実際の男性同性愛について語ることとは同じでないのはいうまでもない。よく、「文学は実学」といわれる。が、たとえば、作品に犯罪の方法が書いてあるからといって「実際にそれをせよ」といっているわけではないし、倫理的でない性的関係が描かれているからといってそれを実際にせよといっているわけではないことは当たり前である。また、非道徳的な芸術に接しているからといって自分を卑下したり、貶められたりする理由は皆無である。少年愛モチーフが、読者の持つ無意識レベルの葛藤を解決する可能性を秘めている限り、この嗜好を健全に保護しなければならない。さらに、少年愛に対する視線を相対化する試みとして、男性がもっと少年愛モチーフを語る時代になってもよいと思う。
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