日本史疑

北条・織田・徳川の出自―「文字は死なない」

Ⅱ第5話 Tajik

2012-11-29 | 日本史
 故・岸信介元総理の曽祖父・佐藤信寛は近江・犬上郡尼子郷を本貫とした戦国大名の走りとなる武将に仕えて遠祖の本貫をやはり犬上郡米原郷とする前原一誠を萩の乱にて捕縛した長州藩士と伝える。
 佐藤信寛は明治の元勲らを訓導した吉田松陰にとって剣の士であったが、前原とともに蹶起した元長州藩士・奥平謙輔は戊辰戦争にて会津藩士の少年を救っており、その少年こそ日本人初の東大物理学教授となる山川健次郎であった。
 奥平氏の本貫は上野・多胡郡奥平郷であり、鎌倉期の同郡で営まれた多胡荘下には、他編でしばしば言及した『愚管抄』巻第六に顕れる"ミセヤノ大夫行時"の所職であった片山郷や、藤原伊周の家令を辞した有道惟能が土着する武蔵・児玉郡下の阿久原牧が勅旨牧となった時、初めて別当を任じた惟宗氏を出自とする多胡氏の所職、さらに目を惹くのは出自を不詳とした多比良氏の所職などが在った。
 上信国境を源流として利根川へ合流する鏑川が貫いた上野・多胡郡は東山道で碓氷峠を越えて関東平野へ抜ける位置に在る。
 上に言及した片山行時の父であり、有道経行の息となる行重は父・経行が行重の祖父となる有道惟能より継承した阿久原牧の所在する武蔵・児玉郡と隣接した秩父郡を支配する平重綱の女を母とし、また行重は重綱の猶子ともなっている。
 有道経行は源義家の弟・義光に謀殺された義家の嫡子・義忠の息となる経国へ女を贈り、経国は河内源氏の本拠として石川郡壺井郷に所在した館を従兄・為義に奪取され、有道経行が拠点とした児玉郡下の阿久原牧と隣接する地に荘園を開いている。
 経国はまた白河院政期の摂籙であった師実の息となる経実の女を正室とし、義仲の父であり為義の息となる義賢が上野・多胡郡へ館を構えるや、京洛郊外の鞍馬へ隠棲したと伝える。
 わが国初の産銅を見た秩父の地を領掌した族の祖とされる将恒は平忠頼の息とされ、平将門の叔父・良文の孫とされるが、秩父平氏の祖となる将恒の弟として忠常が千葉氏祖とされる点、平忠頼の諱が承平・天慶の乱の終熄する以前に藤原山陰の孫として武蔵・児玉郡下の阿久原牧別当であった惟条の存否を私記に止めた貞信公・忠平の偏諱と朝家に声望を高くした源頼光の偏諱を併せて作られた虚構の名と思われ、寧ろ忠頼の別諱として伝わる"経明"の名こそが史実を伝えていると思われる。
 経明の名で想起する者こそ『将門記』に顕れて将門にとって股肱の臣となった多治経明であり、経明の姓から平安期に武蔵・加美郡下で丹荘と号した荘園を営んだ多治比氏を出自とすると推測される。
 故・太田亮氏は千葉氏の出自を多氏であったとするが、平安期の秩父郡を支配した族の源流もまた多氏を源流とする説を見る。
 ヤマト王権でしばしば皇居が置かれた磯城郡下の飫富郷を本貫とする多氏が上総・望陀郡飯富郷へ入部した後裔が千葉氏の母胎となったとの説を見せ、しかし、秩父・千葉両氏の始祖となる経明とは将門に侍した多治経明であったと憶測するならば、秩父・千葉両氏の源流は実に多治比氏であったかと考えられる。
 平将門を討った藤原秀郷はその本拠であった下野・安蘇郡下の唐沢山麓に河内・丹比(たじひ)郡に集住していた鋳物師を招請し、中世の全国寺院へ納められた梵鐘の生産において圧倒的なシェアーを誇った天明鋳物の源流を成したと云うが、史上初の産銅を見た秩父郡を近くして上武国境を成す利根川支流の神流川に臨んだ加美郡下で丹荘を営んだ族は多治比姓を称えており、渡来系氏族の母を持つ桓武帝の息・葛原親王の母は多治比真宗であった。
 有道惟能の後裔とし、武蔵・比企郡小代郷を本貫として、治承・寿永の内乱での軍功に因り安芸・山縣郡下の壬生野荘所職を得た行平の玄孫・伊重が遺したとする文書は故・石井進東大名誉教授の『鎌倉武士の実像』(平凡社 2002年刊)に拠ると1310~20年代に書かれたものとし、同書にて伊重の父は母を多胡宗内こと惟宗親時の女と記しているが、この多胡宗内=惟宗親時とは上に言及した上野・多胡郡下に所職の有った惟宗氏のことであろうと思われ、小代氏が獲得した安芸・山縣郡下の壬生野荘に隣接して大江広元の息である毛利季光後裔の本拠となる吉田郡山城が見られ、庶子であった毛利元就が家督を継承するまで在ったのは多治比猿掛城と伝える。
 一体に河内王朝の存在が説かれる地には和泉山脈を南に現在の河内長野市と富田林市の一部に該る錦部郡を拠点として堂々と『孫子』の編者かとされる曹操の末裔を称えた高向氏や、生駒山地と金剛山地とを縊る"山門"となる亀の瀬渓谷を抜けて河内王朝下の権臣・葛城氏が本拠とした大和・葛城郡への道が通ずる安宿(あすかべ)郡に飛鳥部奈止麻呂が在地したと伝え、奈止麻呂の女である百済永継は桓武帝との間に織田信長の配下であった丹羽長秀の後裔が遠祖とする良岑安世を、また桓武帝の後宮を退いた後に再稼した藤原北家・内麻呂との間に日野家の祖となる真夏と後裔を摂関家とする冬嗣を生しており、冬嗣が初めて任じた蔵人頭の職を襲ったのは良岑安世であった。
 平将門が蹶起した頃に成った『和名類聚抄』では安宿郡下に多治比氏が関東で荘園を営んだ加美郡と訓を等しくする賀美郷や藤原秀郷の父・祖父の母方生家の出自である鳥取氏の源流か因幡・八上郡に発祥した尾張氏を連想させる尾張郷と云った郷名が看受けられ、往古に安宿郡であった現在の羽曳野市の一部には飛鳥の字名が見出せる。
 藤原秀郷の曽祖父は魚名の四子とされる藤成であるが、藤姓でありながら諱に藤の字を重ねる点は実に奇妙で、藤成の母もまた尾張氏と同源とされる摂津・住吉社の神職・津守氏を出自としている。
 大和・葛城郡から難波を経て但馬へ通じたと伝える"たけのうち"街道の沿線には河内王朝の主体的勢力の出自を予想させる痕跡を感じ取れる。
 河内国内で最大の郡域を見せた丹比(たじひ)郡は現在の松原市・大阪狭山市全域から八尾市・藤井寺市・羽曳野市・大阪市そして大仙陵古墳の在る堺市の一部に跨る。
 堺市美原区多治井に丹比神社を見るが、平安後期に丹比郡八下郷が八上郡と分かたれたことや"たけのうち"街道を難波から但馬へ向かう途次となる神戸市が往古には八部(やたべ)郡であったと伝でる点、但馬から神戸へ向かう途次にて本州で最低標高を示す分水嶺を画す丹波・氷上郡が葛城蟻臣の所在した地であったと憶測すると、河内王朝の主体的勢力とはやはり大陸から渡来した部族であった可能性を濃厚とする。
 それがどのような部族であったかを考えると、大阪・奈良と並んで全国で最も古墳の多い上野・多胡郡近傍を勘考すると、当該郡名の由来が多治比氏が胡族であったことを示唆するものと思われる。
 多治比の音から連想されるものがTajikであって、古代ギリシア人の間でペルシア際涯の地として知られた地にアレクサンドロス3世は遠征を遂げ、Tajik族の棲む地はまたギリシア人が王朝を営んだ地であった。
