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北条・織田・徳川の出自―「文字は死なない」

第0話 『愚管抄』巻第六をざっと見る

2012-10-26 | 日本史
 藤原南家祖四子・巨勢麻呂の玄孫の生した女は村上帝の長子を生しながら北家・嫡宗である九条殿・師輔の孫となる冷泉・円融らが在って即位を果たせず、有道惟広が家令を務めた北家・嫡宗である道隆が高階貴子より生した一条帝皇后・定子の生した敦康もまた、一条帝が熱望したにも拘わらず、高階氏が天武帝長子・高市皇子の血脈である為即位を果たし得なかった。
 藤原南家祖四子・巨勢麻呂の血脈ながら高階氏に扶育された信西の息が営んだ京洛郊外・東山の山荘で凝らされた密議に因り清盛の武断が下されたのは、天智帝の血脈を皇統に復することに功績を成した北家・魚名の三子の流れを汲む四条家成の息・成親、師光そして成親の息・成経であったが、朝と偏諱を等しくする清盛の弟盛の義兄となる俊寛は赦されなかった。
 同じく清盛の弟・教盛の女を室とした成経が帰京し得た点、清盛の頼盛に対する警戒がものを云ったと考えられるか。
 この時と『愚管抄』巻第五が「天狗のしわざとしか思えない」と二度も強調する後白河院に対する義仲の脅迫の後、朝廷が二度も崇徳帝と摂籙・忠実の次子・長を鎮魂する儀式を計っている点、権力闘争を勝ち残らねばならなかった勢力のうしろめたさが滲み出ている。
 文治元年末に九条兼実を内覧とする宣旨が下され、頼朝は朝廷に高階泰経の閉塞と勧修寺流・顕隆の曽孫となる蔵人頭・光雅の罷免を要求してから文治の元号が建久と替わった年に頼朝が初めて上洛した時、右大将補任拝賀の為参内する頼朝に付けられた武官は、頼長が鳥羽院の「第一の寵臣」であった四条家成へ「心を合わせて」狼藉をはたらく秦公春と協同した秦兼平であった。
 その際、頼朝に随った者らは、摂籙・基房へ狼藉をはたらいた平資盛を婿とする道長6世の基家の甥として頼朝の妹を室とした一条能保と能保が頼朝の妹より生した全子(まさこ)を室とした閑院流・公経そして基家の息として能保の猶子となる保家であった。
 この時には既に、頼朝は顕隆の兄にとって孫となる吉田経房を朝幕間の取次を担う者として考えていた。
 源頼光の郎党である渡辺綱の党に嘗て在って「四年の間同じ伊豆国で朝夕頼朝に馴れ親しんでいた」文覚に、後鳥羽帝は法皇が国司の収入分を押さえ得る播磨国を宛がって東寺の復興を期したが、東大寺再建には播磨国と同様な備前国を当て、1195年の再建落成式典に臨むべく二度目の上洛を果たした頼朝は再び九条兼実との会談を重ねたが、卿の態度は「万事よそよそしい空気」であった。
 何故ならば、九条兼実は頼朝が初めて上洛した年に女を後鳥羽帝へ入内させており、兼実の女は既に懐妊している処、頼朝は自らの女を入内させたい意向を村上源氏たる大納言・通親へ伝えており、当の通親自身が白河院の近臣であった南家祖・四子の流れを汲む季綱の玄孫となる範季の姪として後鳥羽帝との間に土御門帝を生していた範子との間に女を儲けていたのであって、さらに義仲が後白河院を脅迫した法住寺殿合戦にて天台座主・明雲の門弟であった後白河院の息がまた密通していたとする後白河院の寵妃・高階栄子にも院との間に生した女が在ったからである。
 そこへ、頼朝の「目くばせにより」九条兼実は後白河院の没した時にもちあがった播磨・備前での大規模な立荘案を潰し、上に言及した成経ややはり四条家成の息となる山科実教を台閣から排除した為、頼朝が二度目の上洛を果たした翌年、兼実は閉塞を下命された。
 高階栄子は後白河院の近臣であった平業房との間に生した息を山科実教の嗣子とし、源通親や明雲の門弟であった後白河院の息らと結託し、法皇の得分となる播磨・備前を院の死没に因り私荘化を図った訳で、頼朝の望みが通親の手玉に乗せられた格好となった。

 1199年1月11日に頼朝が出家し13日に没したことは京洛にて二日後には巷間に伝わっており、先に没していた一条能保の郎党であった中原政清に係る通親への中傷を梶原景季が当人へ告げ、政清は後鳥羽院へ庇護を嘆願するが、通親は頼家と「かねて味方であった」大江広元へ訴え政清を流罪へ処している。
 間も無く九条兼実は当時の巷間に隆盛を見た法然に導かれて出家したが、法然の教団に在った者として『抄』は中原師広の存在を指摘しており、師広は高階泰経に仕えていたとする。
 有道惟広が家令を務めた道隆の次子・隆家より6世となり、父が崇徳・後白河両帝を生した女の妹を母とする信隆の女が後鳥羽院の母であり、後鳥羽院の母にとって弟となる信清の女が源実朝へ嫁している。
 『抄』は実朝・室の「父である信清の君は永年幕府のことを朝廷に取り次ぐ役をつとめていたが、公経大納言もまたたしかに同じ取次ぎの役だった」(『日本の名著9』中央公論社 昭和46年刊)と叙べている。
 さらに朝幕間の連絡を果たした者として、源「仲章―光遠という者の子である―といって、」「菅家の長守朝臣の弟子になっ」た「者があったが、何か縁故などがあったからであろうか、」実朝の「師となり、常に鎌倉に下って学問の相手をした」とするが、藤原隆家の父・兄に家令として仕えた有道惟広・惟能父子の室・母は菅原道真の曽孫となる薫宣の女であって、「仲章は京都では、」「あの男が将軍にあれこれと漢家の例を引きながら何か教えているとは、などと人々が噂をするので、また何をやっているのかと思う人々もあった」とする。
 『抄』が教える朝幕間に亘って似たような役を演じた者として、後鳥羽院の北面に忠綱が在ったとする。
 「漢字さえ知らないような者であったが、」「後鳥羽天皇の御在位のころから伺候しなれて、側近に召し使われていた」とし、院は忠綱を使いとして公経に希望している大将への昇進はすぐには困難である向きを伝えんとした処、「せめてこれだけでもと願ってはどうか」との院の趣旨は「少しもいわず、もっぱら今回はだめだということだけを」「いったので、」公経は応えて「妻は実朝の縁者ですから、関東へ行けば命はながらえましょう」とした処を、忠綱が院へ伝えた処は「上皇をおどし『実朝に訴えるといっておりました』などとありもしないこと」であって、激怒した上皇によって公経は閉塞を下命される。
 実朝が希望していた右大臣補任の拝賀として鶴岡八幡宮への参拝が執り行われた時、朝廷から参じた者らは
       忠信   信清の息
       実氏   公経の息
       国通   平賀朝雅・前室の夫―朝雅は北条時政が継室との間に生した女を継室とした。
       光盛   頼盛の息

らであったが、此処で目を惹く名が頼盛の息である光盛であり、鎌倉幕府創業の功臣として『平家』で名高い三浦義明の息・義連を介した玄孫もまた光盛であったが、その弟とされる盛時は本貫となる所職を伝えない。
 三浦氏の陸兵力が集中していたのは岡崎義実らが領掌した現在の平塚市一帯であったが、その北方に位置する愛甲郡で毛利荘を営んだ源義隆は義家の息として平治の乱が起きた時には河内源氏の最長老であった。
 毛利荘を継承した者が大江広元の息として宝治合戦にて三浦泰村とともに滅びた毛利季光であって、『抄』巻第三にて有道氏が近侍した道隆とともに酒盛りに耽溺した済時を随所に嘲りながら、巻第六は『抄』著者の甥は済時の父と比肩し得ると図らずも称揚しており、済時は三条帝の孫にとって祖父となる者であって、三条帝の孫は三浦氏が預所職を得た三浦郡三崎荘の領家であって、同荘下の諸磯郷には大江広元・女の邸が在ったとの伝を遺し、鎌倉と諸磯の間に光盛の本貫であった芦名郷は所在した。
 『抄』は頼家の遺児が実朝を襲うシーンを「あの仲章が先導役で」「義時だと思って」殺し、「実朝は、太刀を持って傍にいた義時すら、中門にとどまっておれといって制止した」と叙べ、「賢明にも光盛はここへは来ないで鳥居のあたりで待っていた」とする。
 『抄』巻第五は平重衡を処刑する為に東大寺へ護送する任を務めた源頼政の息として「頼政のあとを継いで内裏の警備の任に当たった」が「永くは」続かず「思うようになれないで死んだ」頼兼の息・頼茂が父の職を継いだことに言及し、巻第六は鎌倉勢が承久の乱が起こる3年前、「頼政の孫で内裏に仕えていた頼茂という者が突如として謀反の心を起こし、」「盛時が頼茂の首をとって後鳥羽上皇にさし出した。頼茂が」「仲間に入れようとした伊予国の河野という武士がかくかくと陰謀の内容を話した」とするが、承久の乱の3年後、北条義時の継室であった伊賀の方は三浦義村が元服加冠役を務めた息・政村を執権とすべく兄である伊賀光宗とともに三浦義村を巻き込んだ策謀を果たし、足立遠元の女より中原親能を生した光能の従弟となる定家の『明月記』に共犯が六波羅探題で伊賀の方が義時を殺した時に使った薬をよこせと叫喚したことに幕吏が驚愕したとする記事でよく知られた事件が別に在る。
 確かに、伊賀氏は二階堂行政が藤原秀郷の後裔として伊賀守へ補された佐藤朝光を婿として、朝光の息・光宗と伊予在地の河野通信らは承久の乱で上皇方となっている。
 源頼茂を討ち取った盛時と同じ名は頼朝の祐筆を務めた者と北条得宗被官として顕れる者の2人が在り、後者は内管領・平頼綱の父と推定される。
 一般に二階堂行政は北条政子・義時の母方祖父や北条得宗被官となる工藤氏らと同じく藤原南家祖三子・乙麻呂の後裔とするが、他編でしばしば論じた通りその点は甚だ疑わしく、『抄』は二階堂行政の息・行光を北条政子の遣使として記し、行光は買官によって「信濃守となった者」とし、実朝の後継として有道氏が仕えた中関白家を出自とする隆家の後裔たる信清の女が院との間に生した息を幕府は将軍に希望すると奏上しており、結局、忠綱は院の遣使として閑院流・公経の血脈を承けた摂家の子弟をとの返答を為している。
 後鳥羽院との間に土御門帝を生した女の母として範季の姪の妹・兼子は、院の側近・忠綱の無法で閉塞を下命された公経の赦免を懇請しており、上洛した政子を兼子は「たびたび出かけていろいろと会談し」ている。
 『抄』は院が「病気にかかられた折に『よくよく静かにものを考えてみると、この忠綱という男を・・・とりたてた過失は、どう考えてみても取るところのない間違いであったとよくわかった』といわれ、すぐに忠綱を解任し」たとし、源頼政の孫である「頼茂と特に親密に語り合って、人から怪しまれたこともあったが、頼茂の後見役であった法師が捕えられていろいろなことをいったなどといわれていることについては、忠綱がひろく公表することもさせずに、法師を関東へ下しつかわしたのであった。すべての悪事を積んで忠綱が消えてしまった」のに、範季の姪となる兼子が忠綱の赦免を院へ懇請したことを「人々はあざけり非難した」とする。

