郷土資料レファレンスブック

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茂呂遺跡

2006-07-31 | 小茂根
   茂呂遺跡

 昭和26年3月、南関東で最初の旧石器遺跡・茂呂遺跡が発見された。

 故瀧澤浩(当時中学生)氏が遺跡のあった通称「オセド山」といわれる武蔵野台地の関東ローム層から黒曜石の石器を発見したことに始まり、先土器文化の存在を明確にした。
 
 石神井川流域には、この時代(旧石器時代)の遺跡が点在するが、なかでも茂呂遺跡は約1万7千年前にさかのぼるといわれ、旧石器時代を代表する遺跡の一つである。
 
 ここから出土したナイフ状の石器は「茂呂型ナイフ形石器」と呼ばれ、平成11年に東京都の有形文化財(考古資料)の指定を受けた。


 板橋区史 資料編1 考古  1995年 p136
○板橋区史跡散歩(1993) 学生社 p83、123
 板橋の史跡を訪ねる p48 
 まち博ガイドブック(文化財シリーズ70)p45
 いたばしの街道めぐり(改訂4版)p54
 いたばし郷土史事典 改訂版(平成12年)p218
 板橋区の歴史 東京ふる里文庫17(昭和54年)p17、213
 いたばしの地名(文化財シリーズ81)p199、200
 いたばしの文化財 第一集  p22
 金石文(文化財シリーズ46) p38
 茂呂遺跡B地点発掘調査報告書 文化財シリーズ 第42集
 茂呂遺跡C地点 確認調査報告 文化財シリーズ 第49集
 夢を掘った少年たち 小茂根・稲荷台・志村・小豆沢・西台の遺跡
 いたばし風土記 文化財シリーズ17  p45
 「茂呂遺跡の保存について」(板橋史談 第九号)(昭和43)
 東京文化財の旅Ⅱ 毎日新聞社 p131
 板橋氏と板橋城 浅沼政直/著 1009110020862  p122
 江戸東京歴史散歩3  山の手・武蔵野編  p21
 江戸東京物語 池袋・中山道界隈  新潮社編  p166


稲荷神社(小茂根)

2006-07-31 | 小茂根
   稲荷神社  小茂根5-14

 茂呂のお稲荷さんと呼ばれている。祭神は蒼稲魂命。

 現在は東新町の氷川神社の境外社となっている。


 狛犬(文化財シリーズ28)    p56
 板橋の史跡を訪ねる   p48  
 いたばしの神社(文化財シリーズ36)p103
 金石文(文化財シリーズ46) p195

宝田稲荷神社

2006-07-31 | 桜川
  宝田稲荷神社  桜川3-15

 康生二(1456)年、太田道灌が千代田村(現・皇居)に江戸城を築く際、同村宝田村の住民を移動させたのがこの栗原の地である。この時、千代田村内に祀ってあった宝田稲荷もこの地に遷座したという。

 栄町には、かつて、於竹大日如来碑があった。宝田一族ゆかりの「於竹」信仰(出羽三山系)が民間に伝承されたものである。


 いたばしの神社(文化財シリーズ36)p102
 板橋の史跡を訪ねる p47 
 まち博ガイドブック(文化財シリーズ70)p44
 いたばし郷土史事典 改訂版(平成12年)p96
 「宝田稲荷 伏見稲荷にお返しされる」泉貞代(板橋史談第220号)(平成16)
 江戸・東京歴史の散歩道4 (江戸・東京文庫④) p118
 「江戸の旅と流行仏 お竹大日と出羽三山」 板橋区郷土資料館

氷川神社(東新町)

2006-07-31 | 東山町
  氷川神社(東新町)

