日本史疑

北条・織田・徳川の出自―「文字は死なない」

Ⅱ第5話 Tajik

2012-11-29 | 日本史
 故・岸信介元総理の曽祖父・佐藤信寛は近江・犬上郡尼子郷を本貫とした戦国大名の走りとなる武将に仕えて遠祖の本貫をやはり犬上郡米原郷とする前原一誠を萩の乱にて捕縛した長州藩士と伝える。
 佐藤信寛は明治の元勲らを訓導した吉田松陰にとって剣の士であったが、前原とともに蹶起した元長州藩士・奥平謙輔は戊辰戦争にて会津藩士の少年を救っており、その少年こそ日本人初の東大物理学教授となる山川健次郎であった。
 奥平氏の本貫は上野・多胡郡奥平郷であり、鎌倉期の同郡で営まれた多胡荘下には、他編でしばしば言及した『愚管抄』巻第六に顕れる"ミセヤノ大夫行時"の所職であった片山郷や、藤原伊周の家令を辞した有道惟能が土着する武蔵・児玉郡下の阿久原牧が勅旨牧となった時、初めて別当を任じた惟宗氏を出自とする多胡氏の所職、さらに目を惹くのは出自を不詳とした多比良氏の所職などが在った。
 上信国境を源流として利根川へ合流する鏑川が貫いた上野・多胡郡は東山道で碓氷峠を越えて関東平野へ抜ける位置に在る。
 上に言及した片山行時の父であり、有道経行の息となる行重は父・経行が行重の祖父となる有道惟能より継承した阿久原牧の所在する武蔵・児玉郡と隣接した秩父郡を支配する平重綱の女を母とし、また行重は重綱の猶子ともなっている。
 有道経行は源義家の弟・義光に謀殺された義家の嫡子・義忠の息となる経国へ女を贈り、経国は河内源氏の本拠として石川郡壺井郷に所在した館を従兄・為義に奪取され、有道経行が拠点とした児玉郡下の阿久原牧と隣接する地に荘園を開いている。
 経国はまた白河院政期の摂籙であった師実の息となる経実の女を正室とし、義仲の父であり為義の息となる義賢が上野・多胡郡へ館を構えるや、京洛郊外の鞍馬へ隠棲したと伝える。
 わが国初の産銅を見た秩父の地を領掌した族の祖とされる将恒は平忠頼の息とされ、平将門の叔父・良文の孫とされるが、秩父平氏の祖となる将恒の弟として忠常が千葉氏祖とされる点、平忠頼の諱が承平・天慶の乱の終熄する以前に藤原山陰の孫として武蔵・児玉郡下の阿久原牧別当であった惟条の存否を私記に止めた貞信公・忠平の偏諱と朝家に声望を高くした源頼光の偏諱を併せて作られた虚構の名と思われ、寧ろ忠頼の別諱として伝わる"経明"の名こそが史実を伝えていると思われる。
 経明の名で想起する者こそ『将門記』に顕れて将門にとって股肱の臣となった多治経明であり、経明の姓から平安期に武蔵・加美郡下で丹荘と号した荘園を営んだ多治比氏を出自とすると推測される。
 故・太田亮氏は千葉氏の出自を多氏であったとするが、平安期の秩父郡を支配した族の源流もまた多氏を源流とする説を見る。
 ヤマト王権でしばしば皇居が置かれた磯城郡下の飫富郷を本貫とする多氏が上総・望陀郡飯富郷へ入部した後裔が千葉氏の母胎となったとの説を見せ、しかし、秩父・千葉両氏の始祖となる経明とは将門に侍した多治経明であったと憶測するならば、秩父・千葉両氏の源流は実に多治比氏であったかと考えられる。
 平将門を討った藤原秀郷はその本拠であった下野・安蘇郡下の唐沢山麓に河内・丹比(たじひ)郡に集住していた鋳物師を招請し、中世の全国寺院へ納められた梵鐘の生産において圧倒的なシェアーを誇った天明鋳物の源流を成したと云うが、史上初の産銅を見た秩父郡を近くして上武国境を成す利根川支流の神流川に臨んだ加美郡下で丹荘を営んだ族は多治比姓を称えており、渡来系氏族の母を持つ桓武帝の息・葛原親王の母は多治比真宗であった。
 有道惟能の後裔とし、武蔵・比企郡小代郷を本貫として、治承・寿永の内乱での軍功に因り安芸・山縣郡下の壬生野荘所職を得た行平の玄孫・伊重が遺したとする文書は故・石井進東大名誉教授の『鎌倉武士の実像』(平凡社 2002年刊)に拠ると1310~20年代に書かれたものとし、同書にて伊重の父は母を多胡宗内こと惟宗親時の女と記しているが、この多胡宗内=惟宗親時とは上に言及した上野・多胡郡下に所職の有った惟宗氏のことであろうと思われ、小代氏が獲得した安芸・山縣郡下の壬生野荘に隣接して大江広元の息である毛利季光後裔の本拠となる吉田郡山城が見られ、庶子であった毛利元就が家督を継承するまで在ったのは多治比猿掛城と伝える。