 平安後期に下野・安蘇郡下で足利荘を営んだ藤原魚名・四子の流れを汲む足利俊綱は、武蔵の在庁官人に過ぎなかった太田政光が中関白・道隆の弟となる道兼を祖とする宇都宮氏の二代であり、八田郡を領知した宗綱の女として伊豆に在った頼朝へ仕送りを尽くした寒河尼を継室とする縁故から都賀郡下の小山荘を営み、政光の後裔となる小山氏との相剋を演じ、頼朝の妹が嫁した一条能保の叔父の婿となった資盛の父である平重盛によって一度は源義国の息として新田氏祖となる義重へ所職を奪われるが、俊綱が重盛に嘆願して奪還し、治承・寿永の内乱にては平家与党として奮尽している。
 頼朝が俊綱の征討へ派した者が上に三浦義明の息であり芦名光盛の曽祖父とされる佐原義連(無論、本貫は三浦郡佐原郷)であり、俊綱の武運は尽きるも、弟とする綱の息・基綱は足利荘と隣接する佐野荘を領掌して、後裔を北条得宗被官と成している。
 しかし、藤姓・足利氏の惣領であった俊綱の息・忠綱は郎党の勧める処に従って山陰道より西海道へと移徒したと、『吾妻鏡』養和元年閏2月25日条の記事を以て史上から消えている。
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第99話 『愚管抄』巻第五をよく見る 2

2012-10-26 | 日本史
 平治の乱の後に二条帝は四条家成の従姉の邸へ移るが、鳥羽法皇は四条家成の従姉との間に生した近衛帝を即位させるべく、やはり法皇が閑院流・公実との間に生した崇徳帝の退位を策し、保元の乱を成す因と成した。
 村上帝の息・具平親王の女を母とした摂籙・師実の息・経実の女を母とした二条帝の親政を期した二条帝の母方伯父となる経宗は具平親王次子・源顕房の女との間に勧修寺流・顕隆が生した顕長の邸へ出御する後白河院に対し、顕隆が藤原南家祖四子・巨勢麻呂の流れを汲む白河院の近臣であった季綱の女より生した顕頼の息・惟方とともに後白河院への圧迫を加えた為、院は平清盛へ愁訴し、1160年惟方ともども配流されている。
 その5年後、『愚管抄』巻第二が顕隆の曽孫に該る女が生んだ子かと叙べる二条帝の息・六条帝が即位して、清盛は大納言に任じられ、また清盛は摂家・忠通の長子・基実へ女・盛子を嫁し、清盛の室・時子の妹が生した高倉帝が立太子される。
 摂家・忠通に仕えた邦通は顕隆の孫の室となる女を六条帝の乳母にしていた。
 しかしながら、清盛が女を娶わせた基実が夭折し、摂家・忠通に仕えながら未亡人となった清盛の女へ摂家の資産を相続させ、摂家の地位と執政の任との分離を献言した邦綱の妙案に感じ入った清盛は基実の次弟・基房を執政へ祀り上げた。
 基房は閑院流・三条家祖の息として顕隆の女を母とする公教の女を室としていた。
 その翌年には清盛は太政大臣へ昇り、高倉帝が即位している。
 清盛の嫡子である重盛の息・資盛は道長より6世となる基家の女を室としたが、勢いを得た平家の横暴を見せた例として、江戸末期に成った『系図簒要』にて北条得宗家内管領・長崎氏や織田弾正忠家の祖となる資盛が基房の一行に無礼をはたらいたとして折檻されるや、清盛の嫡子たる重盛は高倉帝元服式へ参内する基房の一行を襲撃して報復を果たしている。
 清盛が武士にして史上初の極官に昇った翌年、女・徳子が高倉帝へ入内した7年後に安徳帝を生す前年、『抄』第五曰く「不祥のことが続いたので怨霊をおそれ」讃岐で没した崇徳帝へ院号を、頼長へは正一位太政大臣を追贈するが、同年、信西の息が営む京洛郊外の東山山荘にて家成の息であり後白河院の寵臣であった成親、信西に最期まで随って後白河院に召し使われた成親の弟・師光、中原頼季の息として清盛の甥の家人となった平康頼、魚名・三子の流れを汲む家成の従姉の生した近衛帝の姉となる八条院の乳母を務めた女を母に平頼盛の室を妹とする俊寛らが謀議を凝らしている。
 清盛が師光を洛中で斬首するや、村上源氏を出自とした天台座主・明雲は洛外まで衆徒を動員している。
 謀議に加わった者らを処断したことを院へ報じた清盛に応接した者が足立遠元の女との間に生した親能を中原広季の猶子とした光能であり、光能は道長・玄孫の息として『明月記』を記した定家の従兄となる。

 清盛が嫡子・重盛とともに基実へ嫁した盛子をも喪うや、後白河院は重盛が領掌していた越前領を奪還し、基房もまた摂家領の回復を院へ懇願した為、清盛は基房を解官した上に備前へ配流し、基実の息・基通を内大臣へ就けるや俄かに関白・内覧へと昇らしめ、院を鳥羽殿へと幽閉した。
 『抄』巻第五は、清盛の弟・頼盛は基房に同調したとの疑いを挿まれ、以往軍事を担任しない誓約を果たしたと云う。
 隆家の流れを汲む頼盛の母の生家は頼朝の母方祖父として熱田神宮司へ入嗣した季範の眷族と被官関係に有ったとされ、頼朝の伯父である忠の室は八条院の侍女である上総であったが、頼盛の室は俊寛の妹であり、その母は八条院の乳母を務めており、『抄』は頼盛が八条院の後見役であったとしている。
 義仲の軍勢が近江へ迫り、比叡山へ退避した後白河院は頼盛へ八条院の許へ身を寄せよと伝えと『抄』巻第五は叙べている。
 『抄』巻第六は北条時政・継室の父・宗親が頼盛の「武者ではない」被官として長らく駿河郡下で大岡牧の預所職を務めていたとし、時政と宗親の女との間に夭折した政とする息が在ったとしているが、時政・継室の父・宗親は頼盛の母にとって弟であったとする説を見る。
 『抄』巻第五は平治の乱にて頼朝を首尾よく捕縛した者を頼盛の郎党・清とする。
 藤原経宗が配流された年に頼朝もまた伊豆へ流されるが、頼朝と入れ替えるように頼朝の伯父・範忠が頼朝の同母弟・希義を駿河郡下の大岡牧を間近くした香貫郷にて捕縛し、平家へ引き渡している。
 後白河院の息・以仁王の檄に応えた義仲の許には以仁王の息が庇護されていたと『抄』は叙べており、義仲を扶育した者は中原兼遠であって、義仲の郎党であった兼遠の息たる樋口兼光を『吾妻鏡』は隆家の兄・伊周の家令を務めた有道惟能の後裔とする児玉党が助命を図ったと記す。
 入京した義仲に宛がわれた宿舎は、頼朝の伯父・範忠の室と同じく八条院の侍女であった伯耆尼の邸であったと云う。
 安徳帝が西海に在った時、崇徳・後白河両帝を生した閑院流・公実の女の妹を父方祖母とし、頼盛の母と等しく隆家より6世となる信隆の女を母とした後鳥羽帝が即位するが、信隆の息・信清の女は源実朝の室となっている。
 神器が無い異例の後鳥羽帝即位を主に尽くした者らを、『抄』巻第五は摂家・基実、基房の弟である九条兼実と南家祖四子・巨勢麻呂の流れを汲む季綱の玄孫となり、後鳥羽帝を傅育した範季であったと記している。

 義仲の入京に対して、院の北面の武士で「頼朝こそ武士の真の姿を示す人物であると心から敬慕し、頼朝に」「希望を託して」「頼朝の上京を待ち焦がれていた」者らが、「義仲何するものぞと思って」「後白河法皇の御所」である法住寺殿「を城のようにして防備をめぐらすことを策動し」(『日本の名著9』中央公論社 昭和46年刊)、天台座主・明雲の率いる延暦寺の衆徒や三井寺の衆徒らをも召集したと叙べながら、『抄』は「この後白河法皇と」義仲「との戦いは、天狗のしわざであるとしかいいようがない」とし、法住寺殿合戦にて延暦寺の衆徒を率いた明雲や三井寺に属した後白河院の息は殺害されるが、明雲が「またいったいどうして武者のような行動をしたのであろうか」との巷伝を叙べ、藤原南家祖四子・巨背麻呂の流れを汲む血脈ながら高階氏に扶育された信西の息が営む京洛郊外の山荘での謀議が発覚した年に為されたことを朝家は繰り返し、法住寺殿合戦は「もっぱら天狗のしわざ」であって「間違いなく」「崇徳」帝「の怨霊のせいである」為、再び崇徳院と頼長を祀る神社の建立を図り、担任した範季が霊蛇の出現を見たとの伝聞は範季より5世後の甥として頼朝の母方祖父となる季範を嗣子として迎えた熱田神宮司の尾張氏が経験した夢中の託宣の挿話と酷似し、『抄』がさらに加える神祇権大副・卜部兼友もまた夢中の託宣を被ったとする処は金沢文庫を構える称名寺へ赴任した吉田兼好と北条氏との関係を連想させる。
 『抄』巻第五は義経が頼朝に追われてより九条兼実の息・良経との同諱を憚って義顕と改めたとするが、その改諱後の偏諱は巻第五の巻末より二点憶測される。
 一は東大寺大仏殿を滅却した平重衡を処刑する為、源頼政の息・頼兼が護送の任に当たり、東大寺へ向けて現在の京都市日野~醍醐間に所在した重衡・室の寄寓先にて永別を交わす機会を与えたとし、重衡の室は顕隆の孫へ六条帝の乳母を務めた女を嫁した邦綱の末女として高倉帝へ仕え安徳帝の乳母を務めたと云い、要は義経が捕縛した重衡は白河上皇の権臣・顕隆と眷属関係に在った訳であり、その重衡を「人相を見て人の運命を判断するのに巧みであると評判され」た道長の玄孫が「重衡に近寄って見たのに、まったく死相は見えな」かったとし、「頼朝が重衡に対してこのような処置をとったことを、世間の人々は舌をならしてうらめしく思った」と評しつ、段末にて重衡を護送した頼兼に係り「頼政のあとを継いで内裏の警備の任に当たった。しかし、それも永くはなく、思うようになれないで死んだ。そのあとはまたその子頼茂という者が継いで内裏に出仕することになった」と次編にて論ずるeventと関わって重大な示唆を与えている。
 義経改諱後の偏諱について他の一は、文治元年12月26日に九条兼実を内覧に任ずる宣旨が下された後、頼朝は太政官弁官局を差配する小槻隆職の罷免、院近臣たる高階泰経の閉塞を朝廷に要求する一方、伯父・範忠の女が嫁した源義康の父の猶子となった頼朝の甥・経国へ女を嫁した経実の息である左大臣・経宗についての弾劾は瞭らかにせず、しかし、蔵人頭・光雅の罷免を懈怠していない点である。
 光雅は勧修寺流・顕隆の曽孫であった。
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第98話 『愚管抄』巻第五をよく見る