 上野・多胡郡下に多比良姓を称えた領主が在ったとする点、平氏の名称由来が従来云われてきた平安京を意味する"たいらの宮"を示すものではなくて、河内・"タジヒ"郡を丹比郡と綴って、良をラと訓ずるのは羅列の羅の音を藉りたものと思われ、この場合の羅の義は多治比の血脈が流れる意であろう。
 天智帝の諱は葛城であり、橘氏祖もまた皇族時代に葛城王と号し、葛城王の異父妹となる聖武帝の后は安宿(あすかべ)媛であった。
 弘前大学教授夫人殺害事件の被告人として冤罪が判明し4年前に他界した那須隆氏は那須氏の嫡流であったが、那須氏の源流は平安初期に那須大領として丈部を称え、有道氏の源流もまた常陸・筑波郡在地の丈部であり、山口県萩市内の須佐湾を連想させる須佐乃男命を祀った武蔵一宮の神職を務める足立郡司もまた丈部であって、陸奥・小田郡下にて史上初の産金を遂げた者もまた上総在国の丈部大麻呂であったが、昭和53年に利根川畔の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に見る銘文から、丈部とは河内王朝下に帝の差遣した代官職の後裔であった可能性もまた考えられる。
 上に言及した有道経行は野に在って摂籙・師実の息となる経実と河内源氏・経国を通じて相婿の間柄となり、この経国へ女を贈ったと伝える封建領主としてまた那須氏が在った。
 藤原秀郷より10世と伝でる佐藤基治は同じく秀郷の後裔として陸奥産金を支配した奥州藤原氏秀衡の配下として信夫郡を領掌し、基治の母は上野在地の大窪氏を出自としたと伝えて、他編で論じたことはこの大窪氏が徳川家康の先手旗本四将の一人となる大久保忠世の遠祖に該るのではないかと憶測したことであったが、平良文の室の父が上野在地の大野茂吉と伝える点はまた"多の"茂吉ではなかったと思われ、この場合の"多"氏は上に言及した上野・多胡郡下に在地した多比良氏であって、多治比氏を出自とする封建領主ではなかったかと思われる。
 佐藤基治とは系を異にしてやはり藤原秀郷より9世となる者が西行であり、西行の弟がまた『愚管抄』巻第六が頼朝の同母妹が嫁した一条能保の郎党であったとする後藤基清であって、摂家将軍・頼経の側近として恩沢奉行を任じ、五味文彦東大名誉教授が『吾妻鏡』における摂家将軍期の原史料となる記録を成したと勘考する後藤基綱は基清の息であって、『吾妻鏡』にて1212年正月19日条にて実朝の鶴ヶ岡社参に弓矢捧持の所役を辞して勘気を蒙った千葉胤信の後裔となる大須賀康高とともに家康の許に参じて、先手旗本四将の一人となった榊原康政もまた佐藤氏を出自とした。
 しかし、下野・那須郡を平安期初頭から領掌し、近世大名となるまで存続を果たした武家である那須氏はその出自を藤原道長の六子たる長家の後裔とする。
 こうした仮冒は上野・邑楽郡に在地した赤井氏が藤原北家祖長子・武智麻呂の息として桓武帝の治世下に閣僚を任じた小黒麻呂の後裔を称えているのと等しくするが、それが単に関東在地領主らの権門勢家への癒着を顕すに止まらず、北家祖長子・武智麻呂が母を春日倉氏とし、小黒麻呂はまた母を大伴氏とした点をも失念してはならない。
 上野・邑楽郡下には藤原冬嗣の息であり、史上初の関白を任じた基経の父である長良を祀った社を見るが、上に言及した冬嗣の母の出自を想起するともに、長良の訓から連想されることとして葛城氏祖の在地した字名が長柄郷であったことである。
 藤原冬嗣の六子とされる良門は平将門より百年早く門の偏諱を帯しているが、朝家高官の警護を任ずる内舎人を任じたのみで夭折したと云う。
 夭折したとされながら、良門は出自を異にする二人の女からそれぞれ息を生している。
 上に言及した上野・多胡郡に在地して小代伊重の父の母方祖父となる惟宗親時の通称・多胡宗内の宗内とは惟宗姓にして中務省管掌下の内舎人を任じた謂であり、源姓で内舎人を任ずれば源内、平姓であれば平内となる訳で、藤原北家の大立者である冬嗣の息らの中で唯一五位の位に昇らなかった良門の次子は、しかし、秀郷の遠祖と似て藤姓にも拘らず諱に藤の字を重複させる高藤であって、商業統制に関わる鎌倉府内の市政を任じた地奉行の後藤基綱の如く、高藤は西市正と云う下級の官職に在った高田沙弥麿なる者の女・春子を母としながら、室町幕府政所代を世襲した蜷川氏の本姓と等しく宮道氏の女・列子より醍醐帝を生して、大織冠・鎌足や藤原魚名らが朝家より与えられた内臣の号を授けられ、その後裔として戦国期に蜷川氏と姻戚となる甘露寺家を始めとして江戸期に至るまで存続した公家を数多輩出している。
 良門の長子であり高藤の兄である利基は飛鳥部氏を母として、六子に三十六歌仙の一人となる堤中納言こと兼輔を生しており、兼輔の曽孫に該る者こそ紫式部であるが、式部と同時代を生きた赤染衛門の出自がヤマト王権草創期に該る大陸での三国時代にて遼東地方に蟠踞した公孫氏の後裔を称える族であった点には何かを感得する。
 丈部を古称とした那須氏が遠祖とする藤原長家の後裔には、後白河院政期に右兵衛督として魚名・三子の流れを汲む鳥羽院の「第一の寵臣」であった四条家成の息であり、信西に「最期の時まで従っていた」師光を鹿谷の陰謀に加わった廉で処断する平清盛と応接したと『愚管抄』巻第五(『日本の名著9』中央公論社 昭和46年刊)が記す光能が在り、光能は武蔵一宮の神職であった足立郡司の後裔となる足立遠元の女を室としており、また光能が別の女より生したとする者らが中原親能・大江広元兄弟であったとする説を見る。
 光能の従弟となる者が定家であって、定家の母は四条家成の従姉として鳥羽院の寵妃に仕えた侍女であり、父は高藤の後裔として白河院の近臣であった葉室家祖の息の猶子となっていた。
 惟宗氏を出自とする秦氏が畿内で本拠とした地は山城・葛野郡太秦であり、その地名から連想させるものがローマであって、中国史に顕れる最古の王朝は夏と号したと伝えながら、その遺址は中国領内にて未だに発見されず、中国人が大夏と記した地はアレクサンドロス3世の引率した古代ギリシア人の後裔が王朝を営んだ地であった。
 大和・葛城郡へ抜ける"山門"への入口に該る河内・安宿郡に在地した飛鳥部奈止麻呂の女として、百済永継の生した藤原北家・冬嗣の同母兄として日野家祖の諱はまた真夏であった。
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Ⅱ第4話 二月騒動について 3

2012-11-02 | 日本史
 『愚管抄』巻第六に拠ると牧の方の事変において事変の処置をリードした者は北条義時と偏諱を通有する三浦義村であるとし、実朝暗殺における後鳥羽院の近臣であった忠綱や平頼盛の息らを介した三浦義村の陰がちらつき、摂家将軍の推戴を唱道した義村を『抄』は特筆している。
 『吾妻鏡』が治承・寿永の内乱期に小山朝政に敗れて山陰道を経て西海道へ落去したとする藤原秀郷流の足利忠綱が後鳥羽院・近臣の前身であったと憶測するならば、実朝の右大臣拝賀式の挙行された鶴ヶ岡へ参列する為に鎌倉へ下向した平頼盛の息である光盛は宝治合戦後に存続した三浦義村の従弟の息とされる者と同一人であった可能性が有り、三浦氏の系譜にて三浦郡芦名郷を本貫とした光盛の弟を盛時と伝える点、宝治合戦後に北条得宗被官として侍所所司として顕れる盛時とは三浦郡へ入部した平頼盛の息・光盛にとって弟となり、『抄』が後鳥羽院・近臣である忠綱と謀議を為していたかとする源頼政の孫を"誅殺"した盛時と同一人であった可能性がまた有る。
