藤原南家祖四子・巨勢麻呂の血脈ながら高階氏に扶育された信西の息が営んだ京洛郊外・東山の山荘で凝らされた密議に因り清盛の武断が下されたのは、天智帝の血脈を皇統に復することに功績を成した北家・魚名の三子の流れを汲む四条家成の息・成親、師光そして成親の息・成経であったが、頼朝と偏諱を等しくする清盛の弟頼盛の義兄となる俊寛は赦されなかった。
同じく清盛の弟・教盛の女を室とした成経が帰京し得た点、清盛の頼盛に対する警戒がものを云ったと考えられるか。
この時と『愚管抄』巻第五が「天狗のしわざとしか思えない」と二度も強調する後白河院に対する義仲の脅迫の後、朝廷が二度も崇徳帝と摂籙・忠実の次子・頼長を鎮魂する儀式を計っている点、権力闘争を勝ち残らねばならなかった勢力のうしろめたさが滲み出ている。
文治元年末に九条兼実を内覧とする宣旨が下され、頼朝は朝廷に高階泰経の閉塞と勧修寺流・顕隆の曽孫となる蔵人頭・光雅の罷免を要求してから文治の元号が建久と替わった年に頼朝が初めて上洛した時、右大将補任拝賀の為参内する頼朝に付けられた武官は、頼長が鳥羽院の「第一の寵臣」であった四条家成へ「心を合わせて」狼藉をはたらく秦公春と協同した秦兼平であった。
その際、頼朝に随った者らは、摂籙・基房へ狼藉をはたらいた平資盛を婿とする道長6世の基家の甥として頼朝の妹を室とした一条能保と能保が頼朝の妹より生した全子(まさこ)を室とした閑院流・公経そして基家の息として能保の猶子となる保家であった。
この時には既に、頼朝は顕隆の兄にとって孫となる吉田経房を朝幕間の取次を担う者として考えていた。
源頼光の郎党である渡辺綱の党に嘗て在って「四年の間同じ伊豆国で朝夕頼朝に馴れ親しんでいた」文覚に、後鳥羽帝は法皇が国司の収入分を押さえ得る播磨国を宛がって東寺の復興を期したが、東大寺再建には播磨国と同様な備前国を当て、1195年の再建落成式典に臨むべく二度目の上洛を果たした頼朝は再び九条兼実との会談を重ねたが、卿の態度は「万事よそよそしい空気」であった。
何故ならば、九条兼実は頼朝が初めて上洛した年に女を後鳥羽帝へ入内させており、兼実の女は既に懐妊している処、頼朝は自らの女を入内させたい意向を村上源氏たる大納言・通親へ伝えており、当の通親自身が白河院の近臣であった南家祖・四子の流れを汲む季綱の玄孫となる範季の姪として後鳥羽帝との間に土御門帝を生していた範子との間に女を儲けていたのであって、さらに義仲が後白河院を脅迫した法住寺殿合戦にて天台座主・明雲の門弟であった後白河院の息がまた密通していたとする後白河院の寵妃・高階栄子にも院との間に生した女が在ったからである。
そこへ、頼朝の「目くばせにより」九条兼実は後白河院の没した時にもちあがった播磨・備前での大規模な立荘案を潰し、上に言及した成経ややはり四条家成の息となる山科実教を台閣から排除した為、頼朝が二度目の上洛を果たした翌年、兼実は閉塞を下命された。
高階栄子は後白河院の近臣であった平業房との間に生した息を山科実教の嗣子とし、源通親や明雲の門弟であった後白河院の息らと結託し、法皇の得分となる播磨・備前を院の死没に因り私荘化を図った訳で、頼朝の望みが通親の手玉に乗せられた格好となった。
1199年1月11日に頼朝が出家し13日に没したことは京洛にて二日後には巷間に伝わっており、先に没していた一条能保の郎党であった中原政清に係る通親への中傷を梶原景季が当人へ告げ、政清は後鳥羽院へ庇護を嘆願するが、通親は頼家と「かねて味方であった」大江広元へ訴え政清を流罪へ処している。
間も無く九条兼実は当時の巷間に隆盛を見た法然に導かれて出家したが、法然の教団に在った者として『抄』は中原師広の存在を指摘しており、師広は高階泰経に仕えていたとする。