2012-10-24 | 日本史
 1158年に二条帝へ譲位した後白河法皇を、『愚管抄』巻第五は有道惟能が家令を務めた伊周の弟となる隆家より7世とし、頼朝の助命を嘆願した平頼盛の母を父方従姉とする信頼を「よそ目にもあきれるほどに新任」したとする。
 信頼は母を白河上皇の近臣であった勧修寺流・顕隆の息・顕頼の女とし為、その偏諱を得たと思われる。
 藤原南家祖四子・巨勢麻呂の血統ながら高階氏に扶育された信西の廟堂における抬頭に焦燥感を昂ぶらせた信頼は信西の息を婿とした平清盛と対抗する源義朝との結託を画した。
 信頼&義朝らのクーデター計画に加わった者が村上―具平―源師房の長子にとって孫となる師仲であった。
 白河―○―鳥羽―後白河の外戚たる地位を獲た閑院流に挟まれて堀河の外戚となった師実は摂家の面目を果たしたようで、実に師実の血脈上の母方祖父は具平であり、師実自らもまた源師房の次子・顕房の妹を室に、顕房の女を養女として堀河を生したものであった。
 『抄』巻第四は在位中の白河上皇が行幸の折には弟を怖れて源義家らに警護を命じたと叙べるが、その白河上皇の弟を即位させるべく白河上皇の存命中に鳥羽法皇の暗殺を謀った者が師仲の叔父であり、為に顕房の兄の系統は朝家にて落魄することとなる。
 13世紀末に成ったとされ勧修寺流公家の私記を多く参照する『百錬抄』は勧修寺顕隆の父・為房が閣議にて独り源顕房の兄への追及を排斥する意見を呈したと云う。
 信頼&義朝が信西をその造営に努めた内裏に急襲すると、魚名・三子の流れを汲み鳥羽法皇の「第一の寵臣」であった四条家成の息・師光は信西に密着して山城・綴喜郡田原郷まで逃げ延びるが、『抄』第四は鳥羽法皇・最期の寵姫の父として摂津源氏・頼光の玄孫となる光保により信西は追い詰められたとする。

 『愚管抄』巻第四に拠ると「白河天皇の御代に御熊野詣ということがはじま」ったとし、白河帝が行幸を重ねる中、「神殿の簾の下から美しい手をさしのべて二、三回ばかりうち返しうち返しして引っこめ」、白河帝は「あざやかな現実として」「ごらんになった」とし、「熊野の巫女の中では名を知られた者」が「はたと神がかりの状態になっ」て「御代の末にはすべてが手のひらを返すようになるであろう」(『日本の名著9』中央公論社 昭和46年刊)との"託宣"を与えたとする。
 白河上皇は鳥羽法皇の立后に就き師実の孫・忠実に女の入内を慫慂したが峻拒され、立腹した白河上皇は養女とした閑院流・公実の女を忠実の家督を継ぐ忠通へ嫁す積りであった処を翻意し、鳥羽法皇へ入内させて崇徳・後白河両帝を生しており、白河上皇の熊野詣の最中に鳥羽法皇自ら忠実・女の入内を要望するや俄かに承服したことを「熊野の白河法皇に悪意をもって伝えた人があった」と記している。
 為に忠実は台閣を罷免され閉門を下命されたが、後継の執政に係り白河上皇は既に顕隆や四条家成の祖父・父となる顕季・家保らと談合が有ったとの伝を『抄』は甚く非難している。
 白河没後の忠実は次子・頼長を愛する剰りに嫡子・忠通との不和を激しくし、寿命を覚知した執政・兼通が「正式な除目」として宮中の大臣・納言の詰所で行われたものかと『抄』巻第三が疑問を呈す強引な人事にて、醜悪な家督争いを演じた弟・兼家の官位を剥奪し、顕隆の遠祖である定方の外孫となる済時のみが昇任を得たとする挿話と酷似して、『抄』巻第四は「ひそかに公事を行う上位の公卿などを集め、」「頼長を内覧だけに任命する宣旨」を下さしめたとする。
 『抄』巻第五に叙べられた熊野詣は白河上皇が清盛に替わって信頼&義朝が内裏を強襲した時、清盛は紀伊・日高郡二川宿に在ったとし、在地の湯浅宗重が熊野・別当の湛快なる者とともに援助を申し出たとする。
 『抄』巻第五は此処で同道した湯浅宗重の息が後に文覚に扈従する上覚であったと付言している。
 熊野詣の二川宿を間近くした田辺宿は、一説に武蔵坊弁慶の出生地との伝承を遺す。

 紀伊・有田郡下で湯浅荘を営んだ湯浅宗重は頼朝に抵抗しながら、1186年に所職を安堵されている。
 湯浅宗重の猶子であったのが、千葉氏の出自と伝える保田宗光であり、『抄』巻第五は石橋山合戦にて敗れて海上へ逃れた頼朝が赴いた先は上総広常の許であったとするが、一般に頼朝が上陸した安房の地は房総国境を間近くする平群郡保田郷に臨んだ龍島とされている。
 『抄』巻第六は北条時政・継室の父・宗親が清盛の弟である頼盛に仕え、頼盛の所職であった駿河郡下の大岡牧を預かる身分であったと言及しているが、頼盛の母は信頼の父の従姉として有道惟広が家令を務めた中関白・道隆の息・隆家より6世となり、『尊卑分脈』に見える頼盛・母の弟として宗親と時政・継室の父との異同は確かにし得ないが、『抄』は時政・継室の父・宗親を「武者ではないのに」「このような果報者が出てくるというのもふしぎなことである」と評している。
 頼盛・母の生家は崇徳・後白河両帝を生した公実の女の被官であったとされ、公実の女が生した後白河帝の姉に頼朝は仕え、頼朝の母方生家がまた公実の女の被官を務めていた訳で、頼朝の伯父として南家祖四子・巨勢麻呂の流れを汲む範忠にとって弟の息らもまた後白河帝の姉に仕えており、また範忠・弟の息らは四条家成の従姉が鳥羽法皇との間に生した女にも仕え、範忠自身は家成の従姉と鳥羽法皇とが生した女の侍女である上総を室としていた。
 北条政子・義時姉弟の母方祖父であり、平家与党として滅ぶ伊東祐親の孫兄弟を時政は相模・足柄郡に在地した曽我祐信に扶育させるが、曽我祐信の父は一説に千葉氏を出自として初めて曽我荘を営んだとの伝を見る。
 曽我氏の後裔もまた藤原南家祖三子・乙麻呂の流れを汲む伊東氏とともに祐の偏諱を通有しており、『抄』巻第五は「文覚は上覚という弟子」「とともに流され、」「四年の間同じ伊豆国で朝夕頼朝に馴れ親しんでいた」とする。
 文覚は嘗て摂津源氏・頼光の郎党として西成郡に蟠踞した渡辺綱の党に属しており、渡辺綱は桓武帝の息・葛原親王の家令を務めた丈部氏道が有道姓を与えられた年に即位する仁明帝の息として醍醐朝下に右大臣を任じた源光の孫の猶子となって、また源光の孫は摂津源氏・頼光の父に入婿している。

 曽我氏の祖を千葉氏の出自とする説は氏祖の父の諱を常信として千葉氏の庶流の者とするが、或いは千葉常信とは千葉常胤の息である胤信と関係するかとも思われ、胤信が所職を得た下総・香取郡大須賀保の臨む大須賀川畔には近世・佐野河岸で鳴る下野・安蘇郡下の佐野荘で朱雀城を構え、阿野全成の息・北条時政の孫として武蔵・加美郡堀籠郷を本貫とした時元(隆元)の後裔とする堀籠氏と関連するか堀籠郷の字名や三善康信・後裔とする伊能氏の本貫と思われる伊能郷、北条得宗被官であった関氏が構えたかと憶測される関城址などが見られる。
 千葉氏の系譜は往々頼通が執政した時代に閑院流祖が没する前年将門以来久方ぶりの叛乱を演じた平忠常を祖とするが、忠常の兄がまた秩父氏祖とされ、兄弟の父は醍醐帝の曽孫が成したかともされる『今昔物語集』に名高い平良文の息とする忠頼とされている。
 しかし、他編にてしばしば論じたように平良文そのものが桓武平氏祖の息であったか甚だ疑わしい限りで、忠頼なる名は承平・天慶の乱を克服した貞信公・忠平と清和源氏の名を高からしめた頼光・頼信兄弟の偏諱を併せた創作である感を禁じ得ない。
 秩父・千葉両氏祖の父とする平忠頼には別諱として経明を伝え、将門にとって股肱の臣であった多治経明の名を想起させ、この経明は武蔵・加美郡下で丹荘と号する荘園を営んだ多治比氏を出自としたものと推測される。
 将門を討った藤原秀郷は本拠である下野・安蘇郡下の天明郷へ河内・丹比郡下の鋳物師を招請して中世に名高い天明鋳物の源流を成したとされ、冶金を業とした多治比氏が利根川支流の神流川に臨む武蔵・加美郡下で丹荘を営んだのは奈良期に産銅を見た秩父郡を近くしたからと思料される。
 平忠頼の弟とする忠光が三浦氏の祖とされるが、ヤマト王権に帰服した相模在地の族は往古に朝家より太田部と呼称され、その族長たる丸子氏(丸とは人間の集団の意であり、丸子とはヤマト王権に臣従して集団を統べる者)へ入嗣した三浦忠通とは史家の指摘する『今昔』に説かれた平貞道こと源頼光の郎党たる碓井貞光のことと思われる。
 忠光・貞道・貞光と3つの訓音は極めて似通って、碓井貞光は東山道・碓氷峠に関わる呼称と思われる。
 同様なことは頼光・四天王の一人となる足柄山の金太郎こと坂田金時にも言えて、美濃・不破郡へ抜ける近江・坂田郡に出生したのであろう金時は相駿国境の足柄関に関わったものと思われる。
 千葉氏の源流を磯城郡飫富郷を本貫とした大和古族である多氏が上総・望陀郡飯富郷へ入部した後裔とする説を見て、秩父氏の源流をも多氏とする説がまた在る。
 秩父平氏・千葉氏そして三浦氏の祖となる平忠頼・忠光兄弟の父・良文の室を古書は上野在地の大野茂吉の女とする伝を見るが、案外"オオ"の茂吉であったかと思われ、しかし、秩父平氏・千葉氏らの父を平良兼とする説も見る。
 平良兼は父・高望が土着し、陸奥・小田郡下にて産金を遂げて聖武帝が即位した年に叙位された丈部大麻呂が在地した上総を拠点としていたが、良兼の息・公雅の女は中関白・道隆の家令を務めた有道惟広の室として中関白の嫡子・伊周の家令を務める惟能を生しており、上総より東京湾を跨いで相模・鎌倉郡に簇生した鎌倉景政の後裔らの祖は平良兼ではないかと考える傍証がまた在る。
 東京湾岸より鎌倉郡へ向かうには現在の横須賀市船越より逗子市側の田越川源流へ抜けるのを最短とし、船越の字名は水夫らが横須賀・逗子間の丘陵を舟を担いで越えた意であり、平安後期に田越川流域に展がる平地を領掌した在地領主が確かめ得ないのは上総―相模・鎌倉郡を往復する士の夥しかったことを憶測させる。
 桓武平氏の源流を成す葛原親王の次子・高見王は生涯を無位無官で終え、事績を伝えず実在を疑う史家もあるが、相模・高座郡下には葛原親王を祀った皇子大社が建ち、近傍の小高い丘からは大山(阿夫利山)の秀麗な山容を望見させる御所見という字名を見せ、高見王の息とする平高望が赴任し土着する上総への途上に在った逗子の地名は高望が逗留した謂であったか。

