日本史疑

北条・織田・徳川の出自―「文字は死なない」

Ⅱ第3話 二月騒動について 2

2012-11-02 | 日本史
 二階堂行政は伊豆に在地した藤原南家祖三子・乙麻呂流となる工藤氏と同系とされるが、行政の父・行遠は頼朝の母方祖父である南家祖四子・巨勢麻呂流となる季範の妹との間に行政を生したと云う。
 ところで、頼朝の伯父として季範の息である範忠は平治の乱後に駿河郡香貫郷にて頼朝の同母弟である希義を捕縛して平家へ差し出しているが、範忠の母方祖父は源行遠とされている。
 想えば『愚管抄』巻第六は実朝の学問の相手を演じたとする源仲章の父を光遠と記している。
 二階堂行政は藤原秀郷の流れを汲む佐藤伊賀守朝光へ女を嫁し、美濃・稲葉山に築いた城を朝光へ譲与したとの伝を見る。
 また、伊豆在庁に過ぎなかった北条時政と同じく武蔵在庁であった太田政光は宇都宮氏二代とする八田宗綱の女に入婿した縁より下野・都賀郡小山荘へ入部し、藤原秀郷が本拠とした安蘇郡と隣接する足利郡に蟠踞して秀郷流の足利俊綱と下野国内で双璧を成す大身へと伸し上がるが、政光の親族として下総・結城郡へ入部する朝光や葛飾郡下河辺荘へ入部する行平らは頼朝より源氏の門葉に次ぐ准門葉の格を与えられ、行平の父は行義、弟は政義と称えた。
 北条時政の継室である牧の方の父は頼朝の伯父が希義を捕らえた駿河郡香貫郷に間近い大岡牧を預かる宗親であったが、大岡牧の領家は清盛の弟である平頼盛であった。
 北条時政が牧の方との間に生した女を室とした平賀朝雅(朝政)を将軍に擁立せんと謀った企てを潰した政子が頼った相手は『愚管抄』巻第六に拠ると「智謀にたけた者であった」三浦義村であり、『抄』は義村の差配で時政を伊豆へ追却し且つ在京していた朝雅を討ったとしており、朝雅の首級を上げた者が伯耆に在地した「金持という者」と言及している点は留意される。
 細川重男氏が『北条氏と鎌倉幕府』で言及している通り、北条義時の偏諱は三浦義明・義澄・義村と三浦氏嫡流が通した偏諱を承けたものであろうし、『抄』が「三浦党の長老」とする和田義盛を討った時の軍奉行は二階堂行政の息である行村であった。
 北条時政と云い、小山政光・朝政父子と云い、また頼朝に近侍した伊豆を本貫とする宇佐美実政と云い、政の偏諱は或いは二階堂行政より承けたものか、奥州征伐にて軍奉行を任じた行政が藤原秀郷の流れを汲む奥州藤原氏の本拠地に見た二階堂を模造した鎌倉郡の地が後世に二階堂の字名を伝えるが、北条時政が鎌倉にて営んだ邸は三浦氏の本拠へ通ずる名越郷であったのに対し、二階堂行政が邸を構えた地は後背地を延々と狸郷とした相武に跨る丘陵地であった。
 広常が粛清されたのは遠祖累代に亘って補された上総介と云う官職が幕府の統制を踰越するものであったからと思われ、三浦義村の従兄となる和田義盛が広常の遺領を襲う点も義盛の粛清が予定されたものであったろうと推測される。
 千葉氏の分流として上総に在地した士らもまた宝治合戦に連座しており、『吾妻鏡』は族滅を免れた三浦郡芦名郷を本貫とする族の祖となる佐原義連を顕彰する記事を揮っている。
 頼朝の伊豆配流を追うように武蔵・比企郡司へ任じた比企掃部允の実名を源頼義の郎党として相模の秦野盆地へ入部した佐伯経範の後裔とする波多野氏の系譜記録は遠としている点、比企掃部允の室とともに伊豆時代の頼朝を扶育した寒河尼の父もまた宇都宮氏二代とする八田綱であり、北条時政の継室である牧の方の父を『愚管抄』巻第六は長らく頼盛に仕えていた「武者ではない」親とし、『東寺百合文書』にて子とされる頼盛の母は有道惟能が家令を務めた藤原伊周の弟である隆家より6世として『尊卑分脈』で弟を宗親と伝え、時政が牧の方より生した政範は『吾妻鏡』にて16歳にして従五位下の官位を与えられている。
 有道惟能の息である経行が源義家・嫡子の息を介して相婿の関係に在った者の息が後白河院政期に長らく左大臣を任じた経であり、源義家の嫡子であった義忠の息・経国を猶子とした者が下野・足利荘へ入部する源義国であった。
 『抄』第六は比企掃部允の結んだ党に"ミセヤノ大夫行時"なる者が加わっており、行時の女より比企能員は源頼家の室を生したとし、行時はまた有道惟能を祖とする「児玉党の一人を婿としていた」とする意味深長な文言を以て段を閉じている。
 比企掃部允の室が生した長女は惟宗広言との間に島津忠久を生した後に安達盛長へ再嫁して源範頼の室を生しており、『抄』巻第五にて摂関家領であったとする島津荘の預所職を得ていたのは惟宗氏であって、惟宗氏の出自である秦氏の本貫は讃岐であったが、秦姓を唱えた長宗我部氏の如く『抄』巻第六は比企掃部允の嗣子となった能員を「阿波国の者である」と態々割注を打っており、能員の弟である朝宗の女を北条義時は室としている。
 比企掃部允の室が生した次女は秩父氏の系統となる河越氏へ嫁して源義経の室を生しており、三女は政子・義時の母方祖父である伊東祐親の息へ嫁した後に源義光の流れを汲む信濃・佐久郡に在地した平賀義信へ再嫁し朝雅を生している。
 幕府によって粛清された面々として、上総介広常は上に述べた理由から、武田信義の弟である安田義定や信義の長子である一条忠頼らは伊豆・田方郡下の北条時政邸を近くして信光寺を建立した信義の5子・信光との関係から、秩父氏の系統である畠山重忠は北条時政を岳父とした重忠の従弟・稲毛重成との関係において夫々粛清されたかと推測されるが、源範頼・義経・頼家や比企能員らは比企尼を軸にして粛清されたものと思われ、時政の継室・牧の方を軸としては信濃源氏である平賀朝雅や牧の方の伯母・池禅尼の眷族となる藤原信隆の女を母とした後鳥羽院、信隆の息・信清の女を室とした実朝が粛清されており、頼朝を軸とした義母において比企尼と牧の方或いは平頼盛の室を軸とした面々は粛清され、寒河尼を軸とした面々は頼朝より厚遇されている。

