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9月の夜雨は、アスファルトから熱気を奪い、その独特な匂いと不快感をぼんやりと立ち昇らせる。
予想外に残業が長引いた。女は、殆ど車の通らない暗い道を急いだ。
路地裏を曲がると、その少し先に男が一人、ガードレールに腰をかけていた。持て余すように前に投げ出している長い脚が、男が長身であることを物語っている。足元に目線を置いたまま、ポケットに手を入れ、楽しそうに鼻歌を歌う男。
女が男に近づくにつれ、その聞いたことのあるフレーズが第九――歓喜の歌であることが分かった。
――それまでの完成された世界の全否定と、強烈な不協和音、そこから脱して初めてこの最高の音楽が誕生するんだよ――
あの人の口癖、女はそんなことを思い出していた。
傘も差さず、どれくらいそこにいたのだろう。街灯に照らされた金色の髪が濡れそぼり、雨粒が光を反射していた。
男が気配に気づき、目線を女に向けた。光を通していない、それでいて美しい琥珀色の瞳。薄い上唇は、真一文字に結ばれている。怖い、一瞬女は身震いした。
「よっ」
男は軽やかにガードレールから降り、右手を挙げた。いつものように歯を出し、女に笑顔を向けている。怖い、と感じたのは気のせいだったのか。
「何だ、啓司じゃない。びっくりした」
人通りが少ない路地を一人で歩いていた心細さに解放されたこともあり、女は安堵した。相手が啓司だったこともある。
啓司は、女が最近付き合い始めた恋人の友人だった。長身に加えて骨太で程よく鍛え上げられた筋肉質の身体、鋭い眼光で強面の男らしい顔、自分をよく知った上で流行をとらえて着こなした服装。その文句なく男前の外見に反して、話してみると屈託なく笑い喋り、時々天然を発揮する。その親しみやすさで、女にとって啓司は和む、そして少しだけ意識してしまう存在になっていた。
何より、啓司は喧嘩が強い。これでもう安心だ。
「傘もささずにどうしたの? 私を待ってたの?」
「あぁ。そろそろ帰るころだと思ってさ。こんなに降ると思ってなかったから。へへっ」
啓司は、濡れて重くなった頭を仔犬のようにブルブルッと振り、周囲に水しぶきが飛び散った。
「くすっ」
女が思わず笑みを零した。啓司が濡れないよう、自分がさしていた傘を啓司に向ける。
「何?」
「かわいいなって」
「こんなおっさんに何言ってるの」
啓司がわざと片眉をあげた。
「ふふっ、照れてんの?」
「……うっせー、バーカッ」
照れて真顔になる啓司もかわいいと思えた。
「で、どうしたの? 私に何か用事があったから待ってたんじゃないの?」
「あぁ、そうだった」
啓司がまたへらっと笑う。
「もう、まさか忘れちゃったとか?」
いい加減な啓司にはよくあることだ。啓司はまだ笑っている。女もつられて笑った。
「……いやぁ、ねぇ」
「何? 言いにくいこと?」
「そんなことないけど」
くぐもった啓司の声。一呼吸おいてまたにやけた。
「俺にしたらどうかなぁって?」
「えっ?」
女は、啓司の言葉を理解できなかった。
「だって、あいつ、もうお前のこといらないんだって」
「彼がそう言ってるの?」
ヘラヘラと歯を出したままでとんでもないことを言う啓司に、耳を疑った。 信じられなかった。
「かわいそうに。俺、お前のこと気に入ってたのになぁ」
「えぇっ?」
啓司は何を言っているのだろう。突然のことで訳が分からない。
「お前、いい女だし」
「ねぇ、一体……んっ!」
言葉が終わらないうちに、啓司は女の唇を奪った。女は啓司の胸を叩き抵抗を示すが、もちろん啓司はびくともしない。唇を貪るように塞ぐ。長く激しい口づけに息苦しくなり、少し口を開ける、その瞬間を逃さず、啓司の舌が女の口内に滑り込んできた。啓司は巧みに女の口内をくまなく蹂躙していく。
女は抵抗をやめ、激しく動く啓司の舌の動きに必死についていった。崩れ落ちそうになる女の腰を啓司の大きな手が支え、女の身体を引き寄せる。
「んっっ」
漏れる息。強くなる雨音。時折ヘッドライトが二人の足元を照らすが、向こうからは死角になっていてこちらは見えない。
啓司の香水が雨とアスファルトの匂いを掻き消し、女の鼻腔をも犯していった。無我夢中で、ここが外であることも身体が濡れて冷え切っていることも忘れていた。
啓司がようやく唇を離したとき、女は息があがり、肩が上下していた。濡れた瞳でうっとりと啓司を見つめる。
それは、女が堕ちたとき。
「ごちそうさま」
啓司は、おいしかった、と女の赤いグロスと唾液で濡れ光った唇を、骨ばった手で無造作にぬぐった。その仕草はとんでもなく男の色気を放っていた。
「じゃ、バイバイ」
それが、啓司が女に発した最後の言葉。
何が起きたかわからなかった。
「けい、じっ…」
それが、女が発した最後の言葉。
いや、女は途中までしか音を放つことができなかった。
啓司がポケットからバタフライナイフを取り出した瞬間、シュンッという風の音とともに、女の喉が掻き切られた。女の首の穴からヒューヒューと空気が漏れる。
女が最後に目にしたのは、啓司の妖しく光る琥珀色の瞳、いつも彼が左耳につけている十字架(クロス)のピアス、そして、顔中に自分の血が飛び散った彼の微笑み。
啓司が手を離すと、物体と化した女の身体がアスファルトに倒れこんだ。
男は、片方の口角を上げたまま、女の血がベットリとついたバタフライをひと舐めする。
「ごめんねぇ。あいつが殺れっていうからさ」
男はいつものようにヘラヘラと笑い、その場を後にしていった。雨にうたれ、歓喜の歌を口ずさみながら。
End
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