 熊野詣の途次に信頼&義朝蹶起の報を得た清盛の帰京後に両者間の不気味な睨み合いが続く中、閑院流・公実の息として三条家祖となる実行と実行の息として顕隆の女を母とする公教らが危惧の念を募らせ、源有仁の養女として後白河法皇との間に二条帝を生した女を公実の女より儲けた藤原経実の息・経宗と、顕隆が白河上皇の近臣であった南家祖四子・巨勢麻呂の流れを汲む季綱の女より生した顕頼の息として『抄』巻第五に拠ると鳥羽法皇の下命にて二条帝に近侍した惟方らは「信頼に内通しているようによそおっていたが、」「公教などとひそかにささやきあって」帝を清盛の六波羅邸へ移す計画を申し合わせたとする。
 有道惟能の後裔とする武蔵・児玉郡に簇生した封建領主らの党より初めて入間郡へ入部した資行は、或いは、三条家祖・実行の近親である可能性を憶測し得て、二条帝を生した女や経宗ら姉弟を閑院流・公実の女より生した経実は摂家・師実の息として別の女を源義家より河内源氏惣領の地位を認められた義忠の息として平正盛の女を母とした経国へも嫁している。
 他編で論じたことは、初めて入間郡へ入部した児玉党の士となる資行の末子が児玉郡真下郷に在地する士に入嗣した可能性と、その系統から『愚管抄』巻第六にて北条時政の出自を示唆する叙述として同族の子弟を猶子に迎えた"ミセヤノ大夫行時"なる人物こそ、有道経行の孫である上野・甘楽郡片山郷を領知した行時ではないかと推測したことであった。
 源経国は河内源氏が頼信―頼義―義家と三代に亘って補任された河内守を最期に任じた義忠の息として、父・義忠が暗殺されたことで河内源氏の家督を簒奪した従兄の為義に河内・石川郡壷井郷に所在した"香炉峰の館"を逐われ、平忠盛或いは藤原経実に扶育されたと云う。
 朝家の要路を警護する役に抜擢される機会が有ったと云う中務省内舎人の職は大宝令では帯刀宿衛と云った任が有ったとされ、内舎人として経国は藤原経実の警護を任じ、下野・安蘇郡下で足利荘を営んだ叔父・義国が上洛するや元服加冠役を頼みその猶子となったとされる。
 有道惟能の孫となる経行の女を継室とした経国は経行が拠点とした武蔵・児玉郡下の阿久原牧と隣接する地に河内荘を開き、領家を経実とし同荘の預所職を得ている。
 藤原秀郷の本拠であった下野・安蘇郡下の足利荘を古くから営んだ秀郷の後裔となる惣領家が潰れ、惣領家の弟であった佐野基綱の後裔が北条得宗被官として存続し、源義国の長子である義重が渡良瀬川を越えた上野・新田郡一円の荘園化に成功した上、当の義重が上野・吾妻郡八幡郷に拠点を移し、義重の息・義俊は同郡里見郷へ、義範は群馬郡山名郷へ入部している。
 『保元物語』にて義朝麾下の将として鎌田正清の次にして佐々木秀義の前に記される"河内源太"が源経国と思われるが、経国に係る二次史料には帯刀先生との呼称が看られ、多分に晩年を京洛郊外の鞍馬寺にて隠棲したとされる経国と入れ替わるように有道経行の息・行時が拠点とした上野・甘楽郡片山郷を間近くした多胡郡下に居館を構えた源義賢が帯刀先生と呼称されたこととの混同かとも考えられるも、北条義時の下命で金窪行親に抹殺された阿野時元(堀籠隆元)は阿野全成の息として武蔵・加美郡堀込郷を本貫とし、隣接して金窪郷を見る点、堀込郷が今は帯刀の地名となっていることは義仲の父となる義賢に因むものか、経国に因むものか何れかであろうし、何れにせよ闕所となった地に阿野全成の息・時元=堀籠隆元が所職を得たものと思われる。

 従兄の為義に河内源氏惣領の居館を逐われ、二条帝の母方祖父・経実の息・経宗を義弟とした経国が平正盛の孫として平治の乱にて如何に行動したかは推測するのみだが、、経国が乱後鞍馬寺に隠棲した訳も察しが就く。
 経国には那須氏を出自とした継室も有ったことを伝え、経国の営んだ河内荘に看られる稲沢郷を領知とした経国の息・盛経は下野・那須郡稲沢郷へ移り、現代に至るまで家名を存続させている。
 平安初期の史料には那須大領を丈部と伝え、有道氏が朝家より賜姓される前の古称もまた丈部であった。
 藤原秀郷の後裔となる佐藤基治はやはり秀郷より派した奥州藤原氏の配下として陸奥・信夫郡を領掌し、母を上野在地の大窪氏の女と伝えるが、他編で論じたことは有道経行の後裔として上野・多野郡奥平郷を本貫とした武家は村上帝の息である為平親王を太祖とするも、14世紀には勤皇党に与して足利勢に圧され、信濃・伊那郡浪合郷を経て三河・設楽郡へ転じており、設楽郡と隣接する賀茂郡挙母郷へ同時期に入部した松平氏の後裔となる徳川家康の先手旗本四将の一人として大久保忠世の遠祖を佐藤基治・生母の生家・大窪氏ではないかと憶測したことであり、同じく家康・先手旗本四将の一人たる大須賀康高は遠祖を上に述べた千葉胤信として康高の父の代まで陸奥・磐城郡下の好島荘に残り、康高が尾張・知多郡下に横須賀城を構えた時の付家老が夏目吉信として漱石の遠祖であって、奥平氏の付家老もまた夏目姓であった。
 尾張・知多郡で想起することが、保元の乱後に源義朝が鎌田正清の岳父である内海荘司であった長田忠致を頼るも主従ともども謀殺されたことであり、長田忠致は道長四天王として伊勢平氏の祖となる平惟衡と伊勢国内にて熾烈な覇権争いを演じて敗れた平致頼の後裔であり、致頼は中関白家に仕えた有道惟広の室であり惟能の母となる女を生した平公雅の息であって、公雅の父が上に言及した良兼であった。
 また、長田忠致の後裔が徳川将軍家・譜代となる永井氏であって、知多郡下の素封家である永井家を生家としたのが永井荷風であった。
 家康・先手旗本四将の一人としてさらに榊原康政は藤原秀郷流・佐藤氏を出自とする。
 残る家康・先手旗本四将の一人として本多忠勝は他編で論じた通り、千葉氏の出自である多氏の本宗の意を姓とするものと思料される。
 ところで、源経国の血脈を現代に伝える下野・那須郡稲沢郷に移った素封家とともにその岐れとして今も健在な名族が野長瀬家であり、上に述べた紀伊・日高郡と隣接し、西牟婁郡下に近露荘を営んだ族は承久の乱後の新補地頭職として近露荘を得て、元弘の変後に護良親王に与して楠木正行と行動をともにした勤皇党として知られるが、黒澤明監督の助監督を務め、『ウルトラセブン』の監督を任じた故・野長瀬三摩地氏はこの流れを汲む人物であった。

 後醍醐帝の寵妃であった阿野廉子と祖を等しくし、阿野時元の後裔とする堀籠有元は新田義貞とともに鎌倉攻めに加わり、建武新政崩壊後に越前・敦賀で足利一門・斯波高経の軍勢に攻囲され戦没したものと伝え、阿野時元の妹に四条家成の孫・公佐が入婿し、駿河郡阿野荘の所職を相続した公佐の後裔が阿野廉子であり、熊野詣の途中となる二川宿と近露荘との中間に位置し、武蔵坊弁慶が出生した地の伝承を遺した日高郡下の田辺宿に堀籠氏が斯地の素封家として近世まで看られたが、『吾妻鏡』の現代語訳を著した貴志正造氏は『鏡』に紀州方言が看受けられることを指摘している。
 『愚管抄』巻第五は熊野詣から帰京した清盛の六波羅邸へ秘かに移った二条帝に続いて摂籙・忠通とともに忠通の息・基実もまた参集したとし、顕隆の孫となる三条家祖の息が基実の室は隆家の流れを汲む信頼の妹であることから警戒したと記している。
 平治の乱後、六波羅邸にて信頼とともに四条家成の息・成親が清盛の前に勾引されたが、この時は清盛も成親をあっさり宥免している。
 平治の乱後に後白河法皇が訪れた邸とは鳥羽法皇の下命により二条帝に近侍した惟方の父として顕隆が南家・季綱との間に生して隆家の流れを汲む信頼の母を生した顕頼ではなく、顕隆が源顕房の女との間に生した者のものであり、この邸の展望を作塀によって妨害した者らが二条帝親政を期した経宗と惟方であり、為に後白河法皇より清盛への愁訴となって経宗と惟方は配流されている。
 『抄』巻第五は頼朝を"首尾よく"捕縛した郎党を配下とした頼盛の母が崇徳上皇の一宮の乳母を務めながら「きっと崇徳上皇方は負けるでしょう。勝てそうな理由がないのです」「ぴったりと兄の清盛についておいでなさい」と適切な助言を頼盛に与えたとする。
 経宗・惟方配流の直後に頼朝が配流されるが、同日頼朝の伯父・範忠が駿豆国境近傍にて捕縛した頼朝の同母弟・希義を土佐へ送っており、翌々年には桓武帝の息たる葛原親王の長子・高棟の後裔となる妹・滋子が高倉帝を生した平時忠もまた配流されており、その後、清盛は信頼の妹を室とした摂籙・忠通の息・基実へ女・盛子を嫁している。
 その年に清盛によって成された蓮華王院の竣工に関して、後白河院から申請された諸職への功労を拒絶した二条帝の態度を『愚管抄』巻第五が叙述する下りは菅丞相の左遷を諫言すべく参内した宇多上皇に対する醍醐帝の態度を叙述する下りと筆致を能く相似させている。
 配流されてより2年後に帰京を宥された経宗が閣僚に復帰した年もまた蓮華王院の竣工した年と同じくするが、『抄』巻第四は「世間では『経宗卿は二条天皇の御母の兄にあたられる。摂籙を狙っておられるようだ』などと他の人々を刺激するような」「噂をたてる者もあったが、」「だいたい世間の口さがない人々は、何か少しでも事が起こることを望んで噂をたてるものであり、聞き苦しいものである。このことはよくよく知っておかねばならない」と諄々と説諭している。
 しかし、二条帝へ入内した摂家・忠通の女は子を生さず、二条帝は経宗が台閣に復帰してより2年後23歳にして夭折している。
 二条帝を襲った六条帝を『抄』巻第五は母を不明としつ、巻第二にては顕隆の孫に該る女ではないかと示唆して、2歳で即位し4歳で退位、14歳にて死没している点、清盛の方は信頼を斬首してから自身の女を娶わせた幼い関白の執政にて六条帝の即位後に大納言、翌年に内大臣、翌々年に太政大臣となって、内大臣となった年に夭折した女婿に悲嘆した清盛を随喜させた摂籙・忠通の陪臣たる邦綱の献策―摂関職と藤原氏長者の地位との分離=亡き婿に対し存命する室たる清盛の女に藤原氏の財産を継承させる案―を実行するとともに、武士として史上初の極官に昇る前年、清盛は義妹・滋子の生した高倉を立太子させた。
 邦綱が六条帝の乳母を務めさせた自身の女は顕隆の孫へ嫁しており、二条帝親政を謳ったが為に後白河法皇をして清盛により配流せしめられた経宗は、しかし、後白河院政期に長らく左大臣を続けている点、後白河―二条―六条から後白河―高倉―安徳へのシフトは偶然の賜物であったか。
 故・石井進東大名誉教授は有道惟能が赴任し、孫となる経行へ相続された武蔵・児玉郡阿久原牧旧址に遺る祠には紅白一対の馬形を祀ってあると著書で記している。