 創立は不詳。中世以前にさかのぼる可能性もあるという。
 武蔵国一宮氷川神社(大宮)から勧請されたと伝えられる。

 旧上板橋村の鎮守。旧社格は村社。本殿は嘉永五年の改築のもの。

 古老の口碑によれば、この地は、もと「上ノ根(神泥)」と言って、「神流」の義であるという。

 この神社に、平将門が深く信仰した「太刀佩(たちはき)観音」が伝えられている。像高一尺二寸(約36cm)の木彫立像で、衣冠装束姿で笏(しゃく)を棒げ、太刀を佩いている珍しいものである。一説には、将門像ともいわれている。また、将門が金泥で書いたという写経の紙片がこの社に現存している。「大般若切絹金泥平新王御正筆」と記されているとのことである。さらに、将門の宮殿の瓦で造ったとされる硯が伝えられている。これら、観音像、親筆、瓦などは、かっては築土明神の別当寺、成就院に伝えられていた什物と思われ、この成就院が廃寺となったさいに、この社に移されたといわれている。

 絵馬殿には絵馬がかかっている。

 境内には区有形民俗文化財に指定されている郷土資料館があり、郷土資料として農具などが保存されている。

 江古田にある茅原浅間神社は本神社の境外末社である。


 本殿の右前に塚がある。石段を登ると頂上には榛名神社と太宰府天満宮の石祠がある。 


○いたばしの神社(文化財シリーズ36)p43
○板橋区史跡散歩(1993) 学生社 p79
 板橋の史跡を訪ねる p51
 まち博ガイドブック(文化財シリーズ70)p48
 いたばし郷土史事典 改訂版(平成12年)p79
 板橋区の歴史 東京ふる里文庫17(昭和54年)p213
 いたばしの地名(文化財シリーズ81)p196
○いたばしの文化財 第一集  p24
 狛犬(文化財シリーズ28) p8、16、55、72、81、98、120、126、144、153、
              155
 石仏(文化財シリーズ79)p67
 金石文(文化財シリーズ46) p64、65、84、85
 「上板橋村の不動信仰」 手塚一郎  (板橋史談 第111号 昭和60)
 「将門さまと板橋」(いたばしの昔ばなし p70)
 「熊野信仰の展開」 板橋区史 通史編 上 (平成10年) p288 
 江戸・東京歴史の散歩道4 (江戸・東京文庫④) p115
 江戸東京歴史散歩3  山の手・武蔵野編  p20

長命寺

2006-07-31 | 東山町
  長命寺   東山町48
  
 東光山医王院。本尊は薬師三尊。

 創建は不詳だが、過去帳から江戸時代頃と思われる。

 神明社(常盤台駅の天祖神社)の別当寺であった。

 板橋城址 室町時代、豊島氏の一族親盛が移り住み、地名を取って板橋氏を名乗った。親盛の弟親棟、その次男忠康が在城した板橋城がここではなかろうかと想像されている(別の説も多くある)。忠康は北條氏直に仕えたが、北条氏滅亡後ここに戻り、文禄三年(1593)に没して乗蓮寺に葬られた。そして長男は徳川氏に仕えて旗本になり、次男は下板橋宿上宿の名主になった。 


 この境内には数々の石仏がある。


 豊島八十八ヶ所霊場第五十番札所


 
○いたばしの寺院 p75
○石仏(文化財シリーズ79)p57
 いたばし郷土史事典 改訂版(平成12年)p38、183
 板橋区の歴史 東京ふる里文庫17(昭和54年)p211
 板橋の史跡を訪ねる p52
 まち博ガイドブック(文化財シリーズ70)p49
 いたばしの街道めぐり(改訂4版)p52
 狛犬(文化財シリーズ28)  p82、111、128、181
 板橋の仏像 p76、131
 庚申塔(文化財シリーズ78)p25
 金石文(文化財シリーズ46) p144
 いたばしの地名(文化財シリーズ81)p195
 いたばし風土記 文化財シリーズ17  p44
 板橋氏と板橋城 浅沼政直/著 1009110020862 
 改訂版 板橋城址論考 1008610036690(中央になし)
 新編板橋城跡の解明 名越興八郎/共編 1008710052166  
 板橋区史 通史編 上 「板橋区内の中世城館」  (平成10年) p373
 板橋区史 通史編 上 「寺社と庶民信仰」  (平成10年) p854
 江戸・東京歴史の散歩道4 (江戸・東京文庫④) p114