 三浦義村の従兄となる和田義盛を討った合戦にて軍奉行を任じた者もまた義村と偏諱を通有する二階堂行村であったが、行村の息である行方は初の皇族将軍となった後に京都へ追却された宗尊親王の御所奉行を務めており、二階堂行村の後裔が楠木正成の詰城へ寄せながら足利尊氏の六波羅探題攻略に至るまで正成の詰城陥落を延引させた貞藤であった。
 五味文彦東大名誉教授に拠ると、『吾妻鏡』の編纂は二階堂行村の兄・行光の後裔となる行貞が平禅門との関係を譴責されたものか禅門の討滅直後に政所執事を罷免された後に、再度復職した1302年に行村の後裔らと抗う格にて成されたものと云う。
 為に『鏡』は三浦氏討滅において当初三浦義村と通謀していたかと思われる平盛時が北条氏側へ左袒したことを賞して盛時の兄・光盛が入嗣した芦名氏の家祖となる佐原義連を顕彰する記事を揮っており、対して京都へ任官していた大江広元の息である長井時広が平光盛ともども実朝の右大臣拝賀式へ参列する為に鎌倉へ下向するも官を続けるべく帰京の嘆願を二階堂行村へ依頼したが、朝廷を優位に捉える時広の考えに激怒したとする実朝の反応を踏まえ時広の再度に亘る執り成しの要請を峻拒したとする記事など、『鏡』の編纂をリードした主流派・行貞による反主流派の祖への貶奪が看られる。

 北条泰時の長子である時氏は三浦義村の女を母とし安達氏を室としたが、時氏の妹は宝治合戦で滅ぶ三浦泰村へ嫁しており、北条得宗被官となった平盛時は一般に時氏の母が同族である佐原氏へ再嫁して生した時氏の弟であるとされている。
 泰時の次子である時実は他編にて言及した多治比姓を唱えて武蔵・加美郡阿保郷を本貫とした安保実員の女を母とし、1227年6月18日京洛にて北条得宗被官であった高橋次郎によって殺害されている。
 そして、『鏡』が時実の没した当に3年後となる6月18日付を以て時氏が死没した記事を著していることは史家のよく指摘する処である。
 北条時氏の長子である経時は安達氏を母とし宇都宮氏を室としたが父と同じく"夭折"し、経時の同母弟となる時頼は長子・時輔を出雲・仁多郡在地の三処氏より生し、終始得宗家に反抗した名越流が三浦郡への入口に所在したのとは対照的に甘縄郷に所在した安達氏や義時の弟・時房から派した大仏流とともに東海道口を堅めた極楽寺流祖となる重時の女より嫡子・時宗を生している。
 『愚管抄』巻第六に拠ると北条時政の謀略への対策を政子から相談された三浦義村は在京する平賀朝雅の首級を伯耆に在地した金持氏に上げさせたとするが、『鏡』が小山朝政に敗れ領国を逐われた足利忠綱を山陰道を経て西海道へ落去したとする点、三浦義村は治承・寿永の内乱期に斯地にて忠綱との交誼を得たものか、三浦一族たる岡崎義実らの巨大な陸兵力が蝟集した相模川西岸の北方に位置する愛甲郡下に毛利荘を営む源義家の孫が大江広元の息たる季光へ所職を更迭され、信濃・水内郡下の若槻荘へ転じており、往時の出雲には出雲郡かと思われる地にやはり若槻姓を称えた族が看られ、神門郡下には上野・多胡郡片山郷を本貫とし有道姓を唱えた族と同じ片山姓を称えた族、意宇郡から楯縫郡さらには仁多郡へと広範な領域に所職を有して上野・多胡荘を領掌した惟宗姓を唱える多胡氏と同姓の族などもまた看られて、出雲・多胡氏が領掌した楯縫郡下の平田保は『大伴系図』なる文献に拠ると鎌倉初期には朝山氏が所職を有していたとし、北条時政の母方祖父が伴為房であったことを想起させる。
 仁多郡に在地した朝山氏の後裔は、若槻氏や片山氏とともに14世紀の観応年間には勤皇党に与していたことが伝えられている。
 出雲・多胡氏が所職を有した奥出雲の仁多郡は『砂の器』の舞台として著者の実父の出身地だそうだが、同郡にはさらに布施郷に所職を有して上野・多胡郡神保郷を本貫とした有道氏を出自としたかと思われる神保姓を称えた族が看られ、仁多郡下にて唯一の荘園であった横田荘は平家没官領として同荘に北接する三処郷に在地した族が接収したとされる。
 承久の乱より8年経った横田荘の地頭職は三処氏未亡人であることを確認し得て、文永元年六波羅探題へ赴任した時宗の庶兄・時輔が同9年に幕府より誅殺される二月騒動の起きた前年に横田荘の地頭職を時輔と伝え、三処郷は三処氏未亡人となっている。
 時輔の母は宝治合戦の翌年に四代将軍付きの侍女として経時へ嫁した後に時頼へ再嫁して時輔を生しており、弘安年間の銘を遺す横田荘下の神社に伝わる棟札には時輔の母を「地頭平氏三所比丘尼妙音」とする点、三処氏との間に時輔の母を生して三処郷の地頭職を有した未亡人は三浦氏を出自としたのではないかとの説が在る。
 時輔が誅殺される二月騒動にて宝治合戦にての三浦氏族滅より免れた芦名光盛の息が自刃している点、一般に光盛は上に言及した佐原義連の息として三浦義村の従弟が時氏を生した後に北条泰時より離別された義村の女より生した息とされ、しかし、上に論じた通り実に義村と通謀していた疑いの有る平光盛その者が義村の従弟へ入嗣した可能性が濃厚であり、二月騒動の意味とは宝治合戦にて果たした相模の大身・三浦氏族滅の後に猶山陰に残存する勢力を掃討するものであったかと思われる。
 和田義盛の本貫を間近くした三浦郡初声郷に建つ真言宗派妙音寺と宗派・寺号を等しくする寺院がまた群馬県桐生市に所在し、平家に与した藤姓・足利俊綱を征伐すべく頼朝は和田義盛の弟を将に佐原義連や宇佐美実政らを差遣するや、俊綱は家人であった桐生六郎の弑逆を蒙り、『鏡』は小山朝政の軍勢に敗れた俊綱の息・忠綱が桐生六郎に山陰道を経て西海道へ落去すべしと説得したとし、主の首級を呈し梶原景時を通じて御家人への取り立てを請願した桐生六郎を頼朝は「譜代の主人を誅す意を造る之企て、尤も不當也。一旦たりと雖も賞翫するに不足。早く誅す可き之由」を下した。(おわり)

 本編を成すに当り、細川重男氏著『北条氏と鎌倉幕府』(講談社 2011年刊)並びに『中世前期の仁多郡』及び『横田荘と女性』を参照させて戴きました。
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Ⅱ第3話 二月騒動について 2

2012-11-02 | 日本史
 二階堂行政は伊豆に在地した藤原南家祖三子・乙麻呂流となる工藤氏と同系とされるが、行政の父・行遠は頼朝の母方祖父である南家祖四子・巨勢麻呂流となる季範の妹との間に行政を生したと云う。
 ところで、頼朝の伯父として季範の息である範忠は平治の乱後に駿河郡香貫郷にて頼朝の同母弟である希義を捕縛して平家へ差し出しているが、範忠の母方祖父は源行遠とされている。
 想えば『愚管抄』巻第六は実朝の学問の相手を演じたとする源仲章の父を光遠と記している。