 愈々清盛の孫となる安徳帝が出生する前年、平治の乱では清盛から宥免された四条家成の息である成親や信西の最期まで同道した成親の弟である師光らを後白河院は近侍させるようになり、信西の息が営む京洛郊外の東山の山荘にて俊寛を交えて謀議を凝らしたが、俊寛とは家成の従姉が鳥羽法皇との間に生した女の乳母の息であり、俊寛の叔母が頼盛の室となって、俊寛の母方祖父は顕隆の母の弟として源頼光の孫となる人物であった。
 為に、成親と師光は清盛に殺され、俊寛は配流される。
 後白河院の近臣となった師光の処刑を院の御所へ報じた清盛に応対した者を『抄』巻第五は右兵衛督・光能であったとする。
 この藤原光能こそ足立遠元の女との間に中原親能を生し、親能・広元らは太政官少納言局を一族が累代差配した中原広季の猶子となっている。
 足立遠元の遠祖は出雲族を祭神とする武蔵一宮の神職であった丈部不破麻呂であり、足立遠元にはまた北条時政から家督を譲られる筈であった時房を生す女が在った。
 安徳帝が出生した翌年には、清盛は後白河院を幽閉し院の近臣を諸方へ流すが、その中に平業房が在り、業房と院の寵妃であった高階栄子との間に生した息を嗣子とした者が四条家成の息として山科家の祖となる実教であった。
 『抄』巻第五は関東における平家与党として有道経行が2息を猶子に送った秩父重綱の後裔たる畠山重能・小山田有重ら兄弟の名を記しているが、平家最期の嫡宗となる惟盛の室は清盛が抹殺した成親の女であり、四条の金売りの吉次により鞍馬山から引率された義経が元服した地との伝承を遺す東山道・鏡宿の池畔を間近くして宗盛を斬首した遺跡が伝わり、逗子市の田越川河口に惟盛の遺児の墓所が遺される点、何か偶然を越えた人為的なものを感得する。
 『抄』巻第五に拠ると義仲の軍勢とともに京洛に迫ったのは武田勢であったとし、都落ちする平家に後れた頼盛は「心の内では都にとどまりたいと思うことしきりであった」と能く頼盛の料簡を忖度している。
 さらに、『抄』には、比叡山に退避した後白河院の許に京洛に止まった頼盛と江戸末期に成った『系図簒要』が何故か北条得宗被官の長崎氏と織田弾正忠家の源流とする資盛が庇護を求めると、資盛には返答せず、頼盛へは頼盛が被官を務めた四条家成の従姉と鳥羽法皇との間に生した女の許へ身を寄せろとの然るべき返答が取って付けたように記されている。

 『愚管抄』巻第五では1183年"礪波山の戦い"後の7月24日夜に安徳帝が六波羅に移されると夜半には後白河院が法住寺殿を脱け出し態々「鞍馬の方をまわって」比叡山へ昇り、「今日明日にも義仲や」「武田などという軍勢が都に攻め込んできそうな情勢であった」処、後白河院は叡山より「近江国にみちあふれるほどになった」源氏へ連絡を計ったとし、『抄』の著者が甲斐源氏の流れを汲む一条忠頼や安田義定の粛清される前に「武田などという」名を心得ている点も興味深いが、院が叡山より連絡した源氏とは義仲のことでしかなかったか、堂宇の切妻に武田菱を掲げる信光寺を伊豆・田方郡北条郷近くに建立し、新田氏祖・義重の女を室とした武田信光は兄である一条忠頼や武田有義を飛び越え、甲斐源氏の惣領となって、信光は承久の乱では東山道を進んでおり、"武田"は治承・寿永の内乱時には倶利伽羅峠で合戦に及んだ義仲と近江での合流を期したものか、後白河が帰洛した27日「まず、近江に入っていた武田勢が都に入り、つづいて二十八日に義仲が入京した」とする『抄』は1ヶ月後に隆家より7世となる女の生した後鳥羽帝の即位を見た後、「先に都に入ってきた義仲は頼朝を敵として憎むようになっていた」と矛盾を記している。
 京洛にて義仲に宛がわれた宿舎は頼朝の伯父・範忠が室とした四条家成の従姉―鳥羽法皇の女の侍女・伯耆尼の家宅であったとする。
 『吾妻鏡』には有道氏の後裔とされる児玉党が義仲の郎党・樋口兼光を助命しようと計ったとする記述を看るが、義仲の父・義賢が畠山重能の構える菅谷館を間近くした大蔵館に在った時に抹殺され、利根川を挿んで上野・新田郡と相対し児玉郡と隣接する幡羅郡に拠点を構えたとされ、魚名・次子の流れを汲む藤原利仁の後裔とする斉藤実盛により義仲の引率された先が信濃・筑摩郡下で大吉祖荘を営んだ中原兼遠の許であって、しかし、義仲が蹶起した地は木曽谷より京からずっと離れた小県郡下の千曲川を挿んで滋野一党の蟠踞した地と相対する依田城であったが、同城を義仲に供した在地領主については他編で論じている。
 恰も、頼朝の差遣した軍勢と分担を図ったかのように義仲は北陸道へ向かっているが、『抄』で義仲の首級を挙げた士と記される伊勢義盛の邸址と伝えた地が有道経行の後裔の簇生した上野・碓氷郡下の板鼻郷である。
 安徳帝の西遷に因り即位した帝が隆家より7世となる女の生した後鳥羽帝であり、後鳥羽帝を傅育した者が南家祖四子・巨勢麻呂の流れを汲む季綱の玄孫として高階氏を母とした範季であって、後鳥羽帝の2息たる土御門・順徳両帝を生した女らもまたそれぞれ範季の姪の女と自身の女であった。
 延喜・天暦の治に挟まれて承平・天慶の乱を経験した朱雀朝にて帝を輔弼した貞信公・忠平の次代より『愚管抄』の著者が生きた時代の帝に至る皇統をdigestして、『抄』巻第三は「当代の院(後鳥羽)」「もまた師輔の子孫である中関白道隆の血筋にあたられる」と記すが、中関白父子に仕えた者らが有道惟広・惟能父子であった。
 『抄』巻第五は「人相を見て人の運命を判断するのに巧みであると評判されていた」道長の玄孫が、松永久秀よりかなり早く東大寺大仏殿を焼いて処刑場へ護送される平重衡を観察した処、「重衡に近寄ってよく見たのに、まったく死相は見えない。これはどうしたことかと、重衡のまわりをまわりながら見たが、ついに死相を見いだすことはできずじまいになった。本当に不思議なことであった」と語ったと叙べる。
 『抄』は続けて、「頼朝が重衡に対してこのような処置をとったことを、世間の人々は舌をならしてうらめしく思った」と意味深長な付言を果たしている。
 北条義時の本貫であった伊豆・田方郡江間郷から仰ぐ印象的な鋭峰の鷲頭山の南麓には古代に制作された驚異的な石棺を遺す横穴が看られ、また反対側の麓には平重衡が隠棲したとの伝承を遺す洞穴を見る。
 武蔵・児玉郡蛭川郷に在地した士・高家は後裔を北条得宗被官と成しているが、高家はこの重衡の首級を郷里に持ち帰ったとの伝承を遺し、重衡首塚とされるものが郷内の神社境内に見られる。
 『愚管抄』巻第五に拠ると、文治元年11月3日に後白河院は頼朝追討の宣旨を発するが、同日頼朝の郎従であった土佐房は「この宣旨が公表されると、」「ためらうことなく、九郎義経のもとに夜襲をかけたのである」とする。
 義経の抹殺に失敗した土佐房は義経の育った鞍馬山へ逃避しているが、一般に土佐房の俗名は渋谷昌俊とされ、渋谷氏は秩父重綱の父の兄弟が武蔵・橘樹郡河崎郷(虞らく現在の川崎区に所在する稲毛神社の周辺か)を拠点にした後裔とされ、祖の孫となる重国は後白河院政期の初め頃には豊嶋郡下の谷盛荘から相模・高座郡下の吉田荘へと広範な領域を支配したとされる。
 渋谷重国は平治の乱にて源義朝の与党として佐々木秀義とその息らや治承4年の源氏の旗揚げ後に阿野全成を自領の吉田荘に庇護した人物として伝えるが、その偏諱は源義国を承けたものか、息・高重は小野姓を唱えた横山党の惣領・時広の女を室として横山時広の家督を継いだ時兼が岳父・和田義盛とともに滅びた時に命運をともにしている。
 武蔵・豊嶋郡下の谷盛荘が所在した現在の渋谷区内に建つ金王神社の周辺が同荘を営んだ渋谷氏の居館が在った地とされ、一説に同社の祀る金王丸は渋谷昌俊ではないかとされている。
 他編で論じたことは和田義盛と武運をともにして族滅した横山党にて時兼の弟とされる広長の息は武蔵・久良岐郡平楽郷を領知し、義経とともに後白河院より官途授かりながら、以往も頼朝に近侍しており、横山広長の素姓とは実に児玉郡四方田郷を本貫として行跡を全く不明にする四方田弘長ではないかと憶測したことであった。
 武蔵・多摩郡を本拠にした横山党との関係から渋谷重国は相模・高座郡下の吉田荘を領掌し得るようになったかと推測されるが、秩父重綱の後裔となる小山田有重もまた高座郡下吉田荘と横山党の営んだ多摩郡下の船木田荘との間に位置する現在の町田市小山田を領知している。
 さらに、小山田有重の息とする稲毛重成は渋谷氏が先行した橘樹郡へ入部し、枡形山に築城したと伝え、重成の室は北条義時の妹とされるが虞らく重成の岳父とは義時の弟・時房との母方祖父となる足立遠元であったのではないか。
 渋谷高重は陸奥・黒川郡に所職を得ており、因みに同郡へ同時期に所職を得ている鎌倉御家人としては鎌倉党に属し相模・三浦郡長柄郷を本貫とした武家、千葉氏を出自とする東氏などが見られ、相模・高座郡下の字名が多く模写されたかのような陸奥・黒川郡へは現在の国道4号線を境に西側を渋谷氏が、東側を児玉姓を称えた領主が領知したことを確認し得る。
 しかし、奇妙なことは、児玉姓を称えた領主が入部した地に建つ延喜式内社に遺された建久3年銘の年号を遺す棟札には児玉重成なる名が記されていることであり、この名が或いは稲毛重成であったならば、秩父氏の系統であった小山田>稲毛は児玉党との同族意識を抱いていた可能性を感得する。
 義経を京洛にて襲撃した頼朝の郎従・土佐房とは、上に言及した児玉党真下氏の本貫と間近い塩谷郷に遺る伝金王丸墓碑を勘考すると、或いは児玉党に属した士であった可能性が有る。
 『私本太平記』に顕れる源範頼流・吉見義世の家宰・塩谷宗俊は多分に鎌倉攻めに加わった児玉党の士を仮託しているものかと思われるが、有道惟能が京洛から下って関東山間の僻地に土着してより、惟能が牧監を務めた阿久原牧より平野部へ進出ていったとされる後裔らにて、真下氏は上武国境を成す利根川支流の神流川に臨む現在の鬼石温泉郷を間近くして下山城を構えたと伝え、鎌倉幕府の滅亡後に庭石の産地として名高い峡谷で川床に転がる石を愛でて観想に耽溺したとの伝承を遺す真下伊豆守の名を想起させる。
 "いざ、鎌倉"の伝説で識られる佐野常世の住居址とするものが東山道難所の一であった佐野の渡し近傍に伝わるが、故・太田亮氏の『姓氏家系大事典』は常世より7世とする伊豆守常行なる士が在ったとし、関東山間の僻地に在って朝家の要路と姻戚関係を成す河内源氏の御曹司を迎えた有道経行の遠祖を平安期から江戸期に至るまで一族で少納言局の差配を続けた中原氏の古姓・十市首と同じくするとした古書を見る。

