日本史疑

北条・織田・徳川の出自―「文字は死なない」

Ⅱ第4話 二月騒動について 3

2012-11-02 | 日本史
 『愚管抄』巻第六に拠ると牧の方の事変において事変の処置をリードした者は北条義時と偏諱を通有する三浦義村であるとし、実朝暗殺における後鳥羽院の近臣であった忠綱や平頼盛の息らを介した三浦義村の陰がちらつき、摂家将軍の推戴を唱道した義村を『抄』は特筆している。
 『吾妻鏡』が治承・寿永の内乱期に小山朝政に敗れて山陰道を経て西海道へ落去したとする藤原秀郷流の足利忠綱が後鳥羽院・近臣の前身であったと憶測するならば、実朝の右大臣拝賀式の挙行された鶴ヶ岡へ参列する為に鎌倉へ下向した平頼盛の息である光盛は宝治合戦後に存続した三浦義村の従弟の息とされる者と同一人であった可能性が有り、三浦氏の系譜にて三浦郡芦名郷を本貫とした光盛の弟を盛時と伝える点、宝治合戦後に北条得宗被官として侍所所司として顕れる盛時とは三浦郡へ入部した平頼盛の息・光盛にとって弟となり、『抄』が後鳥羽院・近臣である忠綱と謀議を為していたかとする源頼政の孫を"誅殺"した盛時と同一人であった可能性がまた有る。
 三浦義村の従兄となる和田義盛を討った合戦にて軍奉行を任じた者もまた義村と偏諱を通有する二階堂行村であったが、行村の息である行方は初の皇族将軍となった後に京都へ追却された宗尊親王の御所奉行を務めており、二階堂行村の後裔が楠木正成の詰城へ寄せながら足利尊氏の六波羅探題攻略に至るまで正成の詰城陥落を延引させた貞藤であった。
 五味文彦東大名誉教授に拠ると、『吾妻鏡』の編纂は二階堂行村の兄・行光の後裔となる行貞が平禅門との関係を譴責されたものか禅門の討滅直後に政所執事を罷免された後に、再度復職した1302年に行村の後裔らと抗う格にて成されたものと云う。
 為に『鏡』は三浦氏討滅において当初三浦義村と通謀していたかと思われる平盛時が北条氏側へ左袒したことを賞して盛時の兄・光盛が入嗣した芦名氏の家祖となる佐原義連を顕彰する記事を揮っており、対して京都へ任官していた大江広元の息である長井時広が平光盛ともども実朝の右大臣拝賀式へ参列する為に鎌倉へ下向するも官を続けるべく帰京の嘆願を二階堂行村へ依頼したが、朝廷を優位に捉える時広の考えに激怒したとする実朝の反応を踏まえ時広の再度に亘る執り成しの要請を峻拒したとする記事など、『鏡』の編纂をリードした主流派・行貞による反主流派の祖への貶奪が看られる。