 一体に河内王朝の存在が説かれる地には和泉山脈を南に現在の河内長野市と富田林市の一部に該る錦部郡を拠点として堂々と『孫子』の編者かとされる曹操の末裔を称えた高向氏や、生駒山地と金剛山地とを縊る"山門"となる亀の瀬渓谷を抜けて河内王朝下の権臣・葛城氏が本拠とした大和・葛城郡への道が通ずる安宿(あすかべ)郡に飛鳥部奈止麻呂が在地したと伝え、奈止麻呂の女である百済永継は桓武帝との間に織田信長の配下であった丹羽長秀の後裔が遠祖とする良岑安世を、また桓武帝の後宮を退いた後に再稼した藤原北家・内麻呂との間に日野家の祖となる真夏と後裔を摂関家とする冬嗣を生しており、冬嗣が初めて任じた蔵人頭の職を襲ったのは良岑安世であった。
 平将門が蹶起した頃に成った『和名類聚抄』では安宿郡下に多治比氏が関東で荘園を営んだ加美郡と訓を等しくする賀美郷や藤原秀郷の父・祖父の母方生家の出自である鳥取氏の源流か因幡・八上郡に発祥した尾張氏を連想させる尾張郷と云った郷名が看受けられ、往古に安宿郡であった現在の羽曳野市の一部には飛鳥の字名が見出せる。
 藤原秀郷の曽祖父は魚名の四子とされる藤成であるが、藤姓でありながら諱に藤の字を重ねる点は実に奇妙で、藤成の母もまた尾張氏と同源とされる摂津・住吉社の神職・津守氏を出自としている。
 大和・葛城郡から難波を経て但馬へ通じたと伝える"たけのうち"街道の沿線には河内王朝の主体的勢力の出自を予想させる痕跡を感じ取れる。
 河内国内で最大の郡域を見せた丹比(たじひ)郡は現在の松原市・大阪狭山市全域から八尾市・藤井寺市・羽曳野市・大阪市そして大仙陵古墳の在る堺市の一部に跨る。
 堺市美原区多治井に丹比神社を見るが、平安後期に丹比郡八下郷が八上郡と分かたれたことや"たけのうち"街道を難波から但馬へ向かう途次となる神戸市が往古には八部(やたべ)郡であったと伝でる点、但馬から神戸へ向かう途次にて本州で最低標高を示す分水嶺を画す丹波・氷上郡が葛城蟻臣の所在した地であったと憶測すると、河内王朝の主体的勢力とはやはり大陸から渡来した部族であった可能性を濃厚とする。
 それがどのような部族であったかを考えると、大阪・奈良と並んで全国で最も古墳の多い上野・多胡郡近傍を勘考すると、当該郡名の由来が多治比氏が胡族であったことを示唆するものと思われる。
 多治比の音から連想されるものがTajikであって、古代ギリシア人の間でペルシア際涯の地として知られた地にアレクサンドロス3世は遠征を遂げ、Tajik族の棲む地はまたギリシア人が王朝を営んだ地であった。
 上野・多胡郡下に多比良姓を称えた領主が在ったとする点、平氏の名称由来が従来云われてきた平安京を意味する"たいらの宮"を示すものではなくて、河内・"タジヒ"郡を丹比郡と綴って、良をラと訓ずるのは羅列の羅の音を藉りたものと思われ、この場合の羅の義は多治比の血脈が流れる意であろう。
 天智帝の諱は葛城であり、橘氏祖もまた皇族時代に葛城王と号し、葛城王の異父妹となる聖武帝の后は安宿(あすかべ)媛であった。
 弘前大学教授夫人殺害事件の被告人として冤罪が判明し4年前に他界した那須隆氏は那須氏の嫡流であったが、那須氏の源流は平安初期に那須大領として丈部を称え、有道氏の源流もまた常陸・筑波郡在地の丈部であり、山口県萩市内の須佐湾を連想させる須佐乃男命を祀った武蔵一宮の神職を務める足立郡司もまた丈部であって、陸奥・小田郡下にて史上初の産金を遂げた者もまた上総在国の丈部大麻呂であったが、昭和53年に利根川畔の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に見る銘文から、丈部とは河内王朝下に帝の差遣した代官職の後裔であった可能性もまた考えられる。
 上に言及した有道経行は野に在って摂籙・師実の息となる経実と河内源氏・経国を通じて相婿の間柄となり、この経国へ女を贈ったと伝える封建領主としてまた那須氏が在った。
 藤原秀郷より10世と伝でる佐藤基治は同じく秀郷の後裔として陸奥産金を支配した奥州藤原氏秀衡の配下として信夫郡を領掌し、基治の母は上野在地の大窪氏を出自としたと伝えて、他編で論じたことはこの大窪氏が徳川家康の先手旗本四将の一人となる大久保忠世の遠祖に該るのではないかと憶測したことであったが、平良文の室の父が上野在地の大野茂吉と伝える点はまた"多の"茂吉ではなかったと思われ、この場合の"多"氏は上に言及した上野・多胡郡下に在地した多比良氏であって、多治比氏を出自とする封建領主ではなかったかと思われる。