 二階堂行政は藤原秀郷の流れを汲む佐藤伊賀守朝光へ女を嫁し、美濃・稲葉山に築いた城を朝光へ譲与したとの伝を見る。
 また、伊豆在庁に過ぎなかった北条時政と同じく武蔵在庁であった太田政光は宇都宮氏二代とする八田宗綱の女に入婿した縁より下野・都賀郡小山荘へ入部し、藤原秀郷が本拠とした安蘇郡と隣接する足利郡に蟠踞して秀郷流の足利俊綱と下野国内で双璧を成す大身へと伸し上がるが、政光の親族として下総・結城郡へ入部する朝光や葛飾郡下河辺荘へ入部する行平らは頼朝より源氏の門葉に次ぐ准門葉の格を与えられ、行平の父は行義、弟は政義と称えた。
 北条時政の継室である牧の方の父は頼朝の伯父が希義を捕らえた駿河郡香貫郷に間近い大岡牧を預かる宗親であったが、大岡牧の領家は清盛の弟である平頼盛であった。
 北条時政が牧の方との間に生した女を室とした平賀朝雅(朝政)を将軍に擁立せんと謀った企てを潰した政子が頼った相手は『愚管抄』巻第六に拠ると「智謀にたけた者であった」三浦義村であり、『抄』は義村の差配で時政を伊豆へ追却し且つ在京していた朝雅を討ったとしており、朝雅の首級を上げた者が伯耆に在地した「金持という者」と言及している点は留意される。
 細川重男氏が『北条氏と鎌倉幕府』で言及している通り、北条義時の偏諱は三浦義明・義澄・義村と三浦氏嫡流が通した偏諱を承けたものであろうし、『抄』が「三浦党の長老」とする和田義盛を討った時の軍奉行は二階堂行政の息である行村であった。
 北条時政と云い、小山政光・朝政父子と云い、また頼朝に近侍した伊豆を本貫とする宇佐美実政と云い、政の偏諱は或いは二階堂行政より承けたものか、奥州征伐にて軍奉行を任じた行政が藤原秀郷の流れを汲む奥州藤原氏の本拠地に見た二階堂を模造した鎌倉郡の地が後世に二階堂の字名を伝えるが、北条時政が鎌倉にて営んだ邸は三浦氏の本拠へ通ずる名越郷であったのに対し、二階堂行政が邸を構えた地は後背地を延々と狸郷とした相武に跨る丘陵地であった。
 広常が粛清されたのは遠祖累代に亘って補された上総介と云う官職が幕府の統制を踰越するものであったからと思われ、三浦義村の従兄となる和田義盛が広常の遺領を襲う点も義盛の粛清が予定されたものであったろうと推測される。
 千葉氏の分流として上総に在地した士らもまた宝治合戦に連座しており、『吾妻鏡』は族滅を免れた三浦郡芦名郷を本貫とする族の祖となる佐原義連を顕彰する記事を揮っている。
 頼朝の伊豆配流を追うように武蔵・比企郡司へ任じた比企掃部允の実名を源頼義の郎党として相模の秦野盆地へ入部した佐伯経範の後裔とする波多野氏の系譜記録は遠としている点、比企掃部允の室とともに伊豆時代の頼朝を扶育した寒河尼の父もまた宇都宮氏二代とする八田綱であり、北条時政の継室である牧の方の父を『愚管抄』巻第六は長らく頼盛に仕えていた「武者ではない」親とし、『東寺百合文書』にて子とされる頼盛の母は有道惟能が家令を務めた藤原伊周の弟である隆家より6世として『尊卑分脈』で弟を宗親と伝え、時政が牧の方より生した政範は『吾妻鏡』にて16歳にして従五位下の官位を与えられている。
 有道惟能の息である経行が源義家・嫡子の息を介して相婿の関係に在った者の息が後白河院政期に長らく左大臣を任じた経であり、源義家の嫡子であった義忠の息・経国を猶子とした者が下野・足利荘へ入部する源義国であった。
 『抄』第六は比企掃部允の結んだ党に"ミセヤノ大夫行時"なる者が加わっており、行時の女より比企能員は源頼家の室を生したとし、行時はまた有道惟能を祖とする「児玉党の一人を婿としていた」とする意味深長な文言を以て段を閉じている。
 比企掃部允の室が生した長女は惟宗広言との間に島津忠久を生した後に安達盛長へ再嫁して源範頼の室を生しており、『抄』巻第五にて摂関家領であったとする島津荘の預所職を得ていたのは惟宗氏であって、惟宗氏の出自である秦氏の本貫は讃岐であったが、秦姓を唱えた長宗我部氏の如く『抄』巻第六は比企掃部允の嗣子となった能員を「阿波国の者である」と態々割注を打っており、能員の弟である朝宗の女を北条義時は室としている。
 比企掃部允の室が生した次女は秩父氏の系統となる河越氏へ嫁して源義経の室を生しており、三女は政子・義時の母方祖父である伊東祐親の息へ嫁した後に源義光の流れを汲む信濃・佐久郡に在地した平賀義信へ再嫁し朝雅を生している。
 幕府によって粛清された面々として、上総介広常は上に述べた理由から、武田信義の弟である安田義定や信義の長子である一条忠頼らは伊豆・田方郡下の北条時政邸を近くして信光寺を建立した信義の5子・信光との関係から、秩父氏の系統である畠山重忠は北条時政を岳父とした重忠の従弟・稲毛重成との関係において夫々粛清されたかと推測されるが、源範頼・義経・頼家や比企能員らは比企尼を軸にして粛清されたものと思われ、時政の継室・牧の方を軸としては信濃源氏である平賀朝雅や牧の方の伯母・池禅尼の眷族となる藤原信隆の女を母とした後鳥羽院、信隆の息・信清の女を室とした実朝が粛清されており、頼朝を軸とした義母において比企尼と牧の方或いは平頼盛の室を軸とした面々は粛清され、寒河尼を軸とした面々は頼朝より厚遇されている。

 治承・寿永の内乱期に頼朝が差遣した三浦義村の叔父である義連や宇佐美実政らによって足利荘を拠点とした俊綱が滅ぼされ、下野からは藤原秀郷の流れを汲む勢力が一掃されるが、俊綱は源義国の息である義重に足利荘を与えた平家嫡宗・重盛に訴え所職を奪還しており、足利俊綱の息・忠綱は足利荘と渡良瀬川を挿んで相対する上野・新田荘を圧さえた義重から所職の返還を清盛へ請願し、一旦は認められるも寸刻で退けられた(逆に、新田義重は清盛より所職を保障された)上に小山朝政には実力で退けられ、『吾妻鏡』は足利忠綱が山陰道を経て西海道へ落去したとする。
 『抄』巻第六は後鳥羽院に仕えた北面の武士として「漢字さえ知らないような者であったが」院の「御在位中のころから伺候しなれて、側近に召し使われていた」忠綱が在ったと叙べ、実朝の後嗣を幕府が奏上すると忠綱が人臣の息であれば宜しい旨を応え、三浦義村の思いつきで九条兼実の孫を迎えることなったとする。
 『抄』は続けて結局九条兼実の長孫に代え次孫が鎌倉へ下った翌月、内裏の警衛を務めていた源頼政の孫が謀反を企んだとして盛時なる士が誅殺したが、頼政の孫が謀反に誘った伊予在地の河野なる士が「陰謀の内容を話した」とし、その翌月後鳥羽院が「よくよく静かにものを考えてみると、この忠綱という男を」「とりたてた過失は、どう考えてみても取るところのない間違いであったとよくわかった」として忠綱を排除したが、忠綱が頼政の孫と「特に親密に語り合って、人からあやしまれたこともあったが、」頼政・孫の「後見役であった法師が捕えられていろいろなことをいったなどといわれていることについては、忠綱がひろく公表することもさせずに、法師を関東へ下しつかわした」とする。
 四代将軍として鎌倉へ下る九条兼実の曽孫は、平忠常が朝家へ叛乱を演ずる翌年に没した閑院流祖・公季の流れを汲む公経の孫として、藤原北家嫡流と閑院流の血脈を併せもつ者であった。