 文治元年12月28日、『愚管抄』著者の実兄とされる九条兼実を内覧に任ずる宣旨が下された。
 頼朝が朝廷へ要求したことは後白河院の側近であった高階泰経・小槻隆職らの罷免であったが、義経へ頼朝を追討する宣旨を下さしめたのは左大臣・経宗であって、頼朝が朝廷へ推挽した閣僚名簿において左大臣の名のみ記されていなかったと『抄』は叙べている。
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第97話 南家、隆家流、高階、勧修寺流、魚名二流

2012-10-22 | 日本史

 冷泉・円融両帝の祖父である師輔が醍醐帝の女との間に生した閑院流祖となる公季の曽孫より白河帝を生した後三条帝の時代に関白となったのは頼通の同母弟となる教通であったが、摂関家の家督を継いだ師実は頼通が村上帝の息である具平親王の息として村上源氏の高祖となる源師房の妹との間に生した息であり、師房の女を室とした実は源房の偏諱を承けたものと考えられ、白河帝は源師房の息である顕房の女より堀河帝を生している。
 さらに、堀河帝は閑院流祖・公季の玄孫より鳥羽帝を生し、鳥羽帝もまた母の兄である公実の女より崇徳帝と後白河帝を生している。
 後三条帝の時代、『愚管抄』巻第四は関白・教通が閣議の途中に憤怒して議事を数時間に亘り中断させた原因を、季綱を衛門府の"すけ"に補する議定を不快に思ったからかと記している。
 季綱は藤原南家祖四子・巨勢麻呂の末子より派した後裔として白河院の近臣となるが、白河院の孫が院政の拠点とした鳥羽離宮を献じた者が季綱であり、季綱の甥こそ熱田神宮司に入嗣し、頼朝の祖父となる季であった。
 季綱の玄孫となる範季は天武帝・長子の後裔である高階氏を母とし、頼朝との協調を図った摂家・九条兼実の家司を務めたが、範季の女は後鳥羽帝との間に順徳帝を生し、範季の姪の女がまた後鳥羽帝との間に土御門帝を生している。
 季範の息・範忠は自身の甥であり頼朝にとって同母弟となる希義を駿河郡香貫郷にて捕縛し、希義は頼朝が伊豆へ配流された同日に土佐へ配流されるが、範忠の女は季範の養女として下野にて足利荘を営んだ源義康へ嫁して足利義兼を生しており、為に義康は保元の乱にて義朝とともに三条に在った後白河帝方の高松殿から左京の外れに位置した中御門河原の崇徳方・白河殿へ攻め寄せている。
 熱田神宮司に入嗣した季範の眷族は崇徳・後白河両帝を生した閑院流・公実の女と主従関係に有ったと云う。
 範忠は四条家成の従姉が鳥羽帝との間に生した女の侍女を室とし、範忠の弟の息らもまた藤原魚名・三子の流れを汲む四条家成の従姉が鳥羽帝との間に生した女と後白河帝の同母姉に仕えており、朝もまた後白河帝の同母姉に仕えたとされる。
 季綱や季範を派した藤原南家祖四子・巨勢麻呂の末子の外、南家祖四子・巨勢麻呂から天武帝・長子の息である長屋王の女を母とした次子の息が母を県犬養氏として9世紀後葉に没する息を坂上氏より生しているが、この者は常陸大目に任じており、10世紀前葉に常陸と隣接する下総・猿島郡を本拠とした平将門の配下に坂上遂高の在ったことを想起させ、常陸大目を任じた者の息が他編で述べた村上帝の長子を生しながら即位を見なかった女の父となる。
 また、南家祖四子・巨勢麻呂の六子の女は北家・長良と良房の兄弟を生している。
 さらに、南家祖四子・巨勢麻呂の後裔として信西こと通憲は天武帝・長子の系統である高階氏の猶子となっており、後白河帝の寵姫であった高階栄子は院の近臣との間に生した息を四条家成の息である山科家祖へ入嗣させている。
 平清盛の弟である盛の母は有道惟能が家令を務めた伊周の弟である家より6世として『平治物語』にて名を宗子とし、『愚管抄』巻第六は北条時政の継室である牧の方の父は大舎人允・宗親であり、兄として時親とする者が在ったと言及して、時政・継室の父は平頼盛に仕えて頼盛の所職である駿河郡下の大岡牧を長らく管理していたとし、宗親は「武者ではないのに」「このような果報者が出てくるというのもふしぎなこと」と付言している。
 北条時政が牧の方より生した息に政なる者が在ったとされるが、『尊卑分脈』にて頼盛の母方叔父として確かに宗親の名を見出すが、その官職は諸陵助とのみ伝え、頼盛の母方叔父たる宗親の兄として時親なる名は見該らず、また宗親と近い親等にもやはりその名は見当たらない。

 頼盛の母の従弟の息が平治の乱にて源義朝と組んだ信であり、その偏諱は信頼が勧修寺流・顕の息・顕頼の女を母とした為か、保元の乱に因り平清盛が斬首した摂籙の弟はまた長であった。
 頼盛の母と同じく隆家より6世となる者が後鳥羽帝の母方祖父となる信隆であるが、その父は鳥羽帝が崇徳・後白河両帝を生した公実の女にとって妹を母とし、太秦入道と号されている。
 此処で想起される者が『愚管抄』巻第四に記される鳥羽帝の「第一の寵臣であった」四条家成の邸にて頼長が「心を合わせて」狼藉をはたらく「無二のお気に入りであった身辺警備の武官」(『日本の名著9』中央公論社 昭和46年刊)の秦公春である。
 藤原魚名・次子の流れを汲み鎮守府将軍に補された利仁の父は冬嗣の同母兄である日野家祖の女を母として、利仁自身は越前在地の秦氏を母とし、敦賀の藤姓・有仁なる者の女婿となったと伝え、また『尊卑分脈』に拠ると丹波目・伴氏の女を室として鎮守府将軍に就いた長子・頼を生し、さらに母を不明としながらやはり鎮守府将軍に補された次子・象を生している。
 利仁の岳父であったと云う有仁の名から想起させる者が源師房の女を母とし公実の女を室とした源仁であり、源有仁は白河帝が在位中に行幸の折には源義家らに周囲の警護を命じるほど怖れたと『愚管抄』巻第四に記される弟の息であって、有仁は有道惟能の孫が女を継室へ贈った源義忠の息へやはり女を嫁した師実の息である経実の女を養女として後白河帝との間に二条帝を生しているが、頼長の父として白河帝より台閣を罷免され閉塞を命じられた忠実が白河帝の没後に正月の拝礼式へ躯の無理を圧して出席した際、執政であった忠実の長子ら公卿ら「すべて」が忠実「に対しては家格を重んじて礼をとられたが、」有仁「だけは微笑して会釈しただけで」「その御振舞は大したものであった」とする諸卿らの評言を『抄』は記している。
 利仁・長子の諱は奇しくも利仁の父にとって同母兄となる山蔭の長子、詰まり利仁の従兄と等しくするが、山蔭・長子たる有頼の方は筑前介・孝なる者の女を母とし、末弟の如無なる僧籍に在った者の息たる衡を嗣子としており、在衡は安和の変に因る源高明の失脚で78歳にして右大臣に就いて翌年には左大臣へ昇るや死没している。
 堀河の祖父となる源顕房の玄孫が編んだ『古事談』は在衡の天皇に対する精勤振りを説いている。