 佐藤基治とは系を異にしてやはり藤原秀郷より9世となる者が西行であり、西行の弟がまた『愚管抄』巻第六が頼朝の同母妹が嫁した一条能保の郎党であったとする後藤基清であって、摂家将軍・頼経の側近として恩沢奉行を任じ、五味文彦東大名誉教授が『吾妻鏡』における摂家将軍期の原史料となる記録を成したと勘考する後藤基綱は基清の息であって、『吾妻鏡』にて1212年正月19日条にて実朝の鶴ヶ岡社参に弓矢捧持の所役を辞して勘気を蒙った千葉胤信の後裔となる大須賀康高とともに家康の許に参じて、先手旗本四将の一人となった榊原康政もまた佐藤氏を出自とした。
 しかし、下野・那須郡を平安期初頭から領掌し、近世大名となるまで存続を果たした武家である那須氏はその出自を藤原道長の六子たる長家の後裔とする。
 こうした仮冒は上野・邑楽郡に在地した赤井氏が藤原北家祖長子・武智麻呂の息として桓武帝の治世下に閣僚を任じた小黒麻呂の後裔を称えているのと等しくするが、それが単に関東在地領主らの権門勢家への癒着を顕すに止まらず、北家祖長子・武智麻呂が母を春日倉氏とし、小黒麻呂はまた母を大伴氏とした点をも失念してはならない。
 上野・邑楽郡下には藤原冬嗣の息であり、史上初の関白を任じた基経の父である長良を祀った社を見るが、上に言及した冬嗣の母の出自を想起するともに、長良の訓から連想されることとして葛城氏祖の在地した字名が長柄郷であったことである。
 藤原冬嗣の六子とされる良門は平将門より百年早く門の偏諱を帯しているが、朝家高官の警護を任ずる内舎人を任じたのみで夭折したと云う。
 夭折したとされながら、良門は出自を異にする二人の女からそれぞれ息を生している。
 上に言及した上野・多胡郡に在地して小代伊重の父の母方祖父となる惟宗親時の通称・多胡宗内の宗内とは惟宗姓にして中務省管掌下の内舎人を任じた謂であり、源姓で内舎人を任ずれば源内、平姓であれば平内となる訳で、藤原北家の大立者である冬嗣の息らの中で唯一五位の位に昇らなかった良門の次子は、しかし、秀郷の遠祖と似て藤姓にも拘らず諱に藤の字を重複させる高藤であって、商業統制に関わる鎌倉府内の市政を任じた地奉行の後藤基綱の如く、高藤は西市正と云う下級の官職に在った高田沙弥麿なる者の女・春子を母としながら、室町幕府政所代を世襲した蜷川氏の本姓と等しく宮道氏の女・列子より醍醐帝を生して、大織冠・鎌足や藤原魚名らが朝家より与えられた内臣の号を授けられ、その後裔として戦国期に蜷川氏と姻戚となる甘露寺家を始めとして江戸期に至るまで存続した公家を数多輩出している。
 良門の長子であり高藤の兄である利基は飛鳥部氏を母として、六子に三十六歌仙の一人となる堤中納言こと兼輔を生しており、兼輔の曽孫に該る者こそ紫式部であるが、式部と同時代を生きた赤染衛門の出自がヤマト王権草創期に該る大陸での三国時代にて遼東地方に蟠踞した公孫氏の後裔を称える族であった点には何かを感得する。
 丈部を古称とした那須氏が遠祖とする藤原長家の後裔には、後白河院政期に右兵衛督として魚名・三子の流れを汲む鳥羽院の「第一の寵臣」であった四条家成の息であり、信西に「最期の時まで従っていた」師光を鹿谷の陰謀に加わった廉で処断する平清盛と応接したと『愚管抄』巻第五(『日本の名著9』中央公論社 昭和46年刊)が記す光能が在り、光能は武蔵一宮の神職であった足立郡司の後裔となる足立遠元の女を室としており、また光能が別の女より生したとする者らが中原親能・大江広元兄弟であったとする説を見る。
 光能の従弟となる者が定家であって、定家の母は四条家成の従姉として鳥羽院の寵妃に仕えた侍女であり、父は高藤の後裔として白河院の近臣であった葉室家祖の息の猶子となっていた。
 惟宗氏を出自とする秦氏が畿内で本拠とした地は山城・葛野郡太秦であり、その地名から連想させるものがローマであって、中国史に顕れる最古の王朝は夏と号したと伝えながら、その遺址は中国領内にて未だに発見されず、中国人が大夏と記した地はアレクサンドロス3世の引率した古代ギリシア人の後裔が王朝を営んだ地であった。
 大和・葛城郡へ抜ける"山門"への入口に該る河内・安宿郡に在地した飛鳥部奈止麻呂の女として、百済永継の生した藤原北家・冬嗣の同母兄として日野家祖の諱はまた真夏であった。
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