 鎌倉期に『古今著聞集』を編んで九条家と公経を祖とする西園寺家とに亘って仕えた橘成季の名は、梶原景時を族滅させた東海道・清見ヶ関が在った入江荘下にて内管領・長崎氏を連想させる長崎郷や得宗被官であった工藤氏と等しく藤原南家祖三子・乙麻呂流とする吉川氏の本貫地とともに楠木郷の字名を看受け、橘逸勢が承和の変で伊豆へ配流されたことから楠木正成の出自を憶測させる。
 崇徳・後白河両帝の母方祖父となる閑院流・公実の孫・公能を『抄』巻第二は平清盛が初めて入閣するや忽ち極官へ昇った時の六条帝の母方祖父かとするが、大江広元の母こそまた公能の女であった。
 実朝の右大臣拝賀式が挙行された鶴ヶ岡社へ京から赴いた者らは『抄』に拠ると、実朝・室の父として藤原隆家より7世となる信清の息、翌年に四代将軍として鎌倉へ下る頼経の祖父である公経の息、そして平頼盛の息である光盛らであったが、上に言及した三浦義連の孫として三浦郡芦名郷を本貫とした光盛の後裔は宝治合戦後も生き残っており、この光盛の弟は盛時と伝わっている。
 伊賀朝光の長子である光季は北条時政が将軍への擁立を謀った平賀朝雅と同じく京都守護を任じ、承久の乱にては河野通信とともに後鳥羽院へ与しており、朝光の次子・光宗は二階堂行政が初めて任じた政所執事を任じ、北条義時の死没に因り自身の妹が義時との間に生した政村を執権に、頼朝の妹との間に生した一条能保の息・実雅を将軍とすべく謀るも、政子により泰時が執権に就き挫かれる。
 しかしながら、伊賀光宗が得た陸奥・磐城郡好島荘の所職は後鳥羽院へ左袒した光季の息へ伝領し、光季・光宗らの弟が父・朝光へ譲与された朝光の岳父である二階堂行政の築いた稲葉山城を継承し、後裔を戦国期の西美濃三人衆として知られる稲葉良通とし、河野氏の流れを汲む林氏へ入嗣したとも、逆に林氏より入嗣したともされつ、織田信長の首席家老を眷族としたと云う。
 『吾妻鏡』元久2年閏7月29日条の記事は実朝より河野通信へ下した御教書として通信が鎌倉御家人であったとし、大山祇命を祭神とする三島社が大山祇神社の所在する伊予在地の領主を永仁の徳政令の適用される幕府御家人であることを主張する目的で成した偽文書を『鏡』は敢えて利用している。

 承久の乱時の恩沢奉行を任じた者は後藤基綱であったが、基綱の父は『愚管抄』巻第六に一条能保の郎党として中原政経とともに顕れる基清であり、基清の父は西行の弟に該る。
 中原政経の名からは執権・貞時へ『平政連諫草』を著した中原政連を連想させるが、西行こと佐藤義清の曽祖父となる公清は藤原秀郷より6世として初めて佐藤姓を称えたとされ、佐藤姓を称えた伊賀朝光はこの後裔と思われ、秀郷6世たる公清の叔父からはやはり秀郷の後裔となる奥州藤原氏の配下として陸奥・信夫郡を領掌した基治を派しており、基治は平良文の室と同じく母を上野在地の大窪氏としたと伝わる。
 同様なこととして、平忠常の孫が"天女"を室としたか中原師直なる者の女を室としたかの伝は、『愚管抄』巻第六が法然の教団に頼朝より閉塞を要求された後白河院の近臣・高階泰経に仕えていた侍に中原師広が在ったとし、中原親能や大江広元らの養父は中原広季であったが、法然の導きにより九条兼実が出家を遂げ、法然の唱道する阿弥陀仏信仰より得た観阿を法名とした北条泰時など、鎌倉幕府にて恩沢奉行を任じた中原師員の息・師連が和田義盛の討滅において軍奉行を任じた二階堂行村の息・行方とともに『吾妻鏡』が記事を中絶させる将軍・宗尊親王の御所奉行を任じたことを連想させ、また宇都宮氏は中原氏を出自とする説を見る。(つづく)
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Ⅱ第2話 二月騒動について 1

2012-11-02 | 日本史
 『愚管抄』巻第三に拠ると996年の1月には藤原伊周の台閣における円座が取り上げられ、翌月には伊周の家令であった有道惟能もまた解官されている。
 有道惟能の下野した先が、本姓を秦氏とする惟宗允亮の編んだ『政事要略』に拠ると、惟宗氏が初めて別当を任じたとする武蔵・児玉郡阿久原牧であった。
 有道惟能が赴任した阿久原牧を拠点に惟能の息・惟行は遠峰なる雅号を伝えて宇治殿・頼通による摂関政治の全盛時代を関東で生きた筈で、児玉党祖となる惟行の次子・経行は祖父・父より継承した児玉郡下の阿久原牧を拠点としつ、経行の孫・行時は多胡郡片山郷を領しているが、多胡荘を営んだ族としては有道姓を唱えた族の外に多比良郷の字名を称えて出自を不詳とした族や惟宗姓を称える多胡氏が在った。
 伊周の家令を務めた有道惟能は平高望の孫であり上総を拠点にした良兼の息である公雅の女を母としたが、宇治殿が執政した時代に房総にて叛乱を果たした平忠常の息もまた公雅の女を母としており、忠常の孫はまた中原師直なる者の女を母としたか或いは"天女"を母としたかとする異様な伝を遺している。
 朝家にて平安期より江戸期に至るまで太政官少納言局の差配した中原氏の源流は大和古族となる十市県主とする伝を看るが、"天女"とは天孫族の女の意であるか。
 平忠常が房総で猖獗を極める叛乱を演じ始めた年は後世からして摂籙となる師輔が醍醐帝の女との間に生した閑院流祖・公季の卒去する前年であったが、平忠常の征討を命じられた者は摂関家に仕えていたとする平直方であった。
 直方は平高望の長子である国香の息・貞盛より派した後裔と嘯いているが、『尊卑分脈』に看るその系譜は真剣に考察するに値しない出来映えであり、寧ろ、上に掲げた有道氏の系譜に示される伊周の家令を務めた惟能の従兄とする定直の偏諱から、この者が平直方であったように思う。
 仁明帝の即位した833年に朝家より有道姓を与えられた氏道は桓武帝の息である葛原親王の家令を務めているが、親王自身と親王の孫とする平高望との間には生涯を無位無官で終え事歴を全く伝えない高見王が在ったとされ、相模・高座郡下には葛原親王を祀った皇子大社が建ち、近傍に御所見とする字名を見せることから、高見王は往時其処に所在して、王の息となる高望は斯地より任国の上総へ渡ったものか。
 摂関期頃に鎌倉郡に簇生した在地領主は三浦郡下の在地領主と同源とする説を多くするが、鎌倉郡を通って上総へ向かうには逗子で相模湾へ注ぐ田越川を遡り、源流となる丘陵を一重越えるだけで東京湾岸へ抜ける。
 この点、下掲図にて二階堂行政の曽祖父とする者の弟が三浦郡船越郷を連想させる姓を称えたと伝える点は注目される。
 この時代の田越川流域における在地領主は確認し得ず、虞らく湘南より上総を結ぶルートにて要衝となる逗子一帯は三浦郡に往古から蟠踞した大身すら在地を許さない強力な外部からの勢力が同地域の安全保障を画していたものと憶測される。
 桓武平氏の高祖となる平高望が上総へ向かう途次に逗留した地であったことが逗子の地名の謂であろう、田越川畔には平家最期の嫡宗となる重盛の息の墓所が伝わっている。