有道惟広が家令を務めた道隆の次子・隆家より6世となり、父が崇徳・後白河両帝を生した女の妹を母とする信隆の女が後鳥羽院の母であり、後鳥羽院の母にとって弟となる信清の女が源実朝へ嫁している。
『抄』は実朝・室の「父である信清の君は永年幕府のことを朝廷に取り次ぐ役をつとめていたが、公経大納言もまたたしかに同じ取次ぎの役だった」(『日本の名著9』中央公論社 昭和46年刊)と叙べている。
さらに朝幕間の連絡を果たした者として、源「仲章―光遠という者の子である―といって、」「菅家の長守朝臣の弟子になっ」た「者があったが、何か縁故などがあったからであろうか、」実朝の「師となり、常に鎌倉に下って学問の相手をした」とするが、藤原隆家の父・兄に家令として仕えた有道惟広・惟能父子の室・母は菅原道真の曽孫となる薫宣の女であって、「仲章は京都では、」「あの男が将軍にあれこれと漢家の例を引きながら何か教えているとは、などと人々が噂をするので、また何をやっているのかと思う人々もあった」とする。
『抄』が教える朝幕間に亘って似たような役を演じた者として、後鳥羽院の北面に忠綱が在ったとする。
「漢字さえ知らないような者であったが、」「後鳥羽天皇の御在位のころから伺候しなれて、側近に召し使われていた」とし、院は忠綱を使いとして公経に希望している大将への昇進はすぐには困難である向きを伝えんとした処、「せめてこれだけでもと願ってはどうか」との院の趣旨は「少しもいわず、もっぱら今回はだめだということだけを」「いったので、」公経は応えて「妻は実朝の縁者ですから、関東へ行けば命はながらえましょう」とした処を、忠綱が院へ伝えた処は「上皇をおどし『実朝に訴えるといっておりました』などとありもしないこと」であって、激怒した上皇によって公経は閉塞を下命される。
実朝が希望していた右大臣補任の拝賀として鶴岡八幡宮への参拝が執り行われた時、朝廷から参じた者らは
実氏 公経の息
国通 平賀朝雅・前室の夫―朝雅は北条時政が継室との間に生した女を継室とした。
光盛 頼盛の息
らであったが、此処で目を惹く名が頼盛の息である光盛であり、鎌倉幕府創業の功臣として『平家』で名高い三浦義明の息・義連を介した玄孫もまた光盛であったが、その弟とされる盛時は本貫となる所職を伝えない。
三浦氏の陸兵力が集中していたのは岡崎義実らが領掌した現在の平塚市一帯であったが、その北方に位置する愛甲郡で毛利荘を営んだ源義隆は義家の息として平治の乱が起きた時には河内源氏の最長老であった。
毛利荘を継承した者が大江広元の息として宝治合戦にて三浦泰村とともに滅びた毛利季光であって、『抄』巻第三にて有道氏が近侍した道隆とともに酒盛りに耽溺した済時を随所に嘲りながら、巻第六は『抄』著者の甥は済時の父と比肩し得ると図らずも称揚しており、済時は三条帝の孫にとって祖父となる者であって、三条帝の孫は三浦氏が預所職を得た三浦郡三崎荘の領家であって、同荘下の諸磯郷には大江広元・女の邸が在ったとの伝を遺し、鎌倉と諸磯の間に光盛の本貫であった芦名郷は所在した。
『抄』は頼家の遺児が実朝を襲うシーンを「あの仲章が先導役で」「義時だと思って」殺し、「実朝は、太刀を持って傍にいた義時すら、中門にとどまっておれといって制止した」と叙べ、「賢明にも光盛はここへは来ないで鳥居のあたりで待っていた」とする。