 治承・寿永の内乱期に頼朝が差遣した三浦義村の叔父である義連や宇佐美実政らによって足利荘を拠点とした俊綱が滅ぼされ、下野からは藤原秀郷の流れを汲む勢力が一掃されるが、俊綱は源義国の息である義重に足利荘を与えた平家嫡宗・重盛に訴え所職を奪還しており、足利俊綱の息・忠綱は足利荘と渡良瀬川を挿んで相対する上野・新田荘を圧さえた義重から所職の返還を清盛へ請願し、一旦は認められるも寸刻で退けられた(逆に、新田義重は清盛より所職を保障された)上に小山朝政には実力で退けられ、『吾妻鏡』は足利忠綱が山陰道を経て西海道へ落去したとする。
 『抄』巻第六は後鳥羽院に仕えた北面の武士として「漢字さえ知らないような者であったが」院の「御在位中のころから伺候しなれて、側近に召し使われていた」忠綱が在ったと叙べ、実朝の後嗣を幕府が奏上すると忠綱が人臣の息であれば宜しい旨を応え、三浦義村の思いつきで九条兼実の孫を迎えることなったとする。
 『抄』は続けて結局九条兼実の長孫に代え次孫が鎌倉へ下った翌月、内裏の警衛を務めていた源頼政の孫が謀反を企んだとして盛時なる士が誅殺したが、頼政の孫が謀反に誘った伊予在地の河野なる士が「陰謀の内容を話した」とし、その翌月後鳥羽院が「よくよく静かにものを考えてみると、この忠綱という男を」「とりたてた過失は、どう考えてみても取るところのない間違いであったとよくわかった」として忠綱を排除したが、忠綱が頼政の孫と「特に親密に語り合って、人からあやしまれたこともあったが、」頼政・孫の「後見役であった法師が捕えられていろいろなことをいったなどといわれていることについては、忠綱がひろく公表することもさせずに、法師を関東へ下しつかわした」とする。
 四代将軍として鎌倉へ下る九条兼実の曽孫は、平忠常が朝家へ叛乱を演ずる翌年に没した閑院流祖・公季の流れを汲む公経の孫として、藤原北家嫡流と閑院流の血脈を併せもつ者であった。
 鎌倉期に『古今著聞集』を編んで九条家と公経を祖とする西園寺家とに亘って仕えた橘成季の名は、梶原景時を族滅させた東海道・清見ヶ関が在った入江荘下にて内管領・長崎氏を連想させる長崎郷や得宗被官であった工藤氏と等しく藤原南家祖三子・乙麻呂流とする吉川氏の本貫地とともに楠木郷の字名を看受け、橘逸勢が承和の変で伊豆へ配流されたことから楠木正成の出自を憶測させる。
 崇徳・後白河両帝の母方祖父となる閑院流・公実の孫・公能を『抄』巻第二は平清盛が初めて入閣するや忽ち極官へ昇った時の六条帝の母方祖父かとするが、大江広元の母こそまた公能の女であった。
 実朝の右大臣拝賀式が挙行された鶴ヶ岡社へ京から赴いた者らは『抄』に拠ると、実朝・室の父として藤原隆家より7世となる信清の息、翌年に四代将軍として鎌倉へ下る頼経の祖父である公経の息、そして平頼盛の息である光盛らであったが、上に言及した三浦義連の孫として三浦郡芦名郷を本貫とした光盛の後裔は宝治合戦後も生き残っており、この光盛の弟は盛時と伝わっている。
 伊賀朝光の長子である光季は北条時政が将軍への擁立を謀った平賀朝雅と同じく京都守護を任じ、承久の乱にては河野通信とともに後鳥羽院へ与しており、朝光の次子・光宗は二階堂行政が初めて任じた政所執事を任じ、北条義時の死没に因り自身の妹が義時との間に生した政村を執権に、頼朝の妹との間に生した一条能保の息・実雅を将軍とすべく謀るも、政子により泰時が執権に就き挫かれる。
 しかしながら、伊賀光宗が得た陸奥・磐城郡好島荘の所職は後鳥羽院へ左袒した光季の息へ伝領し、光季・光宗らの弟が父・朝光へ譲与された朝光の岳父である二階堂行政の築いた稲葉山城を継承し、後裔を戦国期の西美濃三人衆として知られる稲葉良通とし、河野氏の流れを汲む林氏へ入嗣したとも、逆に林氏より入嗣したともされつ、織田信長の首席家老を眷族としたと云う。
 『吾妻鏡』元久2年閏7月29日条の記事は実朝より河野通信へ下した御教書として通信が鎌倉御家人であったとし、大山祇命を祭神とする三島社が大山祇神社の所在する伊予在地の領主を永仁の徳政令の適用される幕府御家人であることを主張する目的で成した偽文書を『鏡』は敢えて利用している。