 上に掲げた有道氏の系譜にて氏道とともに朝家より賜姓された者に下総少目(-さかん)・継道が在ったが、伊周の父である摂籙・道隆の家令を務めた惟広の先代に至るまで有道氏は平安奠都の頃から継の偏諱を通しており、多分に奠都前後の朝家にて権勢を揮った藤原式家祖の息として平城・嵯峨両帝の外祖父であった良継の偏諱を承けたものかと推測され、摂関家に仕えて在京しながら鎌倉郡下の私邸を源頼義へ譲与し且つ女を与えて義家を生さしめた平直方が有道惟能の従兄であった直ならば、二階堂貞盛より政所執事職を伊勢継が継承して以往同職を世襲し貞の偏諱を江戸期に至るまで通す伊勢氏の祖として鎌倉期に上総守護を任じた足利氏の根本被官である平俊・宗父子の源流として、有道氏の嫡系か或いは平直方=有道定直に突き当たるものかと憶測したくなる。

 摂関政治の全盛期に房総を亡国と云わしめる程に荒廃させた平忠常の孫より『愚管抄』巻第五にて石橋山合戦に破れた頼朝が向かった先を支配していた広常に至るまで夫々の母方祖父を伝えないが、忠常の曽孫にとって兄の孫となる者が千葉常胤であり、忠常の玄孫となり広常の父となる者は常澄と称えており、父を義澄とする三浦義村の弟が胤義と称えたことは、三浦氏が両総平氏と眷属関係に有ったことを推測させる。
 一方、忠常より先代は平良文―忠頼―忠常とされ、朝家への叛乱を果たした将門の叔父は偏諱を文とし、忠頼の弟が三浦郡に蟠踞した族の祖となる忠光とされ、忠常の兄が秩父平氏の祖とするが、忠頼の名は承平・天慶の乱を克服した貞信公・忠平と清和源氏頼光・頼信兄弟の偏諱を併せた感を得て、上に言及した有道経行の孫らが入部した上野・多胡郡下の荘園に出自を不明とした多比良姓を看る点、多胡荘を近くする武蔵・加美郡下で丹荘を営んだ族が河内・丹比(たじひ)郡に発祥した多治比姓を称え、承久の乱に臨んだ北条政子が幕府御家人らに多治比氏を出自とする「阿保正隆以下、武蔵の軍勢が鎌倉に到着次第、泰時を将として直ちに東海道へ向けて進発せよ」との檄を発し、平忠頼の母方祖父を上野在地の大野茂吉と伝える点は"多"の茂吉であったかと思われ、忠頼の弟・忠光の息・忠通を三浦氏祖とする点もまた頼光の郎党であった碓井貞光の諱と音を似せ、忠光の息とする忠通の諱もまた藤原頼通の偏諱を帯した感じがし得る。
 源頼義の郎党であった佐伯経範の後裔が西湘・秦野盆地へ入部して波多野氏となるのと同じく、鎌倉郡下にて山之内荘を営んだ首藤氏が頼義の郎党として美濃・席田郡に在地した守部氏を出自として鎌倉郡へ入部していることから、忠常の兄・将恒は虞らく冶金と関係した多治比氏を出自としわが国で初めて産銅を見た秩父郡に入部したものであろう。
 桓武平氏の太祖たる葛原親王は多治比真宗を母とした。
 平公雅の女を室とした忠常がやはり公雅の女を母とする有道惟能の従兄であろう平直方(なおつね)こと有道定直の女を室とした頼義の父・頼信に闘わずして帰服した所以はその辺の眷属関係に有ったものかと推測される。
 しかし、此処で留意しておきたいことは、平家全盛期に遠祖累代上総に根を張った広常に替えて四等官制における二等官たる介を任じた者は伊勢・度会郡古市荘を本貫とした伊藤忠清であったことであり、忠清の父は景綱であって、平家末期の大番頭を任じた平盛綱と同名たる鎌倉初期の北条得宗被官が在ったように、同じく得宗被官であった尾藤景綱が鎌倉郡下の山之内荘に在地したことを想起させる。
 『吾妻鏡』の記す幕府初期には似たような例が多く、頼朝の祐筆を務めた藤原邦通の名は九条家に仕えながら平清盛へ摂関職と藤原氏家督との分離を献言した藤原邦綱を連想させ、史家が『明月記』からの剽窃を指摘する幕府御家人の妻との私通を誅せられた藤原保季の名もまた道長四天王として河内源氏祖たる頼信、伊勢平氏祖たる維衡、上に言及した平公雅の息である致頼とともに藤原南家祖四子・巨勢麻呂流となる保昌を連想させ、藤原保昌の父は平致頼の後裔として尾張・知多郡下にて内海荘を営み源義朝を謀殺した忠致の諱を逆転させた致忠であった。(つづく)
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Ⅱ第1話 十二人+αの怒れる男たち

2012-10-29 | 日本史
 『愚管抄』巻第三が叙べる「ひどく乱暴な人であった」隆家が花山院への狼藉に因り左遷されながら、隆家の後裔には隆家の兄・伊周の後裔とは異にして頼朝の助命を清盛に嘆願した池禅尼や後鳥羽院の母方祖父となる信隆、信隆の息として実朝の室を生す信清といた史上に名を遺す人物を輩出している。
 帰京を宥されて後の「隆家は大宰権帥を望んで九州に下ったりした。隆家は九州でいいあらわせないほどの財産を作って都に上り、」道長「の邸へ参上なさって面会されたが、特に話すこともないので自分の姓名を書いた札をふところからとり出してさし出して退出された。たいへん賢い心の持主であった」が、『抄』は伊周の「流罪のことについては、世間では」道長「の一党がやったことと思われたので、一条天皇はひどく心をいたませられた」とする。
 伊周の母は高内侍こと高階貴子であり一条中宮・定子を生し、帝は「何としても」定子の生した一宮を「位につけたいと」「御心の底に深く流れていて、」道長がその姉である帝の母をして恫喝し伊周を押し退けてまで「内覧の宣旨をお受けになった時なども、そのままに見のがしておいでになったが、」帝の諮問に与かった行成の答申により一宮の立太子を断念している。
 行成の父・義孝の姉は花山帝の母であり、花山帝の即位の時には既に蔵人頭を任じていた義孝の弟・義懐が花山帝の在位中朝政を壟断した。
 しかしながら、花山帝は在位中に突然の出家を遂げ、在位期間を僅か2年とする異常な退位を遂げ、一説に行成の一条帝への答申とは一宮生母が天武帝長子の血脈を引く為であったからとされている。
 もっとも、天武帝より7世となる高階氏祖・峰緒の孫は在原業平の息が入嗣したものであって、その業平・息の曽孫となる者が高階貴子であり、一条帝への答申を果たした行成の孫もまた高階氏へ入嗣した業平・息の玄孫として欲大弐の異名で呼ばれた成章の女を室としており、高階成章の玄孫が四条家成の息・山科実教へ入嗣し、鎌倉末期より戦国期に至るまで朝廷で理財を務める山科家へ入嗣する息を後白河院の近臣・平業房との間に儲けた高階栄子であって、欲大弐の弟のやはり玄孫となる者が源頼朝より罷免を要求される後白河院の近臣・高階泰経であった。
 高階貴子の父の岳父は紀淑光であり、淑光の父である紀長谷雄は菅原道真・門下にて最優等を謳われた人物であって、長谷雄の息・紀淑人はまた貞信公・忠平より藤原純友を懐柔する為伊予へ差遣されている。
 藤原伊周の家令を務めた有道惟能は菅原道真の玄孫となる人物の女を室とし、惟能の息とされる惟行が父の赴任した武蔵・児玉郡下の阿久原牧を拠点とし、上武に亘って繁衍する児玉党と呼ばれる在地領主らの始祖とされる。
 児玉惟能の次子・経行は女を源義家の孫となる経国へ嫁し、源経国の正室は白河院政期の摂籙・師実の息である経実の女であり、経国は下野・安蘇郡足利荘へ入部した源義家の息である義国の猶子となって、児玉経行が父・惟行より相続した阿久原牧と隣接する児玉郡山間の地に河内荘を立てている。