茶面不動

2006-07-31 | 東山町
  茶面不動  東山町6
  
 石神井川沿いにあった四不動のひとつ。
 
 このあたり一面が茶畑であり、これに面していたので茶面という


 石仏(文化財シリーズ79)p57
 板橋の史跡を訪ねる p51
 まち博ガイドブック(文化財シリーズ70)p49
 金石文(文化財シリーズ46) p138
 江戸・東京歴史の散歩道4 (江戸・東京文庫④) p116
 「上板橋村の不動信仰」 手塚一郎  (板橋史談 第111号 昭和60)


御嶽神社

2006-07-31 | 桜川
  御嶽神社 (桜川)

 旧上板橋村栗原(現・桜川の一部)・七軒屋(現上板橋)の鎮守さま。

 祭神は、倭建命(やまとたけるのみこと)・金山毘賣命(かなやまひめのみこと)。

 栗原の地は、康生二(1456)年、太田道灌が千代田村(現・皇居)に江戸城を築く際、千代田村、宝田村の住民を移動させた場所とされる。古くより開けた土地であった。
 この神社も同じ頃、信州の御嶽山(一説には甲州)を勧請したものと伝えられている。

 境内にある嘉永七(1854)年銘の狼型狛犬は、山岳信仰を伝えるもので、狼型のものとしては都内でも有数の古さを誇っている。

 毎年三月八日に行われる毘謝(びしゃ)祭には、強飯式の面影を残す大盛飯の膳、大根で作った鶴亀(逢来山)を神前に供える風習が残されている。
                                           


◎「わが町の鎮守御嶽神社」 松嶋勝男  (板橋史談 第123号 昭和62)
 いたばしの神社(文化財シリーズ36)p89
 板橋の史跡を訪ねる p48
 まち博ガイドブック(文化財シリーズ70)p44
 いたばし郷土史事典 改訂版(平成12年)p80
 金石文(文化財シリーズ46) p87、139、196
 狛犬(文化財シリーズ28) p8、18、37、38、47、55、69、82、127、165
 石仏(文化財シリーズ79)p72
 写真は語る 総集編(文化財シリーズ77)p237
 いたばしの文化財 第2集 p15
 「上板橋村の不動信仰」 手塚一郎  (板橋史談 第111号 昭和60)
 「桜川御嶽神社の狛犬」 松嶋勝男  (板橋史談 第119号 昭和62)
 江戸・東京歴史の散歩道4 (江戸・東京文庫④) p118

五本けやき

2006-07-31 | 上板橋
  五本けやき  上板橋1-19  

 昭和初期の川越街道の拡幅工事の際、当時の上板橋村村長であった飯島氏が屋敷林の一部のけやきを残すことを条件に土地を提供した。
 こうして残された屋敷林が5本残り、「五本けやき」とよばれるようになった。 今では、川越街道上板橋付近のランドマークとなっている。
 平成9年の区民アンケートで「大切にしたい場所や風景」に選ばれた。



 板橋の史跡を訪ねる p47
 まち博ガイドブック(文化財シリーズ70)p44
 写真は語る 総集編(文化財シリーズ77)p189
 わが街・いまむかし(s57) p66
 江戸・東京歴史の散歩道4 (江戸・東京文庫④) p118


安養院

2006-07-31 | 東新町
   安養院   東新町2-30-23

 武王山最明寺。真言宗豊山派のお寺。

 1257年、最明寺殿と言われた北条時頼が、諸国行脚の時に持っていた「摩利支天」をここに安置し、お堂を建立したのがこの寺の始まりだという(「北条時頼の廻国伝説」も参照)。なので、寺号は最明寺という。一説には、中興が北条時頼だともいう。墓地の内に「最明寺殿時頼」の五輪型供養塔が祀られている。

 北条時頼の廻国伝説が伝承される場所は、得宗領の可能性があるという。得宗とは鎌倉幕府の執権、北条氏嫡流の当主のことである。得宗は、鎌倉末期に多くの得宗領と御内人(みうちびと)とよばれる家臣団とを持ち、専制政治を行った。安養院は得宗領を管理する施設であり、のちに寺院に転じたという可能性もあるという(「板橋区史」)。