『抄』巻第五は平重衡を処刑する為に東大寺へ護送する任を務めた源頼政の息として「頼政のあとを継いで内裏の警備の任に当たった」が「永くは」続かず「思うようになれないで死んだ」頼兼の息・頼茂が父の職を継いだことに言及し、巻第六は鎌倉勢が承久の乱が起こる3年前、「頼政の孫で内裏に仕えていた頼茂という者が突如として謀反の心を起こし、」「盛時が頼茂の首をとって後鳥羽上皇にさし出した。頼茂が」「仲間に入れようとした伊予国の河野という武士がかくかくと陰謀の内容を話した」とするが、承久の乱の3年後、北条義時の継室であった伊賀の方は三浦義村が元服加冠役を務めた息・政村を執権とすべく兄である伊賀光宗とともに三浦義村を巻き込んだ策謀を果たし、足立遠元の女より中原親能を生した光能の従弟となる定家の『明月記』に共犯が六波羅探題で伊賀の方が義時を殺した時に使った薬をよこせと叫喚したことに幕吏が驚愕したとする記事でよく知られた事件が別に在る。
確かに、伊賀氏は二階堂行政が藤原秀郷の後裔として伊賀守へ補された佐藤朝光を婿として、朝光の息・光宗と伊予在地の河野通信らは承久の乱で上皇方となっている。
源頼茂を討ち取った盛時と同じ名は頼朝の祐筆を務めた者と北条得宗被官として顕れる者の2人が在り、後者は内管領・平頼綱の父と推定される。
一般に二階堂行政は北条政子・義時の母方祖父や北条得宗被官となる工藤氏らと同じく藤原南家祖三子・乙麻呂の後裔とするが、他編でしばしば論じた通りその点は甚だ疑わしく、『抄』は二階堂行政の息・行光を北条政子の遣使として記し、行光は買官によって「信濃守となった者」とし、実朝の後継として有道氏が仕えた中関白家を出自とする隆家の後裔たる信清の女が院との間に生した息を幕府は将軍に希望すると奏上しており、結局、忠綱は院の遣使として閑院流・公経の血脈を承けた摂家の子弟をとの返答を為している。
後鳥羽院との間に土御門帝を生した女の母として範季の姪の妹・兼子は、院の側近・忠綱の無法で閉塞を下命された公経の赦免を懇請しており、上洛した政子を兼子は「たびたび出かけていろいろと会談し」ている。
『抄』は院が「病気にかかられた折に『よくよく静かにものを考えてみると、この忠綱という男を・・・とりたてた過失は、どう考えてみても取るところのない間違いであったとよくわかった』といわれ、すぐに忠綱を解任し」たとし、源頼政の孫である「頼茂と特に親密に語り合って、人から怪しまれたこともあったが、頼茂の後見役であった法師が捕えられていろいろなことをいったなどといわれていることについては、忠綱がひろく公表することもさせずに、法師を関東へ下しつかわしたのであった。すべての悪事を積んで忠綱が消えてしまった」のに、範季の姪となる兼子が忠綱の赦免を院へ懇請したことを「人々はあざけり非難した」とする。
平安後期に下野・安蘇郡下で足利荘を営んだ藤原魚名・四子の流れを汲む足利俊綱は、武蔵の在庁官人に過ぎなかった太田政光が中関白・道隆の弟となる道兼を祖とする宇都宮氏の二代であり、八田郡を領知した宗綱の女として伊豆に在った頼朝へ仕送りを尽くした寒河尼を継室とする縁故から都賀郡下の小山荘を営み、政光の後裔となる小山氏との相剋を演じ、頼朝の妹が嫁した一条能保の叔父の婿となった資盛の父である平重盛によって一度は源義国の息として新田氏祖となる義重へ所職を奪われるが、俊綱が重盛に嘆願して奪還し、治承・寿永の内乱にては平家与党として奮尽している。
頼朝が俊綱の征討へ派した者が上に三浦義明の息であり芦名光盛の曽祖父とされる佐原義連(無論、本貫は三浦郡佐原郷)であり、俊綱の武運は尽きるも、弟とする有綱の息・基綱は足利荘と隣接する佐野荘を領掌して、後裔を北条得宗被官と成している。
しかし、藤姓・足利氏の惣領であった俊綱の息・忠綱は郎党の勧める処に従って山陰道より西海道へと移徒したと、『吾妻鏡』養和元年閏2月25日条の記事を以て史上から消えている。
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