 児玉党に属する在地領主らが利根川畔の平野部へ進出する前の拠点となったのが、この河内荘であったとされる。
 児玉経行は行重・行高の2息を児玉郡と隣接する秩父郡を領掌した秩父重綱の猶子と為しているが、重綱の弟が父子二代に亘って拠点とした武蔵・橘樹郡河崎郷より三代目となる渋谷重国の代にて一挙に豊嶋郡谷盛荘から相模・高座郡吉田荘へと支配を展げる点、渋谷重国や児玉経行らが関わった源経国の偏諱から源義国との連携を推測させる。
 下野・安蘇郡を本拠とした藤原秀郷の後裔として足利荘を営んだ族は治承・寿永の内乱期に惣領の俊綱が頼朝と小山朝政に滅ぼされ、俊綱の息・忠綱は山陰道を経て西海道へ落去したと『吾妻鏡』は記すが、俊綱の弟であった有綱の息・基綱は足利荘に隣接する佐野荘を営んで、後裔を北条得宗被官と為している。
 源義国の次子・義康は頼朝の伯父・範忠の女を室とし足利義兼を生し、保元の乱では頼朝の父とともに後白河帝方として三条殿より崇徳院方の白河殿へ寄せており、義国の長子・義重は渡良瀬川を渡った上野・新田郡一円の荘園化を遂げながら自ら榛名郡八幡郷へ拠点を移し、義重の息・義俊もまた榛名郡里見郷を本貫とし、義重の息・義範に至っては児玉経行の後裔が展がった多野郡下の山名郷を本貫としており、里見義俊・山名義範は頼朝より惣領家からの独立を宣せられている。








 児玉経行が関わった源経国の父は義家の家督を継いだ義忠であったが、義忠の兄・義親は度重ねての殺人の罪科に因り朝廷からの命を被った平正盛に誅殺された。
 源義忠は平正盛の女を室としており、源平の血脈を相承けた経国に娘を継室に贈った児玉経行は経国正室の父である藤原経実とは眷属関係に在った。
 源経国は義国の猶子となる以前、従兄である為義により河内源氏の拠点であった河内・石川郡を逐われ、経実か或いは平正盛の許に寄寓していたとされ、為義の息・義賢は義の父となるが、義賢が上野へ入部するのと入れ替わるように京洛郊外の鞍馬へ隠棲している。 児玉経行の息として秩父重綱の猶子となった2人の息らの後裔は上野へ入部しており、行重の後裔として多野郡奥平郷を本貫とした族は近世大名となるまで存続しており、行高の後裔として甘楽郡小幡郷を本貫とした族もまた同様である。
 児玉経行の後裔らの中で此処で注目される者が行重の息として甘楽郡片山郷を本貫とした行時であり、この者が『愚管抄』巻第六にて記される"ミセヤノ大夫行時"ではないかと思われる点である。
 源為義の息・義賢が入部した多胡館は片山郷より東へ3.5km程の所に所在し、後に義賢は上野―相模を結ぶ鎌倉往還上で関東を南北二つに分かつ笛吹峠の北麓に秩父氏系・畠山重能が荒川上流の畔に構えた菅谷館を間近くする大蔵館へ移動しているが、頼朝の庶兄によって殺害された義賢の遺児・義仲を斉藤実盛が引致した先が信濃・筑摩郡下で大吉祖(おおきっそ)荘を営む中原兼遠であった。
 大和古族たる十市県主の後裔とし、朝家より10世紀後葉に中原姓を与えられた有象の従弟となる以忠の後裔は兼の偏諱を通しているが、雅号と思われる遠峰を記された児玉党祖・惟行の息・経行の親族にも同様な例を看る。
 ところで、大和古族たる十市県主の後裔として南北朝期から戦国期の大和に在地した十市氏もまた遠の偏諱を通しているが、児玉経行の息として秩父重綱の猶子となった行高の曽孫に伊勢姓を称えた遠経なる名が看られ、源義経の郎党であった伊勢義盛の邸址とされる地が碓氷郡板鼻郷である。
 行高の玄孫として碓氷郡後閑郷に在地したらしき政行の名が看られ、この地で想起することが戦国期に新田義貞の後裔とする景純が後閑に在地した北条政時を討ちその居城を奪取したとの伝であり、北条政時なる者の構えた後閑城はもと室町期に信濃で御嶽城を構えた依田忠政の築いたものとされ、想えば児玉党祖が拠点とした児玉郡下の阿久原牧を間近くし児玉党の士らより崇敬されたと云う金鑽神社が神体とする拝殿後方の丘に甲斐・武田氏より差遣された依田信守が御嶽城を築いたとする伝がまた在り、信濃・小県郡にて滋野一党の領掌する地と千曲川を挟んだ南側に蟠踞した依田氏は源義仲の挙兵に当たって居城を供出し、その後裔は室町期に滋野一党の領掌した芦田城を奪取して後、芦田姓を称えた士を多くして、他編で論じたことはこの芦田氏が足立遠元の後裔が入部した丹波・氷上郡芦田郷を中心とする荘園を奪った赤井氏の前身ではなかったかとしたことであった。
 しかし、戦国期に上野・碓氷郡後閑郷に在地した北条政時なる名から想起することは、『愚管抄』巻第六が和田義盛に雷同したとする児玉党の展がった地にて鎌倉期に義盛の曽孫とする業盛が高崎城を築いたとする伝である。
 平安期の高階氏が血脈的には在原業平の後裔であることを上に言及したが、武田信玄により降された上野・箕輪城主の長野業正もまた在原氏の後裔とし、業正の配下として厩橋・上泉郷に在地した信綱を江戸期に成った『関八州古戦録』は金刺秀綱とし、斉藤実盛を討った義仲の郎党として手塚光盛の兄である金刺盛澄は下諏訪社・秋宮の神職を出自とした。
 信濃・金刺部は大和国家の皇居が置かれた磯城郡金刺宮と結び付きそうで、中原氏は遠祖を磯城ツ彦と唱えている。

 和田義盛の母は相模・三浦郡長柄郷を所職として『吾妻鏡』が鎌倉景政の孫とする長江義景の女とし、父は鎌倉郡杉本郷を所職とした。
 三浦郡長柄郷の北界を画す丘陵を越えると田越川が東から西へ流れて平野の展がる逗子市となるが、逗子市と隣接する鎌倉郡下の滑川流域や三浦郡と較べても農耕に適した筈の逗子市内には平安後期における在地領主を確かにし得ない。
 他編で論じたことは、鎌倉景政は平良文の後裔でなく、上総を拠点とした平良兼の後裔と考えたことであったが、先に相模・高座郡下には桓武平氏の源流となる葛原親王を祀った社が建ち、近傍には御所見とする字名が看られ、高見王の息となる平高望が上総へ赴任する折、逗子の地に逗留したことが地名の由来と論じた。
 上に掲げた系図では二階堂行政の源流となる者の弟に工藤姓を称えたとする者が在り、そのまた弟は船越姓を称えたとする。
 上総より東京湾を横断し、現在の横須賀市船越より逗子市内の田越川源流へ抜けるのは三浦半島を最短距離で横断させる。
 農地に適した筈の逗子市内に平安後期における在地領主を見出せない点は、斯地が専ら伊豆・湘南・房総の間を往復する上で他に拠点をもつ有力な領主らの通路であった所以ではないか。
 藤原伊周の家令を務めた有道惟能の遠祖は葛原親王の家令を務めた丈部氏道であり、氏道の出身地は常陸・筑波郡であり、斯地と間近い下総・猿島郡を本拠にした将門が蹶起した時代、常陸へ赴任していた者が藤原南家祖三子・乙麻呂の流れを汲む惟幾であって、惟幾の息が工藤氏の遠祖となる為憲である。
 中原以忠の後裔が通した兼の偏諱や大和に在地して中原氏と同祖と唱えた十市氏が通した遠の偏諱、児玉党祖より次子の後裔が多く通した行の偏諱を交える点、二階堂行政の源流が工藤氏と同源と考えることには疑問を感じ、工藤氏は祐の偏諱を通している。