 北条泰時の長子である時氏は三浦義村の女を母とし安達氏を室としたが、時氏の妹は宝治合戦で滅ぶ三浦泰村へ嫁しており、北条得宗被官となった平盛時は一般に時氏の母が同族である佐原氏へ再嫁して生した時氏の弟であるとされている。
 泰時の次子である時実は他編にて言及した多治比姓を唱えて武蔵・加美郡阿保郷を本貫とした安保実員の女を母とし、1227年6月18日京洛にて北条得宗被官であった高橋次郎によって殺害されている。
 そして、『鏡』が時実の没した当に3年後となる6月18日付を以て時氏が死没した記事を著していることは史家のよく指摘する処である。
 北条時氏の長子である経時は安達氏を母とし宇都宮氏を室としたが父と同じく"夭折"し、経時の同母弟となる時頼は長子・時輔を出雲・仁多郡在地の三処氏より生し、終始得宗家に反抗した名越流が三浦郡への入口に所在したのとは対照的に甘縄郷に所在した安達氏や義時の弟・時房から派した大仏流とともに東海道口を堅めた極楽寺流祖となる重時の女より嫡子・時宗を生している。
 『愚管抄』巻第六に拠ると北条時政の謀略への対策を政子から相談された三浦義村は在京する平賀朝雅の首級を伯耆に在地した金持氏に上げさせたとするが、『鏡』が小山朝政に敗れ領国を逐われた足利忠綱を山陰道を経て西海道へ落去したとする点、三浦義村は治承・寿永の内乱期に斯地にて忠綱との交誼を得たものか、三浦一族たる岡崎義実らの巨大な陸兵力が蝟集した相模川西岸の北方に位置する愛甲郡下に毛利荘を営む源義家の孫が大江広元の息たる季光へ所職を更迭され、信濃・水内郡下の若槻荘へ転じており、往時の出雲には出雲郡かと思われる地にやはり若槻姓を称えた族が看られ、神門郡下には上野・多胡郡片山郷を本貫とし有道姓を唱えた族と同じ片山姓を称えた族、意宇郡から楯縫郡さらには仁多郡へと広範な領域に所職を有して上野・多胡荘を領掌した惟宗姓を唱える多胡氏と同姓の族などもまた看られて、出雲・多胡氏が領掌した楯縫郡下の平田保は『大伴系図』なる文献に拠ると鎌倉初期には朝山氏が所職を有していたとし、北条時政の母方祖父が伴為房であったことを想起させる。
 仁多郡に在地した朝山氏の後裔は、若槻氏や片山氏とともに14世紀の観応年間には勤皇党に与していたことが伝えられている。
 出雲・多胡氏が所職を有した奥出雲の仁多郡は『砂の器』の舞台として著者の実父の出身地だそうだが、同郡にはさらに布施郷に所職を有して上野・多胡郡神保郷を本貫とした有道氏を出自としたかと思われる神保姓を称えた族が看られ、仁多郡下にて唯一の荘園であった横田荘は平家没官領として同荘に北接する三処郷に在地した族が接収したとされる。
 承久の乱より8年経った横田荘の地頭職は三処氏未亡人であることを確認し得て、文永元年六波羅探題へ赴任した時宗の庶兄・時輔が同9年に幕府より誅殺される二月騒動の起きた前年に横田荘の地頭職を時輔と伝え、三処郷は三処氏未亡人となっている。
 時輔の母は宝治合戦の翌年に四代将軍付きの侍女として経時へ嫁した後に時頼へ再嫁して時輔を生しており、弘安年間の銘を遺す横田荘下の神社に伝わる棟札には時輔の母を「地頭平氏三所比丘尼妙音」とする点、三処氏との間に時輔の母を生して三処郷の地頭職を有した未亡人は三浦氏を出自としたのではないかとの説が在る。
 時輔が誅殺される二月騒動にて宝治合戦にての三浦氏族滅より免れた芦名光盛の息が自刃している点、一般に光盛は上に言及した佐原義連の息として三浦義村の従弟が時氏を生した後に北条泰時より離別された義村の女より生した息とされ、しかし、上に論じた通り実に義村と通謀していた疑いの有る平光盛その者が義村の従弟へ入嗣した可能性が濃厚であり、二月騒動の意味とは宝治合戦にて果たした相模の大身・三浦氏族滅の後に猶山陰に残存する勢力を掃討するものであったかと思われる。
 和田義盛の本貫を間近くした三浦郡初声郷に建つ真言宗派妙音寺と宗派・寺号を等しくする寺院がまた群馬県桐生市に所在し、平家に与した藤姓・足利俊綱を征伐すべく頼朝は和田義盛の弟を将に佐原義連や宇佐美実政らを差遣するや、俊綱は家人であった桐生六郎の弑逆を蒙り、『鏡』は小山朝政の軍勢に敗れた俊綱の息・忠綱が桐生六郎に山陰道を経て西海道へ落去すべしと説得したとし、主の首級を呈し梶原景時を通じて御家人への取り立てを請願した桐生六郎を頼朝は「譜代の主人を誅す意を造る之企て、尤も不當也。一旦たりと雖も賞翫するに不足。早く誅す可き之由」を下した。(おわり)

 本編を成すに当り、細川重男氏著『北条氏と鎌倉幕府』(講談社 2011年刊)並びに『中世前期の仁多郡』及び『横田荘と女性』を参照させて戴きました。
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