 本尊は阿弥陀如来。御前立は紅頗梨色(ぐはりじき)阿弥陀如来。これは孔雀の背に乗り、否の落ちる西方を表わす赤色の仏体と、孔雀が拡げた金色の尾羽とは見事な対照を示す類の少ない尊像で、室町期の作といわれる。

 また戦国大名武田信玄の念持仏といわれた、カラクリ造り釈迦一代像も貴重な芸術品である。

 鐘楼にかかる「元禄の梵鐘」は乳頭をつけず、五つの鐘座に真言五仏を梵字で表わす特殊な型であり、国の重要美術品に指定されている。
 「半鐘」の方は、昭和28年に盗難にあったまま行方不明(写真は語る 平成元年4・15)。

 今の庫裏は高崎大河内家の屋敷をそのまま移したといわれ、大名邸の遺構を見ることができる。

 この場所は、上板橋村の村役場があった場所で、近隣の中心地であった。

 板橋七福神の「弁財天」を祀っている。

 「赤い運命(2005)」で白百合園仮宿泊所になったり、大竹修三の葬儀が行われた洸福寺はここらしい。(ドラマロケ地案内より)





○板橋区史跡散歩(1993) 学生社 p81
○板橋の史跡を訪ねる p49 
○いたばしの寺院 p65
 まち博ガイドブック(文化財シリーズ70)p45
 いたばし郷土史事典 改訂版(平成12年)p39
 板橋区の歴史 東京ふる里文庫17(昭和54年)p212
○板碑(文化財シリーズ26) p57、59、62、64、66、67、75、77、78、80、83、 84、85、94、97、98、102、109~113
 狛犬(文化財シリーズ28)  p126、159
○板橋の仏像 p3、107
○庚申塔(文化財シリーズ78)p26
○石仏(文化財シリーズ79)p67
 金石文(文化財シリーズ46) p29、32、145
 いたばしの地名(文化財シリーズ81)p196
 写真は語る 総集編(文化財シリーズ77)p235
 いたばしの文化財 第一集 p17
 いたばしの文化財 第3集 p13、14
 いたばしの文化財 第4集 p20
 いたばしの文化財 第5集 p18
 いたばしの古道(文化財シリーズ45)p137(台橋道)
 いたばし風土記(文化財シリーズ17)p45
 安養院所蔵文書・聖教類目録1~2 文化財シリーズ 
○「安養院の歴史」(板橋史談 第43号)(昭和49)
 「上板橋村の不動信仰」 手塚一郎  (板橋史談 第111号 昭和60)
 板橋区史 通史編 上 (平成10年) p227 
 板橋区史 通史編 上 「寺社と庶民信仰」  (平成10年) p843
 江戸・東京歴史の散歩道4 (江戸・東京文庫④) p115
 落とし穴に落ちた昆虫たち 住民参加で調べた板橋の自然 板橋区環境保全課編
 東京文化財の旅Ⅱ 毎日新聞社 p131
 江戸東京歴史散歩3  山の手・武蔵野編  p21

早瀬の渡し

2006-07-31 | 高島平
   早瀬の渡し  新河岸3-8

戸田の渡しよりも古く、平安時代末にはすでにあったといわれる。

 源頼朝が下総の国府を出発して、荒川を渡って武蔵国府に向かった当時の渡船地点も、この早瀬であったと思われる。その当時より「かまくら道」として重要な渡しであった。

 全長は38間(約68m)であった。

 大正の始め頃の渡し賃は、1人1銭で、自転車の人は2銭であった。

 新河岸川が完成した昭和5、6年ごろにはその機能を完全に果たし終えた。



○いたばしの河川 (文化財シリーズ52) 昭和61年 p22
 板橋の史跡を訪ねる p137
 まち博ガイドブック(文化財シリーズ76)p49
 いたばし郷土史事典 改訂版(平成12年)p136
 いたばしの文化財 第2集 p10
 わが街・いまむかし(s57) p59
 いたばしの古道(文化財シリーズ45)p144(鎌倉街道)
 成増・赤塚 わがまち発見12  p113
 舟渡地誌 板橋区立舟渡小学校編  p107
 板橋区の旧荒川の河岸を訪ねる p23
 鎌倉街道 東京編 風土と歴史を歩く 阿部正道  p34、80