 二階堂行政や小山政光・朝政父子らは皆、北条時政の偏諱を承けたものであろうか。
 小山氏祖となる政光は武蔵在庁を務めていた処を八田宗綱の女・寒河尼へ入婿して下野・都賀郡へ入部したとされ、伊賀朝光は藤原秀郷の後裔である佐藤氏を本姓として二階堂行政の女を室としており、因みに伊賀朝光の後裔は陸奥・磐城郡下の好島荘へ入部し、同荘には鎌倉幕府創業の功臣・千葉常胤の息・大須賀胤信の後裔とする大須賀康高もまた入部しており、徳川家康の旗本先手四将のうち三人は佐藤氏の出自である榊原康政、大須賀康高と康高が戦国期の三河に忽然と現れた額田郡洞郷に在地していた本多忠勝であった。
      △ 足立遠元(後裔はあらかた丹波・氷上郡へ)
      × 安達盛長(1200年没)
      △ 大江広元(後裔は長井氏・毛利氏)
      × 梶原景時(1200年没)
      △ 中原親能(後裔は大友氏)
      ◎ 二階堂行政
      ○ 八田知家(後裔は小田氏)
      × 比企能員(1203年没)
      × 北条時政(1205年致仕)
      □ 北条義時
      × 三浦義澄(1200年没)
      △ 三善康信(後裔は飯尾氏・伊能氏)
      × 和田義盛(1213年没)
 頼家の親裁停止に因る幕府宿老の合議制に加えられた十三将について、安達盛長と三浦義澄は寿命から、梶原景時は粛清され早くに消え、比企能員や北条時政、和田義盛らもまた除かれ、大江広元や中原親能・足立遠元らの後裔は地方に移り、三善康信の後裔は鎌倉期において非主流の位置に在って、ただ八田知家の後裔は小田氏として関東に拠点を構え、結局残ったのは二階堂行政と北条義時であった。
 五味文彦東大名誉教授に拠ると『吾妻鏡』は二階堂行政の次子・行光の後裔となる信濃守系が中心となって編んだものとされ、行政の後裔が鎌倉幕府の滅亡に至るまで幕政の中枢に在った。
 『愚管抄』巻第六は二階堂行政の息・行光が藤原隆家の後裔を室とした実朝亡き後に政子の名代として後鳥羽院へ院の息を将軍として鎌倉降下を奏上したことを叙べるとともに行光が買官によって信濃守となったことを付言しており、それに応えた使者として顕れる院の側近・忠綱とは上に言及した秀郷流の足利忠綱であろうと憶測され、『抄』巻第六に源頼政の孫が内裏に仕えながら実朝が殺害された翌年に謀叛を企て、左衛門尉盛時なる者が首級を上げて後鳥羽院へ差し出したとし、院の側近であった忠綱が頼政の孫と「特に親密に語りあって、人からあやしまれたこともあったが、」頼政の孫「の後見役であった法師が捕えられていろいろなことをいったなどといわれていることについては、忠綱がひろく公表することもさせずに、法師を関東へ下しつかわした」(『日本の名著9』中央公論社 昭和46年刊)とする点、「智謀にたけた者であった」三浦義村の従弟の息とされながら実に平頼盛の息と推測され後に北条得宗被官となる盛時が頼政の孫を討ち取ったことを示唆しているものと考えられる。
 『抄』巻第六は実朝の鶴ヶ岡にての右大臣拝賀式に参列した京都側の顔触れとして実朝の室の岳父であり隆家より7世となる信清の息と隆家より6世となる池禅尼を母とする平頼盛の息・光盛の名を記し、後鳥羽院の母が信清の姉であり、頼盛の息と三浦義村の従弟の息は等しく光盛であって、三浦郡芦名郷へ入部した光盛の弟は盛時とされている。
 この盛時こそ宝治合戦後に侍所所司となる平盛時として霜月騒動で安達氏を族滅させた内管領・頼綱の父となり、芦名光盛の後裔もまた三浦氏族滅後も存続した。
 宇都宮氏二代たる八田宗綱の眷族として小山政光や結城朝光或いは二階堂行政の眷族として伊賀朝光や行光の偏諱たる光とは足立遠元の女が嫁して中原親能・大江広元兄弟を生した藤原定家の従兄である光能の偏諱と推測される。
 足立遠元の遠祖は武蔵・一宮たる大宮氷川社の神職であって『将門記』に顕れる武蔵武芝であろうと推測され、将門が義侠心を逞しくして幇助した武芝の遠祖とは藤原仲麻呂の叛乱を鎮圧した式家・良継に与力して武蔵姓を与えられた丈部不破麻呂であって、武蔵・足立郡の丈部は有道氏の源流たる常陸・筑波郡に在地した丈部と何らかの利害を通ずる関係に在ったものと憶測される。
 八田知家は宗綱の息として北条時政とともに平国香の後裔である常陸大掾氏を圧迫し常陸守護に補されているが、頼家とともに河内源氏の正嫡となる阿野全成を抹殺しており、何れも鎌倉幕権を確立する一環として為されたものとして、時政・頼家の利益を幇助するだけの矮小な目的であったとは思われない。
 知家の後裔である小田治久の居城にて北畠親房は『神皇正統記』を執筆したとされるが、児玉経行の後裔となる奥平氏や小野姓を唱えた横山党に属して北条得宗被官となる本間氏らが親房の太祖と等しく村上帝の息・為平親王の後裔とした点、八田知家が横山党を出自として後裔を室町幕府の評定衆を任ずるまで存続させる中条家長を猶子としていることも同様な趣旨と考えられる。
 『吾妻鏡』が北条泰時の母を阿波局とのみ記す点、北条時政が虞らく稲毛重成の室と同じく足立遠元の女より生した阿波局が阿野全成との間に生した息こそ泰時であったろうと思われ、義時が阿波局と阿野全成との間に生した時元を抹殺した点、全成が所職を有した駿河郡阿野荘を相続した者が時元の妹に入婿した四条家成の息・公佐であった。
 藤原隆家の後裔を母とした後鳥羽院へ宮家将軍の鎌倉降下を奏上した二階堂行光の後裔が鎌倉幕府・政所執事を継承するが、鎌倉末期には行光の兄・行村の後裔が政所執事職に就き、行村の後裔となる隠岐守流の道薀こと貞藤は武田信玄に法名を送った快川禅師が住持を務めた恵林寺を建立した人物であるが、1331年楠木正成の詰城を攻めながら、遅々として陥落を得ず、しかし貞藤は建武政権に加わっている。
 室町幕府にて政所執事を任じた二階堂忠行の名を看るが、その後伊勢貞継の後裔が世襲する。
 749年陸奥・小田郡にて史上初の産金を遂げた功に因り叙位された丈部大麻呂は、桓武平氏の高祖が土着した上総に在地した。
 桓武帝の息・葛原親王の家令を務めた丈部氏道ともに、仁明帝の即位した年に有道姓を与えられた下総少目・丈部継道が在った。
 二階堂行政が美濃・稲葉山に城を築き、行政の女婿であった伊賀朝光が譲り受け、その後裔となる稲葉氏を室とした明智光秀の股肱の臣たる斉藤利三が生した女が春日局であり、斉藤利三の母が再嫁した先が遠江・佐野郡石谷郷に在地した士であって、石谷氏は二階堂氏の後裔とし、藤原隆家の後裔とする三河守護代・西郷氏より嗣子を迎え、利三の母の出自である蜷川氏は本姓を宮道氏とし醍醐帝を生した藤原高藤の室・宮道列子と等しくするが、蜷川氏と姻戚であった高藤の後裔である甘露寺家が頼った長宗我部元親の正室は利三の母と石谷氏との間に生した女であった。
 そして、徳川秀忠の母は西郷氏であった。
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