 承久の乱時の恩沢奉行を任じた者は後藤基綱であったが、基綱の父は『愚管抄』巻第六に一条能保の郎党として中原政経とともに顕れる基清であり、基清の父は西行の弟に該る。
 中原政経の名からは執権・貞時へ『平政連諫草』を著した中原政連を連想させるが、西行こと佐藤義清の曽祖父となる公清は藤原秀郷より6世として初めて佐藤姓を称えたとされ、佐藤姓を称えた伊賀朝光はこの後裔と思われ、秀郷6世たる公清の叔父からはやはり秀郷の後裔となる奥州藤原氏の配下として陸奥・信夫郡を領掌した基治を派しており、基治は平良文の室と同じく母を上野在地の大窪氏としたと伝わる。
 同様なこととして、平忠常の孫が"天女"を室としたか中原師直なる者の女を室としたかの伝は、『愚管抄』巻第六が法然の教団に頼朝より閉塞を要求された後白河院の近臣・高階泰経に仕えていた侍に中原師広が在ったとし、中原親能や大江広元らの養父は中原広季であったが、法然の導きにより九条兼実が出家を遂げ、法然の唱道する阿弥陀仏信仰より得た観阿を法名とした北条泰時など、鎌倉幕府にて恩沢奉行を任じた中原師員の息・師連が和田義盛の討滅において軍奉行を任じた二階堂行村の息・行方とともに『吾妻鏡』が記事を中絶させる将軍・宗尊親王の御所奉行を任じたことを連想させ、また宇都宮氏は中原氏を出自とする説を見る。(つづく)
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