 源有仁の父として白河上皇が怖れた弟に係り白河上皇が在位中の鳥羽帝を後見していた時、白河上皇の弟を即位させるべく鳥羽帝の暗殺を謀ったとして源師房にとって長子の息を罪科に処しているが、『吾妻鏡』が編まれた頃に成った勧修寺流に関わる者らの私記を頻見する『百錬抄』に拠ると、白河上皇の臨んだ閣議にて藤原為房が源師房の長子への譴責を排斥する意見を呈したと云う。
 源師房の次子・顕房の方は妹を摂家・師実の室とし、女を白河上皇との間に堀河帝を生さしめており、1049年生の勧修寺流・為房は1037年生の顕房の偏諱を承けたものと思料され、同様と思われる者が魚名・三子の流れを汲み6世先の弟以往久々に公卿に列した1055年生の顕季であり、顕季のもう一方の偏諱は養父である閑院流・公実の父・実季を承けたものと考えられ、勧修寺流・為房の息である顕隆については述べるまでもない。
 北条時政の祖父である伴為房と諱を等しくする公卿を派した勧修寺流はその祖となる高藤が醍醐の祖父として魚名より120年余の星霜を経て復活した古色蒼然たる内臣の称号を死没間際に朝家より贈られたが、北家の大立者・冬嗣の六子となる良門は平将門より百年早く門の偏諱を帯びて、しかし良門は従五位以上の大夫にも昇れぬまま内舎人の職にて夭折している。
 良門の長子・利基は魚名・次子の流れを汲む利仁に先んじた偏諱を帯びて、伴氏より従弟・定方の女を室として古今歌壇の中心を成した堤中納言を生しており、堤中納言が定方の女とは別の女より生した息もまた定方の女を室とし、その室は利仁の伯父となる山蔭の女を母としていたが、堤中納言の曽孫が紫式部であり、さらに利基の後裔として頼長の兄である摂家・忠通に仕えながら平清盛の女を室とした忠通・長子の夭折から清盛へ摂関職と一族の理財を領掌する家督との分離を献言して清盛を随喜させた邦綱が在る。
 他方、良門の次子・高藤は勧修寺内大臣と号される外、息・定方の孫となる済時が小一条殿、自ら廃太子を望んだ後三条・母の兄が小一条院と号された処と関連するか、小一条内大臣との号を伝え、しかし、その母は西市正を務めた高田沙弥丸の女・春子と伝える点、平清盛への接近を図った邦綱が女に乳母を務めさせた六条帝すら母を不明とすることからも、能く斯かる出自を後世に遺したものかと感心を禁じ得ない。
 天暦の治を朝家に謳われた醍醐帝の祖父として高藤の出自は史上に伏在した流れを示唆する処を感得するが、高藤が室町幕府政所代を世襲した蜷川氏の本姓たる宮道氏と出自を同じくする女より生した息・定方を介した孫には甥と同じく堤中納言と号された者が看受けられ、その者とは異にして山蔭の女を母とする孫を介して高藤より8世となる者が上の為房であった。
 ところで、山蔭や利仁を派した魚名・次子の流れとは異にし、魚名・三子より派した後裔はまた院政期に躍動を顕著にしており、魚名・三子の息は女を長良に嫁して基経を生し、さらに基経によって陽成帝より4代遡って即位させた光孝帝を有道氏が朝家より賜姓される年に即位した仁明帝との間に生した女が有って、魚名・三子より7世となる者が上の顕季であった。

 『愚管抄』巻第四は白河帝が摂籙・忠実を罷免した時、白河は勧修寺流・為房の息・顕隆に諮り、顕隆は予て談じたことを再度答申したことについて、魚名・三子の流れを汲む顕季とその息・家保とともに京洛郊外の祭礼にて「桟敷で酒盛りをして心をかよわせ」つ談合したことを「摂政関白というものの任命のことは、そういう人たちが少しでも介入すべきことではない」と非難している。
 魚名・三子の後裔である家保の息が鳥羽法皇の「第一の寵臣」として四条家祖となる家成だが、勧修寺流・顕隆は摂津源氏・頼光の孫を母としており、保元の乱の顛末を以て結ぶ『愚管抄』巻第四にて白河院が内裏の近衛詰所を警衛する検非違使として土岐氏祖となる頼光の玄孫・光信が顕れ、鳥羽院の臨終を看取った寵姫としてやはり頼光の玄孫である光保の女、そして保元の乱が闘われる後白河帝方の寄手として光信の弟である頼政、光保が顕れている。
 しかし、平治の乱から頼朝の奥州征伐までを叙べた『抄』巻第五にて白河帝の寵臣として"夜の関白"と称された顕隆に係る眷族は夥しく、有道惟能が家令を務めた伊周の弟・隆家より7世として顕隆の孫を母とし後白河院より「よそ目にもあきれるほどに信任された」信頼、清盛の離京に臨み信頼・義朝が蹶起して清盛が帰京する折に顕れる顕隆の女を母とした閑院流・三条家祖の息と鳥羽院の命により二条帝に近侍した検非違使として顕隆の孫、平治の乱が終熄した後に後白河院が訪れた邸主として源顕房の孫となる顕隆の息、摂家・忠通に仕えながら平清盛に接近した邦綱が六条帝の乳母とした女の夫である顕隆の孫、そして2歳で即位し4歳で退位また13歳で没した「御母がだれであるかははよくわからない」六条帝に係り『抄』は巻第二にて顕隆の女を母とする公能の女であったかとするのを見出すが、母方出自を卑しくする始祖の一世にして一躍帝の外祖父と成り上がり、大織冠以往の朝家栄誉の称号を授かって子孫連綿と相続き、源頼光の流れを汲む美濃・守護の下にて守護代を任じた藤原利仁流とする族との姻戚関係を築いて、家名を太平の世まで保ち得た理由とは何であったか。
 しかし、史上、後三条・後鳥羽・後醍醐は名を尊仁・尊成・尊治と偏諱を等しくした。
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第96話 武家政治への前哨

2012-10-21 | 日本史

 頼通の息・師実を関白とした白河帝が息・堀河帝へ譲位した翌年に後三年の役が終熄し、内裏への昇殿を許された平忠盛より35年早く院への昇殿を許された源義家の嫡子・義忠は実子である国へ摂籙・師実の息である実の女を娶わせ、経は奥州藤原氏を派した藤原秀郷の流れを汲む族が足利荘を営む地へ食い込んだ新田・足利両氏祖となる義家の庶子・義の猶子となり、藤原伊周の家令を務めた有道惟能の孫・経行の女を継質に迎えて武蔵・児玉郡下に荘園を開き、義家の曽孫となる義賢が有道惟能の曽孫が拠点とする地に居館を構えるや、京洛郊外の鞍馬へ隠棲している。
 義家の次子・義親は源隆長なる者の女を母とし自らは高階氏を室としているが、三子・義国と四子・義忠は他編で述べた日野家の流れを汲む藤原綱の女を母としている。
 義親は対馬守に在った時大宰大弐であった大江匡房より訴えられるが、近年の史家が指摘するように義親は四等国制における四等国の守であり、義国は加賀介であったに過ぎない点、河内源氏の祖となる頼信より義家に至る三代が任じた二等国守を義忠が補されていることから、義忠を家督に考えていたものと思われる。
 源義は道長四天王と呼ばれた河内源氏祖・頼信や有道惟能の母方祖父である平公雅の息・致頼とともに伊勢平氏の祖となる平惟衡の流れを汲み平家の祖となる平正盛の女を室とし、義忠の次兄・義親を討った正盛の息である平盛の元服加冠役を務めた後、叔父・義光の謀計に因り義光の息の室にとって兄となる鹿島氏に殺害されている。
 鹿島氏は近世・仙台藩主の源流と考えられ、北条義時に継室を贈った伊佐氏が蟠踞する常陸・真壁郡を拠点とし、平将門に倒された伊勢平氏の源流を成す平国香の流れを汲んで、平国香はまた治承4年の旗揚げで頼朝が初めて軍陣の血祭りに上げた山木兼隆の遠祖とされる。
 為に、源義光は配流先の常陸・久慈郡で佐竹氏祖となり、下野・安蘇郡へ入部した義国と北関東の覇権を争う。
 義忠の弟となる義隆は鎌倉期に大江広元の息となる毛利季光が継承する毛利荘を相模・愛甲郡下で営んでいたが、源義隆の息・頼隆は比企能員の謀殺に北条時政と通じていたと考えられる甲斐・巨摩郡下で市河荘を営んだ士と眷属関係に有った中野氏の在地する信濃・水内郡下の若槻荘へ移っており、義忠の玄孫に該り北条時政の孫となる時元を『尊卑分脈』は隆元とする。
 一条帝は有道惟広が家令を務めた藤原道隆の女として清少納言が仕えた定子の生した息の立太子を望んだが、定子の母は天武帝・長子の血脈となる高階貴子であった為叶わず、高階氏は鎌倉末期より戦国期に亘って朝廷の理財を司る山科家祖へ入嗣した息を生す後白河院の寵妃であった栄子や、やはり後白河院の近臣であった泰(摂家・師実の息・実の女を源国は正室としたが、経実の息・宗は後白河院政期の左大臣を長らく任じて、有道経行の女を継室に迎えた経国は義仲の父となる源義賢が上野・多胡郡下に居館を構えたのと入れ替わるように洛北郊外の鞍馬の地へ隠棲し、後白河院より官職を授かり頼朝の逆鱗に狂れた義を育てた鞍馬は義経を京洛で襲撃した渋谷昌俊もまた逃れた地であり、昌俊は実に有道氏を出自とする可能性が有る)、足利尊氏の執事を任じた高師直、後白河院政期の左大臣・泰経の後裔として織田信長の家中に在った堀尾吉晴を派しており、頼朝の曽祖父となる義親もた高階氏を室としたことは確認し得るも、義親の息らは母の出自を確かめ得ない。
 義親の四子となる為義の兄らは信、俊、泰とされ、河内源氏の家督に就いた為本人は3人の兄らと偏諱の位置を異にしている。
 堀河帝に先立たれた白河院は『愚管抄』巻第四曰く「いわば他人の室の中」(『日本の名著9』 中央公論社 昭和46年刊)である「内裏の中の近衛の詰所」に座所を構えた時、源頼光より5世として土岐氏祖となる光信や為義と云った検非違使らに内裏の警衛を務めさせたと云い、在位時代には弟となる後三条帝の三子を怖れて「行幸なさる折には、義家」や義家の弟として義綱「などをひそかにお呼びになり、御輿のあたり、うしろなどに侍して警固に当たるように命じた」とする。
 一条朝下にて有道惟広が家令を務めた道隆の執政時代、一条帝の先帝である花山帝に近侍して在位中の出家を教唆し、史上2人目の内大臣となった道隆の弟として今日史家の多くが中原氏の出自と考える宇都宮氏が遠祖とする道兼を襲って、有道惟能が家令を務めた伊周が内大臣となる翌年に道隆の三弟となる道長が右大臣となったさらに翌年1月、伊周の弟である隆家が犯した花山院への狼藉に因り伊周が大宰府へ左遷され、その翌月に有道惟能の解官を見た年に道長は左大臣へ昇り、翌年には道隆の祖父が醍醐の女との間に生した閑院流祖・公季が内大臣となっている。
 道長の姉を母とする一条帝に先んじた花山院は道長の父にとって長兄の孫であったが、一条帝の帝位を襲う三条帝もまた道長の姉が生した息であったものの、花山院より一条帝へ譲位された因縁から花山院の弟となる三条帝は在位の長かった一条帝の後を俟たされた訳であり、眼疾を口実に道長が三条帝へ退位を迫ったのは紫式部が仕えた自身の女の子となる一条帝の即位を焦がれた為であった。
 道長が焦がれた孫が即位する翌々年に道長は没するが、後一条帝が即位する翌年の台閣人事で執政となった頼通の外、道隆の執政下に道隆の曽祖父として忠平の孫となる済時とともにlibertarianな宮廷を現出した史上初の内大臣・兼通の息となる朝光の兄が伊周の左遷に因り右大臣へ昇っており、長らく内大臣に止まった閑院流祖・公季ともどもそれぞれ左大臣、右大臣へと昇任している。
 相模の大族・三浦氏が預所を任じた三浦郡下の三崎荘・領家は三条帝の孫であり、この三条帝の孫はまた有道氏が密着した道隆の"盟友"であった済時の孫であって、済時の父は道隆の祖父と同じく仁明帝の孫となる源能の女を母とし、済時の母は勧修寺流祖の息・定方の女であった。
 済時の父は道隆の祖父の弟として小一条殿と号され、立太子されながら自ら廃太子を望んだ三条帝の息もまた小一条院とされたが、勧修寺流祖が小一条内大臣と伝わった点との関連を考えさせられ、道隆の父にとって長兄の孫である花山帝が即位した時には既に花山帝の祖父は没しており、蔵人頭であった花山帝の母の兄が台閣の末席に食い込み朝政を壟断した。
 道隆の父と家督を争ったその次兄が死ぬ間際に果たした強引な除目で唯一人新任を申し出た済時は花山帝即位の時に長兄・次兄が既に没した道隆の父が漸く執政となる期待をもったにも拘わらず花山帝の母の兄が割り込んだ為に望みを逸し、朝廷行事の職務を抛棄した道隆の父に対して大納言であった花山帝の岳父や朝光は道隆の父を畏怖して臆する中、『愚管抄』巻第三は「済時だけがそれでも、第四席の大納言としてとり行」い、「この済時は」道隆の父「に対してはまったく遠慮をしな」かったと叙べている。
 朝光の兄が没すると遂に公季は太政大臣へ昇るが、執政の臣である頼通が左大臣を兼任し、公季の没する前年に平忠常の乱が勃発しており、他編で言及したことは忠常の鎮定を命じられた平直方の出自を平国香の息・貞盛の流れとすることには疑問が感じられ、忠常を鎮定し得ず、直方より更迭された河内源氏の祖となる頼信が戦わずして忠常を帰服させた点、平直方の仕えた摂家とは存外に頼通のことでなくして、後世に朝家の筆頭家格を成す閑院流祖・公季ではなかったかと論じたことであった。
 朝家の人々が末法の世に入ると信じた1052年の前年より源頼義により前九年の役が戦われるが、役の終熄する3年前に頼通の嗣子となった師実の就く内大臣職を、役の終熄した3年後に有道惟能の後裔が簇生した上野・多野郡下で奥平郷を本貫とする武家と源流を等しくすると故・太田亮氏が指摘する播磨・佐用郡の赤松氏が遠祖とする村上帝の息として具平親王の息となる源師房が襲っている。
 在位中の白河帝を警護した源義家が後三年の役を戦うのは白河帝の在位末期に村上源氏の祖となる師房の長子・俊房が左大臣へ昇任し、俊房の弟である顕房が右大臣となった年であった。


 醍醐帝は北家の大立者である冬嗣の六子として内舎人で生涯を終えた者の息・高藤の女を母としており、往時の在地領主らの子弟が憧れた内舎人は摂関家に随身する役に抜擢された例も有って、藤姓にも拘わらず諱に藤の字を重ね、後裔を勧修流として繁栄させた高藤の生母に係る出自といい、醍醐帝を生した女の出自が室町幕府政所代を世襲した蜷川氏の本姓である宮道氏であったことといい、高藤の孫となる醍醐帝の即位は異例であった筈で、高藤は大織冠・鎌足以後天智帝の血脈を皇統に復せしめた光仁帝の即位に功績を成した魚名に与えられた内臣の称号を120余年振りに与えられており、醍醐帝を生した高藤の女が嫁した宇多帝は一旦臣籍に降っていて、宇多帝の父は昭宣公・基経が陽成帝を退位させた折に陽成帝より皇統を4代遡って桓武帝の息である葛原親王の家令を務めた丈部氏道が有道姓を与えられる833年に即位した仁明帝の息として55歳にして即位を遂げた孝光帝であった。
 高藤の異母兄である利基は飛鳥部氏を母とし、利基の父である良門がやはり飛鳥部奈止麻呂の女である百済永継が生した日野家祖となる真夏の同母弟となる冬嗣の六子であったのと等しく、利基の六子は母を伴氏として高藤の息である定方の女を室とした堤中納言としている。
 村上帝は皇統を陽成帝より仁明帝の息に遡及させた基経の女を母とするが、基経はまた魚名の三子を介した孫の女を母としている。
 基経の実父・長良と長良の弟として基経の養父となる良房は藤原南家祖四子・巨勢麻呂の息の女を母としたが、村上帝の長子もまた南家祖より5世となる女を母として即位を果たせなかった。
 醍醐帝の息として左大臣を任じた源高明は仁明帝の孫となる源能の女が生した師輔の女と村上帝との間に生した3人の息にて次子へ女を嫁したが、即位を果たしたのは師輔の孫となる長子・三子であり、さらに高明は菅原道真と親昵であった源能有の女が清和帝の息との間に生したとされる源経基の息により平将門を討って威名を揚げた魚名・四子の流れを汲む藤原秀郷の息とともに謀叛の嫌疑を被っている。
 源高明が女を嫁した村上帝の次子・為平親王をも赤松氏はまた時に具平親王とともに遠祖と嘯いているが、赤松氏と同源となる奥平氏も同様の家譜を示しており、ヤマト古族である小野姓を唱えて武蔵・多摩郡を拠点に相模へ発展した横山党に属し、後に北条得宗被官として佐渡へ入部する相模・愛甲郡依知郷小字本間を本貫とした本間氏もまた村上の息である為平を高祖と仰いでいることは、往時の関東在地領主と朝家における村上源氏との関係を憶測させる傍証と思われる。



 有道惟広が家令を務めた道隆が危篤となると一条は前年に内大臣となった中宮・定子の兄として有道惟広の息が家令を務める伊周を内覧に任ずる宣旨を下すが、同年に没した道隆を襲って執政に就いた者が道隆の次弟である道兼であり、道隆の三弟である道長は右大臣に就いて『愚管抄』巻第三が縷々叙べるように帝の母である道長の姉・子をして帝に迫り道長を内覧とする宣旨を下さしめている。その翌年、伊周は左遷され道長は左大臣に昇り、道長に替わって右大臣となった者が伊周の父・道隆と親昵であった朝光の兄であったが、朝光の兄もまた一条へ女を入内させたが皇子を生さず、さらに後一条の皇太子となった三条の息・明へも女を娶わせたが、三条の息は父の従弟である一条に道長の女である子の生した後一条の同母弟が有って冷泉・円融の間に挟まれ源高明の女を室とした為平の先例を慮り自ら廃太子を望んでいる。この三条・息の妹が後三条の母となるが、伊周の左遷に因り内大臣を襲った閑院流祖となる公季は同職を道長の息・頼通が執政となるまでの長きに亘って続けている。一条の息として彰子が生した後一条・後朱雀の兄となる康は道隆が高階氏より生した定子の生んだ一条の長子であり、『愚管抄』巻第四は「何としても敦康親王を位につけたいということが一条天皇の御心の底に深く流れていて、」道長「があんなにして内覧の宣旨をお受けになった時なども、そのままに見のがしておいでになった」が、四等官制における末等の"さかん"でありながら初めて"じょう"の授かる従五位下を被り後裔が太政官弁官局の差配を世襲することとなる小槻奉親と親昵な間柄であって一条の諮問に応えた行成が立太子を反対したことは、有道氏の仕えた中関白家にとって藤原南家祖5世と朝光の兄に次いでの痛恨事であった。しかし、太政官少納言局の差配を世襲した中原氏と中関白家の家令("かみ"と訓ずる)を父子ともども務めた有道氏とは同源であるとする古書が在る。凡そ史上に権勢を謳歌した門流が次代に忽ち翳った例として、嫡子の横死に因り孫を後見せざるを得なかった源義家や息・堀河に先立たれ鳥羽を後見した白河、嫡子の怪死を見て孫らを後見した北条泰時そして息を生さなかった細川勝元の息などを想起するが、何れも周辺を廻る者らの策謀に起因する点を共通させると考えるには無理があろうか、摂関政治の全盛を現出させた頼通にもまた人為を越えた不思議な運命が有ったと考えるべきか。


 『愚管抄』巻第四の記す道長「に対する悪感情」が「解けなかった」一条は閑院流祖となる公季を入閣させ、孫の即位に焦れた道長が退位を迫った三条の女を母とし頼通「に対して深く御心に含まれるところがあった」後三条が即位した後の施政などは皆、帝自らのみの発意であったのか。頼通は村上の息として村上源氏の太祖となる具平に入婿し具平の女を正室としたが息を生さなかった為、具平の兄として源高明の女を室とした為平の孫を嗣子に迎えたが夭折し、頼通が後宮の女官との間に生した『抄』曰く「運の強い人」を家督とした。「運の強い人」であった師実を生した女の養父は藤姓を称えているが、赤染衛門が道長の没するまでを著したと云われる『栄花物語』の続編は師実の母の養父を具平の実子とし、また師実の母も実に具平の実子であったと説いている。詰まり、頼通の正室にとって実妹が師実の母であったことに落着し、師実の母が生した女は後冷泉に入内しながら母の姉と同様に子を生さなかった。後冷泉の父である後朱雀へは後冷泉の母の他、後三条を生した三条の女である子と道隆の女である子の生した敦康の女らが入内したが、敦康の女が息を生さなかったことは有道氏の仕えた中関白家にとってまたも悲運であった。しかし、後朱雀へ入内した女を生した道隆の孫である敦康の室もまた、具平の女として師実・正室の妹であり頼通の養女であった。後三条の即位とともに頼通が関白職を譲った弟の教通もまた具平の女を室としたが、後三条の母にとって祖父となる道長より後三条の母の後見を託された道長の息は宇多の曽孫を母として関白を任じた兄・頼通や弟・教通と異にし母を源高明の女とした者であり、後三条の兄が父より譲位される折に後三条の立太子を迫り、後三条の春宮坊大夫となった道長の息は養女とした閑院流祖の曽孫となる女を娶わせ白河を生して、『抄』は「閑院の流れから世継ぎの君をお出しするようになるはじめがここに見える」としている。
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